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次の一手を模索中【4】〜進む道と現実と

 義務教育終了。守られている時間は終わり、自分で進む道を切り開かなくてはならなくなります。母娘ともども、初めて気づかされる現実の厳しさと向き合うことになりました。

   中学3年。高校進学を考えなくてはならない時期が来ました。学力の問題もありましたが、日々よろよろと学校に通う姿を見ていると、朝8:30までに登校して6時間授業を受ける、普通高校に通う生活ができるとは思えませんでした。そんな時、幸運なことに知り合いの方に、地元の私立高校に通信制課程があると教えていただきました。早速調べてオープンスクールに参加。今の体調でも通えそうなカリキュラムです。試験科目は面接と作文なので、受験の準備も何とかなりそう。ここを進学先にすることに決めました。

 「頑張って普通高校に挑戦してもいいんじゃないの?」という話もありました(誰からとは言いませんが)。でも、仮にどこかの高校に受かったとしても、早晩出席日数が問題になりそう。もう『義務』教育ではないので、落第も中退もあるのです。「今は無理のない通学を優先する。頑張ることは大切だけど、今じゃない」それが私の意見で、引っ込める気はありませんでした

 しかし受験を目前にして、またもや体調を崩します。つくづく我が家の12月は鬼門です。吐き気と食欲不振が続き内視鏡の検査を受けたときに、睡眠中に呼吸の回数が減っていることがわかりました。治療が必要なほど状態が悪くそのまま入院。薬が増え、夜寝る時にだけ酸素をつけることになりました。自宅の部屋に運び込まれる、貸し出された機械。少し前までは想像もしていなかった事態でした。

 年末はばたばたしましたが何とか受験を終え、中学卒業・高校入学となりました。クラスは総勢30名ほど。新しい環境で、できれば一緒に頑張っていけるような友達に出会えるといいな。中学時代友達と楽しく過ごすことがほとんどなかった彼女が、高校でそんな経験ができたらいいな……入学式に参列しながら、母はひそかに期待を膨らませていました。

 しかし、実際に通い始めてみると、学校生活は想像していたものとは違いました。同級生はいろいろな理由で不登校になってしまった子が多く、保護者は学校や教師とのやり取りに疲れ果ててしまった方たちでした。数少ない保護者会に参加し、ほかの方のご苦労や心痛を伺うにつけ、中学時代先生やお友達に恵まれて何とか卒業できた私たちは「そうですか、大変でしたね」「うちは恵まれた方かも」……またです。グレーゾーンでぽつんとひとりでいる、小学校のときのあの感じ(詳しくは【2】参照)。

 「普通の子と同じに」と言われ続けていた私たちは、ここを「3年かけて普通の子と同じ社会生活に復帰する準備をする」場所と考えました。でもほかの方は(学校関係者も含めて)「学校に通えなくなってしまった子が、高校を卒業できるように(そしてできればその先に進学できるように)する場所」ということに重きを置かれていたように思います。授業は課題をプリントまたはレポートで提出。スクーリングは週に2回、しかも授業は1日4時間程度(開始が10:00~11:00と遅いので)。履修している授業は個人差がありますし、授業に出てこない子もいます。みんな、学校にあまりいい思い出がないのです。友達にもいい思い出がないから、積極的にかかわってくることも少なく(やり方がわからなくなっているという面もあると思います)、授業が終わるとみんなそそくさと帰り支度をします。中には送ってきた親御さんが1時間ずっと駐車場で待っている子も。残念ながら、私が思っているような「お友達」ができるような環境ではありませんでした。誰のせいでもないのですけれど。

 学校は中高一貫で校舎は広く、通信課程の教室はそのいちばん奥に割り当てられていました。最寄りのバス停~昇降口~教室まで、娘にとっては結構な距離がありました。スクーリングの日は、階段はキツいのでエレベーターを使わせていただいていましたが、それでも廊下にあるベンチで休み休み「辿り着く」ように登校。帰りはもう完全にHPポイントはゼロ。幸い姉2号が比較的早い終業時間の仕事についていたので、仕事帰りに拾ってきてくれました。でも真面目な性分なので出席率は良く、課題もきちんと提出していたので、成績はいい方で、私はまた錯覚してしまいました。本当は、この時点で気づくべきだったのに。

 高校2年生。小康状態が続いていたので、将来のことを考える余裕が出てきました。私たちは、高校卒業後のことについて話をするようになりました。我が家は長女は大学進学、二女は高卒就職。卒業後就職もありですが、体調を考えると働き方が限られてきます。仕事の選択肢を広げるためにも大学進学がいいのでは、ということになりました。普段を見ていると、食全般に関心があるようなので、本人の希望もあり、地元の食物関連の学部がある大学のオープンスクールにいくつか参加し、彼女の興味と合致するところが見つかったので、進学の準備を始めました。

