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端っこを歩こう

この頃、オムライスを作ることにハマっているやうたです。3日連続でオムライスを食べています。記事を読んでくださるみなさんは、もうお気づきかも知れませんが、僕はなんせ極端です(笑)オムライスも自分が納得するまでは作り続けようとかなと思っています。

最近はマシになってきましたが、なんでも0か100で考えてしまうことが多いんです。そんなことを友人に話をすると、「『中庸』を知るためには、両極を知らないといけないから、いいんじゃね?」と言われました。「中庸」とは、儒教語らしいのですが、Wikipedia曰く、

常に、その時々の物事を判断する上でどちらにも偏らず、かつ通常の感覚でも理解できるものである。

という意味らしいです。

授業というか、学校の話をしますと、僕はこの頃『学び合い』を実践している手前、生徒によく語ることがあります。それは、「折り合いをつけなさい」ということです。僕の感覚では、「折り合いをつける」=「みんなが納得できるように考え、行動する」だと思っています。(つまり「中庸」の立場に立ってねということです。)

生徒にそれを求めるのですから、僕自身も「折り合い」をつけなければなりません。ですが、「折り合い」というのは非常に難しい。

例えば、僕は「生徒が自分で必要な知識を得られるようにする」ことが大事だと思っているので、辞書を使おうが、友達に聞こうが、問題解決できるならばよしというスタンスです。ところが、ある先生は「知っていないと調べようがないから、知識を与える」ことが大事だという視点に立って、一斉授業型の知識伝達授業を行なっています。

この場合、(というかどの問題もですが…)どちらが絶対の正解ということはありませんので、どちらも正しいんです。ちなみに、その先生はアクティブラーニング型の授業もします。僕も一斉授業型の授業を経て、『学び合い』をしています。だから、「中庸」の立場に立って考えようとはしているんですよね。

でも、問題はそれらの議論に参加できない教員が多いということです。そして、その人たちは大体従来通りの授業をして、日々をなんとなく送っています。

「中庸」の考えを適用するならば、何かを判断するには、端と端を知らなければなりません。授業で例えると、1つの端は、知識伝達・一斉授業で、ほとんどの人がそこに集中している状態なので、広いスペースが確保されています。そして、もう1つの端がアクティブラーニング型の授業で、そこはまだ極々小さいスペースしかありません。

僕はあえて小さなスペースしかない「端っこを歩こう」と思います。学校全体として、変化をもたらしたいならば、判断材料が必要です。その判断材料になるために、どれだけ肩身が狭くても、どれだけ批判されても、端っこを歩き続けることが大事だと思っています。

授業だけでなく、校則、部活動、カリキュラム、進路指導、全てに於いて、端っこを歩けるように学び続けます。
子ども達が今より幸せな人生を送れるように!!(ちょっとかっこつけすぎですね)

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