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偉大な先輩のクラス開き

おはようございます!今日から新しい年度が始まります!
今年は去年よりもワクワクした1年にしたいですね!!
さて、今日はクラス開きについてお話ししようと思います。

具体的にみてもらった方が早いと思うので、語る内容を見てもらいましょうか。実際はパワポを使って伝えるようにしています。

昨年のクラス目標
①卒業を見据えよう
②ポジティブに生きよう
③メリハリをつけよう
今年のクラス目標
①自分の幸せを求める人になろう
②他者の幸せの邪魔をしない人になろう
③折り合いをつけてうまく生きる人になろう

昨年度と今年度の目標の差は、昨年度は個人の考え方に着目して、クラス目標を作りました。集団で成長してほしいというよりは、1人1人が前を向いて、ビジョンを持って、意識高く日々を過ごせるようにと思っていました。でも、実際は意識高くなんて本当にごく一部です。ていうかそれが当たり前ですよね。社会全体を見てもそうです。

そこで「向上していく集団」ではなく、「安心安全で、充足した空間」を今年は目指そうと思いました。「幸せ」「折り合い」という語を使いながら、まずは満たされる空間を作らないと、向上していく集団にはならないなと思ったからです。それは昨年度中にも薄々思っていて、多くの場面で語っていたことは、次のようなことです。

「命に関すること、いじめなどの人権に関すること以外、僕は何も言わない。それはみんなが楽しく幸せに日々を送って欲しいから。でも、1つだけのルールは行動をする時に他の人がどう思うかを考えること。僕が何も言わないからといって、他の人は違う価値観を持っているからね。」

なぜ、このような語りをするようになったかというと、主に2人から影響を受けました。

1人目は苫野一徳という教育哲学者の人から。
「自由の相互承認」という言葉をみなさんはご存知でしょうか。
「モラル」と「ルール」の話なのですが、モラルは習俗の価値であり、人同士で異なることが多々ある。だから、人はどのようなモラルであっても、それが他者の自由を侵害しない限り、まずは認め合うことを根本のルールにして、その上で誰もが自由に平和に暮らせるための諸ルールを、互いに作りあおう、というものです。少し難しい概念なので、詳しくは下記の本がオススメです。

そして、苫野氏は、学校は自由に生きるために必要なこの「自由の相互承認」の感度を育む場として定義しています。(余談ですが、苫野氏の娘さんは「自由の?」と聞くと、「相互承認!」と答えるそうです笑)

2人目は偉大な先輩から。
3年前に副担を持たせてもらった先輩教員がいました。抜群にクラス経営がうまい。でも、当たり前とされていること、例えば整理整頓されてゴミがないように綺麗にしておくとか、ちゃんと「〇〇先生」と呼ばせるとか、全くないんです。なのに、荒れない。しかも、生徒が生き生きして毎日楽しそう。不思議で不思議で仕方なかったんですけど、先日その理由がわかりました。

卒業生へのメッセージで、年度当初クラスに向けて話したことが引用されており、抜粋すると次のことが書かれていました。

「自分の権利を行使することに躊躇する必要はないけれど、他人の人権を侵すことだけは許されないから」

まさしく「自由の相互承認」の考え方ですよね。こんなに近くで実践している人がいたんだと驚いたと同時に、僕はまだまだ勉強が足りないなと思いました。

この1年は、僕自身もいっぱい学び続けて、子どもたちと一緒に成長していきたいと思っています!!

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