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ウケるコンテンツには解説が多い?

流行の最前線を追いかけているわけでもないけど、それとなく空気感みたいなのは気にしている。

と言っても、私程度が感じることができる空気感は、すでに世間で相当の認知がされているレベルにあるわけなのだけど。。。

テレビをあまり見ないし、街には出かけないし、そもそも人との交流が少ないので、触れられる情報には限りがある。

限りがあるというよりは、選別されてしまう、と言ったほうがいいか?

Googleのアルゴリズムにしたがって、情報を仕入れている感覚だ。


私が見ているのはとても限られた世界なのだろう、とたまに人と話すと痛感する。。


記憶を辿りながら、流行ったものの推移を考えてみた。


今の若い年代にウケているアニメや漫画やコンテンツを見てみると、コンテンツ内に「詳細な解説」が混ぜられているモノが多いように見える。

「それ」がなんなのか、見ている側に頭を使わせるというよりは、解説を始めてしまう感じ。


私の好きな村上春樹さんの作品や、過去の文学とか、生き残り続けているコンテンツは、様々な角度から、複数の描写で詳細な解説が埋め込まれている。

しかしその解説(メッセージ)は掘り下げた人が気付く宝物のような形で存在している。


昔の作品に比べると比喩的な表現ではなくなって、より直接的な表現で解説されるようになった。
気がする

表現しようとしているモノがあって、それを言い表そうとする時に、具体的で直接的な光の当て方をすると、一見わかりやすい感じがするけど、その光の当て方は一面しかあたらないのではないか?

と、思ったりする。


具体的な表現になればなるほど、理解の範囲は狭まって、理解の濃さは上がるかもしれない。

自分の見ている世界を、どういう視点で眺めているかを気付いていれば問題はないと思う。

観察者の視点。

メタ視点。


それがないと、それが全てだと思い込む危険も出て来る。

本当は共通のモノを見ているのに、違うモノを見ている、違うモノをいっている、と感じてしまい、排除の方向に向かってしまうことだってある。

争いってそういうことがきっかけになっている。


岡潔が情緒と呼んだのは、「みんなが観ることができている共通のモノ」なのかもしれない。

岡潔がそこを詳細に具体的にいわないのは、視野を狭めないための仕掛けかもしれない。

なので、文章はやや難解な時がある。



詳細で具体的なモノがウケるのは理解できる。

人は自分で考える時間が減っている。

考える作業に費やす時間が減っているように見える。

とにかく答えが欲しい。そう思っている人が多いように見える。


知りたい と思っている人に「限られた時間で」「詳しく」教えてくれるなら人々はそちらに向かうだろう。

しかし、「それ」は一部分しか教えてくれない。

そこに気付けるかどうか。

「そのようなコンテンツ」が人を賢くはしないだろう。

いや、そもそも賢くなりたい時にそういうコンテンツを求めないのか。


自分で考えて結論を出すよりも、誰かの考えでいいから、誰かの評価で構わないから最短距離で「結論」にたどり着きたい、のが現代なのだろうか。。

ああでもない、こうでもない、と苦しむ時間が楽しかったりするのだけど。



人々は何を「知りたい」のかを潜在的に共有しているように思える。

でも、具体化できてなかったりする。

言語化が難しかったりする。

これを知りたいのでしょ?と気付かせてあげるのがコンテンツの役目かな?

コンテンツの存在理由はそこに在るはず。


私にとって、そのコンテンツとの出会いが、人工知能による紹介になりつつあるのが良いのやら悪いのやら。。。

あ、SNSも出会いのきっかけになっていた。


たまには、全然違うきっかけからコンテンツに出会ってみたい。

そう思うから、本屋や図書館に出向くし、テレビのバラエティー番組を見てみたり、ラジオを聞いたり、新聞を読んだりする。

向こうから一方的に送られてくる情報(コンテンツ)に身を置くのも、時々はしてみる。

大体は疲れるのだけど、大事な経験でありトレーニングだと思っている。


まだ光の当たっていない、自分の欲求に気づけるチャンスだから。。。

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