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「方法論」としての授業のあり方【教育✖️破壊的イノベーション 3】

こんにちは、連休3日目!!
引きこもり続けている自分を褒めてあげたいやうたです。ひきこもることで、誰かを救うことにもなっているだろうし、病院で働く人の負担を少なくしているはずですよね。うん、ポジティブに考えましょう。

さて、今日でラストにしようと思っています。「教育✖️破壊的イノベーション」連載。(ついつい面白かった本は長引かせて、記事にしてしまいます笑)

いきなりですが、みなさんは「方法論」として、授業を考えたことはありますか?

例えば、僕が実践している『学び合い』も方法論として考えると、「理解の早い子が遅れている子を手伝って、全員が課題を達成を目指す方法」として考えることができます。他にも、佐藤学さんが提唱する「学びの共同体」は、グループを固定している点、難易度が違う課題を用意している点は『学び合い』とは異なりますが、方法論として捉えるならば、ほとんど一緒かな。

もちろん、それぞれの実践論には哲学的な考えが含まれています。『学び合い』であれば、「1人も見捨てられない社会を目指して、子どもの一生涯の幸せを願う」というものがベースにありますが、今回はその点に関しては触れません。

純粋に生徒が何かを習得するときに、どのような学び方が適切かということについて考えます。

結論からいうと、全員にあてはまる、ベストな学習方法はありません

「多元的知能理論」というものがあります。よく使われる指標に「IQ」がありますが、知能を一つの視点から捉えるのではなくて、複数の視点から知能を捉えようというものです。(詳しくはリンクを参照ください。)

本書で引用されていた具体例に、アルファベットを覚えることができない少女が書かれています。

ある年に担任になった教師は少女の身のこなし方が一般の生徒よりも優れていることに気づき、体の動きとアルファベットの順番を連動させて覚えることを勧めました。すると、踊りながらアルファベットを順序通りに表現することができ、自分の名前も踊りで表現することができたのです。そこから彼女は単語を覚えるときには、まず踊り、そして書くということをした結果、成績が伸び、最終的には踊らずとも単語を覚えることができるようになりました。

批判するわけではありませんが、一斉授業をするということは、自分がいいとおもった理解の仕方を子どもに押し付けているということです。それは、教師が主導する授業であれば、すべてそうで、その学び方にマッチしない子は成績が落ちます。自己肯定感が下がります。

大事なのは「平均すると成果が上がる」ということではなく、「このタイプの子はこういう学び方をしたら成果が上がる。でも、成果が上がらなかった子についてはこういう学び方が必要かも」という風に個別に考えるべきなんです。

そんなんいまの学校システムじゃ無理じゃん、と思うでしょう。でも、「オンライン〇〇」が普及したら、知らず知らずのうちに、今までの一斉授業のニーズは無くなっていると思いますよ。僕たち「きょうし」のあり方を日々考えていきましょう。

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