見出し画像

次の一手を模索中【5】〜これから

 ひとまず終了です。この続きものは私が初めて下書きなしでPCで書いた文章です。少し慣れてきました。次はもっと長いのが書けるかな。

 再び大学受験を目指す日々が始まりました。朝から晩まで授業のある大手予備校のカリキュラムにはついていけそうにないので、先生から紹介を受けた個別指導の塾に通い、英語だけ高3の時から教えていただいている先生に引き続き週一で見ていただくという、週4日通学/3日在宅というサイクルでやってみることになりました。

 本人の体調などを考えると、80分授業の受講は1日2時間がせいいっぱい。また、行き帰りの道のりで思った以上に疲れ、家での勉強も思うようにすすみませんでした。慣れてきたら通う時間を増やそうと思っていましたがなかなかそうはいかず、でもまだセンター試験にトライする気でした。

 そんなとき、高校卒業を機に、長年通っていたこども病院から卒業して、大学病院に移ることになりました。気づくといつのまにか同年代の子の姿はなく、待合室でひときわ目立つ我が子の老け具合。異存はありませんでしたが、転院前にカテーテル検査をお願いしました。先生方は転院後に大学病院でと考えておられたようでしたが、本人が「知っている先生のいるところで」と強く申し出て了承していただきました。今思うと、彼女はこの時もう体調に不安を感じていたのかもしれません。カテーテルは7月に決まりました。

 しかし検査直前の6月の外来でのこと。その日は病院までの徒歩の道のりがいつになく辛そうで、着いた後も待合室でずっと横になっていました。診察を受けるといつもより呼吸の状態がかなり悪く、その場で外出時の酸素ボンベ携帯を言い渡されました。つけなきゃ帰っちゃダメと言われ、調達していただいたボンベを引っ張って帰りながら、娘は「これだけは避けたかったのになぁ」と凹んでいました。

 検査では、心臓の具合はおおむね良好、まだ狭窄が残っていた上大静脈にはステントを入れることになりました。しかし肺は以前より血液が流れにくくなっていて(肺高血圧と肺血管抵抗の悪化)全身への酸素の供給が充分ではなく、体調不良はそれが原因のようでした。また、吸った息を吐くことがうまくできていなくて、体内の二酸化炭素の量が通常より多くなっていることもわかりました。肺の状態は酸素の吸入で改善されると検査の中でわかったため、内服を増やしつつ24時間在宅時も酸素をつける、呼吸はリハビリで改善を目指すことになり、この体調のまま渡すわけにはいかないと、転院は延期になりました。

 娘は在宅酸素になって早々にボンベ携帯で近所の同級生や仲の良かった子と遭遇してしまい、「見られたくなかったなあ」としょんぼりしていて、見ている方も切なくなりました。大人になってからの在宅酸素開始は本人の精神的ダメージも大きく、公共交通機関を利用してひとりで外出するのが思った以上に難しくなりました。バスを使えば途中での乗り換えや最寄りのバス停からボンベを引っ張っての移動があり、地下鉄を使うにしても利用したい出口の近くにエレベーターがあるとは限らないので、歩く距離が増えるか、階段を上るかになります。「全然バリアフリーじゃない」ユーザーの辛辣な評価。今まであまり意識していなかったけれど、いろいろ考えさせられました。自治体もっと頑張って!

 検査と前後して、主治医の先生から「障がい者手帳を申請しては」とお話がありました。いろいろな補助や支援が受けられるので、これから社会に出ていくうえで助けになるだろう、とのこと。いや、今ですか?! 今より中学の頃の方がずっと具合悪かったんですけれども! その時の方がよっぽど助けが欲しかった(私が)んですけど! あと、やっぱり申請できるぐらい具合悪いんですね。それなのにずっと「普通の子と同じように」と言い続けていたんですか? ……言いたいことはたくさんありました。でも、先生方のお気持ちもわかります。もっと良くなるはずだったんですよね。そう思ってずっと経過を見てきてくれたんですよね。でもどうやら、そうじゃなかったっていうことですよね。明言されたわけではないけれど、「これ以上良くはならないみたい」と言われたようでショックでしたが、申請しました。手続きの途中で24時間在宅酸素になってしまったので、1級手帳をいただきました。今までも小児慢性でたくさん医療費を助けていただきましたが、さらに交通費や医療費の補助がいただけることになりました。ありがたいことです。改めて「ちゃんと税金払います」と思いました。

