世間一般の「アニメオタク」とは
今回は私の自論話になる。つまり、オチもクソもない。
それを了承の上で読んでいただきたい。
「アニメオタク」多くのアニメを見て、深く自論等を持ち合わせている人々。
特に深夜アニメなどを見ている層を指したりする。
しかし一般的な「アニメオタク」は「キャラクターオタク」であるケースが多い。
真の「アニメ」、アニメーターの真意、作画や原画に熱意を注ぐのが「アニメオタク」の中の「アニメオタク」だと思う。
がこれもまた大きな枠組みの話でしかない。
彼ら「アニメオタク」の中にはさらに細分化した「作画厨」「原画厨」といった分野や「脚本厨」「原作厨」も存在している。
某映像アニメのヒロインが「アニメを作りたいのではなく、アニメーションを作りたい」というが、それこそが「アニメのアニメオタク」だ。
「キャラクターオタク」は声優やコスプレにハマり、フィギュアやガチャに金を投じる。
「アニメオタク」は監督やサントラ、作監にハマり、絵コンテや設定資料に金を投じる。
消費される作品は「キャラクターオタク」向けであるケースが多い。
一方のメッセージ性や映像等に金をかける作品は「アニメオタク」向けになる。
そして後者は大概難解になり赤字になる。
「アニメのアニメオタク」向けはニッチすぎて世間一般に理解されない。
いかに自分たちが少数派であるかがよくわかる。
宮崎駿や押井守、高畑勲、富野由悠季、庵野秀明などといったあの辺の作品に多い。
が、ジブリはそのような癖の強い監督を日本のアニメ界の巨匠と立てることができたのはやはりプロデューサーの鈴木敏夫の力量なのかもしれない。
話が逸れたが「キャラクターオタク」が悪いわけでは無い。また、「アニメのアニメオタク」が、というわけでもない。単に内側にいる人間は深く理解し細分化して個々を持ち、アイデンティティとプライドの中にいるが、外野である世間には大きな枠組みの「アニメオタク」としてしか認知されないという話なのだ。
これは「アニメオタク」にとどまる話ではない。
外野は外野でしかない。しかし内外の交流がなければそのコンテンツは廃れしまう。
オタク特有の「それは違う。」はこの面倒くさいプライドの現れだ。
面白い記事が書けるように努力します。