 でも、見通しが甘かった。長女の時で一度経験していたはずなのに。そもそも大学に行く気なら、その前の高校選びから考えなくてはいけなかったのです。長女は大学で資格を取る必要があったので、受験のためにより各教科の内容を深めていくカリキュラムになっている進学校を選びました。二女は勉強は嫌いだけど実験や実習が好きで、フットワークが軽く身を惜しまず動く子だったので、仕事についた方がいいと思い工業高校を選択。実習や実技の時間が多く、技術系の資格を在学中にとることが奨励され、卒業後の就職率はほぼ100%でした。もちろん進学や、公務員試験を受験する子もいましたが、「そちらの進路希望の方は学校の授業では間に合わないと思うので、各自予備校などで補ってください」と3年の最初の保護者会で明言されて、へえ~ッとなった覚えがあります。

 では通信制は? 学校に縛られる時間が少ない分、個人に任されているところが多く、アルバイトなどで社会勉強をするのもよしとされていました。小さいころから続けていたお稽古ごとを将来の進路と定め、練習に時間を使いたいから通信制を選択した、という方もいました。大半は進学希望で推薦入学が多く、そうでない子はみんな予備校に通っていたと思います。

 振りかえって我が子を見ると、学校以外の時間はひたすら体力の回復に費やしており、予備校に通う余裕はありません。センター受験のために勉強する科目は増やさなければならず、しかしプリント学習と年間15回ほどのスクーリングだけでは、受験に必要な学力を備えることは難しい――よく考えればわかったはずなのに、その時の私は完全に「普通の子と同じ」という言葉に踊らされ、『いけるんじゃないか?』と錯覚していました。

 センター受験にあたり学校の先生から「配慮事項」の申請のお話がありました。初めて聞く言葉でした。いろいろな点でハンデのある受験生により良い状態で試験を受けてもらうためのものです。それまで一般的な受験の形態を想像しながら準備をしていましたが、そういうのがあるならと申請しました。体温が上がりにくいのでヒーターの近くの暖かい場所で、しゃがむのはしんどいのと飲んでいる薬の作用のため、教室は洋式トイレの近くに、etc.……そしたら個室での受験、さらに介助の方が同室してくださることになりました。そうか、特別扱いなんだ。「みんなと同じ」というわけにはいかないと改めて突きつけられたようで、ありがたいけれど複雑な気分になりました。その後、二次試験を受ける学校にも同様の旨を申請。もうとっくに申込期間を過ぎていましたが、担任の先生と学校まで出向き話を聞いていただき、快く了承していただきました。この子が受験するなら、あらかじめ準備が必要なのだと初めて知り、同時に、大学受験を選択したけれど、これ、結構大変なのでは、と、ぼんやりとした不安が生まれたことを覚えています。

 その不安はセンター試験の当日になり、現実味を帯びてきました。まず朝早い。理系の受験科目だったので1日目の始まりは遅い方でしたが、2日間とも18:00までの試験。1日目ですでに体力は使い果たしていました。また、校門から受験会場の入り口、それから割り当てていただいた部屋までの移動距離が長い! 遠い! たくさん参考書の入ったカバンはとても重く、それだけでへとへとになってしまったとのこと。私も朝送り出した時に「これ遠いのでは?」と思い、その場でお話をして試験場の受付まで同行することを急遽認めていただきました。

 そして2日目、受付で終わるのを待っていると、試験を終えたほかの生徒さんたちが続々と出てきました。みんな短いスカートで、生足。生足! 寒くないんか?! そしてあそこの問題がこうだった、あそこはどうだった? とお友達と元気に話しています。あらかた人がいなくなったころに現れた我が娘の姿は、細くて薄くてへろへろに疲れきっていて、マンガやアニメでよく見る、ペラペラになって風に飛んでいくような感じ。あぁこれはあの子たちには太刀打ちできないかもなあ……ぼんやりとした不安は確信めいたものになりました。

 センターの成績も芳しくなく、今年は箸にも棒にもかからないと思われました。「来年の参考にしよう」と二次試験まで受験をさせてみましたが、「同じように」と言われ続けた『普通の子』たちとの差が予想以上に開いているという現実を突きつけられ、「娘の進路は本当にこれでいいのか」という迷いが生じ始めました。考えたつもりでしたが、考えの及ばないところがあり過ぎでした。

 娘は精いっぱい頑張りました。そしてまだ、進路を変える気はありませんでした。それなら私も応援せねばなりません。次年度再挑戦することになり、高校生活は終わりを迎えました。体調は低め安定でしたが、入院もなく、中学に比べると平穏な3年間だったと思います。最後の1年半、本人の希望で普通科の茶道部の活動に加わらせていただき、3年の文化祭に参加したことが高校生らしい唯一の思い出でしょうか。お客様状態ではあったけれどみんなと一緒に当日のお茶席のお手伝いをして、私も見に行ってお点前を入れてもらって、ありがたくて嬉しくて涙が出ました。この高校生活が正解だったのかどうかはわかりません。でもとにかくきちんと3年で卒業できたのはよかったのではないかと思っています。

≪続(次回完結)≫

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