 浪人生活の経過は、はかばかしくありませんでした。夏のセンター模試も点数は伸びず、しかし本人は至極真面目で一生懸命なので、塾の先生もお困りだったと思います。そろそろ結論を出さなくてはならない時期でした。これ以上受験を続けることが本当に彼女のためになるのか。未来の可能性を広げることも必要だけど、今は身体のほうを第一に考えるべきではないか。私が誘った「大学受験」でした。方向転換するなら、それを告げるのも私でなくてはならないだろうと思いました。

 最終的に決め手になったのは、夏の終わりに参加したオープンキャンパスでした。ボンベ携帯での参加で実感したのは、大学の構内は果てしなく(と思えるくらい)広いということ。その中を上下移動し(エレベーターはあるにしろ)、階段式の広い講義室で100分近い授業を一日4~5時間受ける――無理だ、と思いました。今でもこれだけ体調を崩しているのです。万が一受かったとしても、通えるだろうか。――高校受験の時と同じでした。

 「このまま続けても、合格は無理だと思う」と言いました。「うん、なんとなくそう思ってた」娘は寂しそうに笑いました。少し、ほっとしたようでもありました。

 ごめん。お母さんは間違えた。貴女のことを考えたつもりだったけど、あなたの体に良くないことをしてしまった。そして、がんばろうという貴女の気持ちも途中で挫くことになってしまった。後悔と悔恨がとめどもなく湧いてきて、ただただ申し訳ない気持ちでした。

 大学受験を途中で断念することについては大揉めでしたが(誰がとは言いませんが)、本人がそう宣言したためその方向で落ち着きました。週一の英語と勉強を続けたい科目は3月まで続けることになりました。高校の時からずっと英語を見ていただいているおばあちゃん先生にお詫びした時「大学がすべてではないよ。でもせっかくだから勉強は続けましょう」と言ってもらえて、娘も私も少し気が楽になりました。

 迎えた鬼門の12月。ずっと具合は悪そうだったのですが、その朝は人相が変わるほど顔がむくんでいました。慌てて病院に連絡、診察していただくと、肺に水が溜まっていてそのまま入院。睡眠時に呼吸が落ちてしまうのが原因のようでした。強い利尿剤を使って体内の水分を排出し、肺の薬を増やし、寝ているときは人口呼吸器をつけることになりました。NICUで使われている呼吸器では勢いが強すぎて自発呼吸との兼ね合いがうまくいかず、却って苦しくて眠れなくなったりしましたが、先生方が娘に合うような、ごく弱い勢いにも調整が可能で、マスクも小さいサイズのものがある呼吸器を探してくださいました。それをつけて寝るようになってようやく体調が戻ってきましたが、年末年始は家に帰れませんでした。私もパートがあり、泊まれるのは休みの前日だけ。年越しは一緒にできたし、毎日顔は出していましたが、独りで寂しい入院生活だったようです。

 ようやく諸々の調整がついて退院できたのは、1月の半ばでした。自宅の部屋のベッドサイドに、また一つ機械が増えてしまいました。食後に飲まねばならない薬は8~10粒+粉、自分では管理しきれなくなり、薬局にお願いして1回分を一包にしていただきました。おじいちゃんみたいだけど、間違えなくていいでしょと言ったら、そうだねと笑っていました。

 寒い時期ということもあり、当分は家で安静にして過ごし、春を待って動き始めようと思っていました。しかし2月に、世界は一変しました。コロナの蔓延。日本でも緊急事態宣言が出され、基礎疾患を2つ抱える娘は自宅待機を余儀なくされました。春になったら、交通手段確保のために免許を取りに行こうと思っていたのに、お預けに。塾にも英語の勉強にもいけなくなりました。

