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愛情を持って接するとはどういうことか?【愛】

おはようございます、やうたです。今日はいい天気なので、念願のベランダで読書をしてみようと思っています。

さて、今日は僕の好きな教育哲学者・苫野一徳さんの「愛」を読んで思ったことを書いていきます。

いきなりですが、僕は人と接する際に、特に子どもたちと接する中で大事なことは「愛情を持って接すること」だと思っています。が、「愛情」ってなんだろうと思うことが多々ありました。

みなさんも一度は考えたことがあるのではないでしょうか?「愛」ってなんなんだろうって。

それに答えてくれているのが、この本です。結論を先に言うと、「愛」は次の要素を必ず含みます。

「存在意味の合一」と「絶対分離的尊重」

「???」ですよね(笑)説明します。

めちゃくちゃ身近な例だと、小さな頃から大事にしていたぬいぐるみを想像すればいいかなと思います。お出かけするときも、寝るときも一緒だったぬいぐるみが何者かに切り刻まれたとしましょう。そのとき抱く感情は、単にぬいぐるみがなくなってしまった悲しみだけでなく、自分の身も切り刻まれたような気になると思います。

その時に感じているのは、そのぬいぐるみを自分の一部として大切にしたいと思う「合一感情」を抱いており、自分ごととして受け止めるからです。でも、一方では、それはぬいぐるみという自分とは違う個体だから、自分から「分離」したものとして「尊重」したいという感情も持たざるを得ません

この矛盾する「合一」と「分離」の感情を2つとも有していることが「愛」の条件です。簡単にいうとこんな感じかな。

あなたがいないと僕の存在する意味は十分ではないけど、あなたはあなたとして存在しているから、僕と一緒ではない。

薄々気づいていましたが、相手を思い通りにすることが「愛」ではないんですよね。「あなたがいないと僕は満ち足りない」っていう感覚はなんとなくわかるし、感じたこともあるかなと思います。でも、「自分とは違う存在なんだ」っていうのはめちゃくちゃ難しいなと思います。ついつい、自分の思い通りに他者を巻き込んでしまうことあるなあと思います。

特に、学校現場では、「子どもを自分の思い通りにしたい」という場面を多く見かけます。それは教師からであったり、保護者からであったりします。生徒の行動に関して、本当に様々な場面で管理したがるのは、「分離」ができていないからでしょうね。

僕の実践している『学び合い』は、信じて任せることが必要不可欠です。なんせ50分のうち45分は生徒主導の学びですからね。子どもたちなら自分で、自分たちで問題を解決することができると強く信じていなければ絶対にできません。

偉そうなことを言ってきましたが、僕もまだまだ子どもを思った通りに動かしたいという欲が出てきます。精進していかないとなあ。

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