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集団によって全く違う『学び合い』になる

こんにちは、やっと一週間が終わって、ほっとしているやうたです。
さすがに疲れたなあ〜。

さて、連日も連日になりますが、『学び合い』のことについて、書いていこうと思います。

今、僕は1年生の古典を同時に3クラス持っています。つまり、3回同じ内容の授業ができるわけですね。指示の出し方は一緒のはずです。(もしかしたら、ジェスチャーや声色は違ったりするかもしれません)一緒のはずなのに、子どもたちの動き方は全く違う動き方になります。もう、びっくりするぐらいに。

最初から積極的に動き回るクラスもあれば、最初は微動だにしないのに最後は全員がわっちゃわっちゃしているクラスもあります。私語が多いクラスもあれば、本気度しかないクラスもあります。もちろん課題を全員達成できるクラスもあれば、できないクラスもあります。

『学び合い』には、最後に「語り」の時間があります。大雑把にいうと「全員達成できたかどうか」「一人も見捨てない活動になっていたかどうか」を、教員が語る時間です。

クラスが違うと必然的に最後に語る「語り」はもちろん全て違います。

集団に馴染めない子に声をかけているシーンが見られた時は、「一人も見捨てないを考えて行動してくれている子がいてくれて嬉しい」と伝えますし、明らかにまだ終わっていない子がいるのに、私語をしたり、次の勉強をしたりしている子が多い時は「みんな気付いてるはずだよね。全員達成できていないことに。一人を見捨てるクラスは次の一人を見捨てるよ。それは自分かもしれない」と言います。

難しいのは、一見、全員が達成できているように見せかけて、実は理解していない子がいる時です。そんな時は「全員達成ですね。って言おうと思ったんだけど実は何人か勘違いしてる子もいるよ。僕は本気で全員がわかる授業。一人も見捨てない授業がしたいんだ。次は本当の意味で全員達成できるようにしてね」と語りました。

上記の話した言葉はその時々の関係性や雰囲気で変わります。授業中は、注意深く子どもたちの様子を俯瞰的に観察して、頭の中で何度も今日の「語り」はどうしようと考えます。

型にはまらず、その日のその授業で、集団と本気で向き合っている感覚がいいんだろうなと思います。『学び合い』はどの授業実践よりも刺激的です。

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