 そして現在。

 コロナはいまだ猛威を振るい続け、娘の先行きは不透明なままです。でも、体調は昨年の今頃に比べて格段によくなっています。具合が悪かった時は食べることすら億劫そうでしたが、いまはきちんと3食食べているし、薬も飲んでいます(昨年は外出と利尿剤との兼ね合いが難しく、薬を飲むのがおろそかになっていた模様。私にどえらい怒られました)。もともと食に関心がある子なので、今は家族の夕食の献立を考えたり、料理の味決めをしてもらったりしています。食費の管理もされています。無駄遣いは許さない、鬼軍曹になりつつあります。怖いよう。

 7月の終わりまでは「自粛」と言って家から出ませんでしたが、今は気を使いながらたまに外出するようになりました。出かけるまではすごくお尻が重いので、私が「行こ行こ!」とひっぱり出すことが多いですが、いったん出てしまうと、雑貨屋に寄る、食材屋に寄る(久世福、茅乃舎、KALDIは必須)、紅茶屋も行きたい(お茶全般が好き)、お洋服も見たい、ラーメンも食べたい、カフェにも行きたいとなかなか帰ろうとせず、連れ出した私の方が疲れてしまうほど。ボンベのあるお出かけにも慣れてきて、けっこう楽しそうに歩き回っています。

 転院も滞りなく済みました。長年お付き合いいただいた先生方とのお別れは、やっぱり少し寂しかったです。新しい主治医の先生は、前の病院から渡された分厚いカルテを「読むのが大変だったんですよ~」なんて言いながら見せてくれたほんわか系の先生。いろいろ考えてくださって、往診専門の先生と、訪問リハビリの方を紹介していただきました。往診の先生は、調子が悪い時もすぐ来てくださるので心強いです。年明けからは週1回のリハビリと、月1回の往診をメインに、2~3ヶ月に1度大学病院に通うことになりました。

 今、かつてないくらい体調が良いけれど、それはたくさんの薬と酸素のおかげです。それらを減らしてまた具合が悪くなったらと考えると、現状維持がベストかもしれないとも思います。娘の在宅酸素がこれからも続くなら、それも込みで先のことを考えなくてはなりません。だから「なってしまったものはしょうがない。今ある手持ちのカードで、楽しく生きていく方法を考えようよ」娘にはそう言いました。とにかくコロナが落ち着いたら、真っ先に運転免許を取ります! 準備はできています。しかしボンベ持ちで教習してくれるところを探すのが大変らしいです。通信教育で栄養学を学べるところも見つけました。働く場所も仕事の内容も、できそうなことを探していこうと思います。順番で行けば私の方が彼女より先にこの世から去るでしょう。その時彼女が、周囲の方や姉たちに協力してもらいながらでも、一人でちゃんと立っていられるようにすることが、今の私の役目だと思っています。

  この20年、私はさんざん間違えてきました。後悔することは限りなくあり、落ち込むことも何度もありました。でも、時間は戻らない。だから失敗するたび、へこむだけへこんで、そのあといつもこう唱えます。

 「夜のあとは必ず朝がくる。雨のあとは必ず晴れる。時間が解決してくれることもある。明日は明日の風が吹くから、今日とは少し違う日になるはずだ」と。

 次の10年はどんな10年になるでしょう。いいことばかりではないだろうな。でも、いいことにもたくさん出逢えると思います。いま、病気と共に歩みながら夢をかなえたり、誰かの役に立ったりしている方がたくさんいて、そういう方たちのことを知ると嬉しくなります。娘にも、まだまだできることがあるんじゃないかな? それを一緒に探していくことも、今の私の役目なのでしょう。

    今日が辛いから 

    明日も辛いままだなんて思うな

    相変わらず息をしてる 

    揺るがない目も知ってる 

    負けない どうせ君のことだから

    (UNISON SQUARE GARDEN

     『黄昏インザスパイ』)

 娘の人生は続いてゆきます。先は長そうです。だから、慌てないでゆっくり歩いていこうと思います。次につながる確かな一歩のために、

 いまはまだ、次の一手を模索中。

≪了≫

★病気は十人十色、みんな違うので、娘のことはあくまでもひとつの例です。あれこれ迷いながらでしたが、書けてよかったです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

サポートしていただきありがとうございます。もっと楽しく読んでいただけるよう、感性のアンテナを磨く糧にします! そして時々娘3号と、彼女の大好きなAfternoon Teaにお茶を飲みに行くのに使わせていただきます。