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史上初のセンバツ甲子園中止から思うこと

コロナの影響で部活動がなくなり、豊かな日々を過ごせているやうたです。何を隠そう、僕も大学入学までの10年間野球部に身を投じ、現在も硬式野球部に携わっている。そのため、今回のセンバツ中止には驚いた。待ち遠しく思っていたから驚いたわけではなく、「これだけ利益を追求する組織が中止を選ぶのか!」という驚きである。

高校野球ほどお金が動く部活動はないだろう。甲子園に出場しようものなら、1試合に1000万ほどかかるらしい。(もちろん地域差はあるが)地方大会でも、応援団のバスや飲み物などもろもろを含めると1試合に100万円弱が動く。試合をするときだけではない。野球用品は全てが高額で、ヘルメットやキャッチャー防具などは消耗品で、3年に1度ぐらいは買い換えないといけない。それに、個人持ちのグローブは高いものでは10万ほどのものもある。

さらに甲子園は、春夏とテレビ報道される。新聞社、テレビ局と様々な利権が渦巻いていることだろう。そのおかげでというべきか、そのせいでというべきか、高校野球に対する日本人の興味関心は非常に高く、その魅力に引き込まれる人は少なくない。

でも、それだけキラキラした舞台の裏には、陰の部分もある。

1番問題だと感じるのは、子どもが指導者のエゴに巻き込まれていることだ。指導者は、自分が抱く理想を生徒に押し付ける。「諦めないこと」を「美徳」にして、熱血に指導する。甲子園を目指して、激しいトレーニング、猛練習を積む。僕自身も、真夏にグランド整備をしていないというだけで、水も飲まず4時間ほどダッシュをさせられた経験がある。そこには、1人1人の子どもたちの姿はなく、チームという枠に無理矢理押し込められた子どもの姿がある。

指導者の目に映っているのは、子どもではない。自分の理想である。

今回の中止をきっかけに、甲子園という場所がどのような意味を持つのか考えて欲しい。「ドラマが生まれる」という言葉があるが、まさしくそのドラマは作られているものだ。大人たちにとって都合のいいように、子ども、そして教育現場が巻き込まれているのだ。

子どもたちが、現場の教員が、生き生きと日々を送る時代はいつ来るのだろうか。

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