見出し画像

「自分」なんてものは最初からなかったのではないか?

昨日書いたnoteを後で読み返して、少し引っかかった。

専門家やその道に詳しい人が解説したもの、評価したものを参考にしてしまって、脳内で感覚が変換されてしまうことがあるよね。

そういうのって周りの評価に流されているよね。

それって、自分らしいのかな?

そういうつもりで書いてはみたけども、「そうか?」と思えてきた。


一流料理人が「美味しくない」と判断しても、自分が食べて「美味しい」と思えばそれでいいじゃん、そういう話をしたかったのだと思う。

自分が「美味しいと思う」その感覚は、本当に自分らしい感覚なのか?


私は「自分らしい」とか「あるがまま」に拘っているんじゃないか?と感じた。

「自分らしい感覚」と思っている「それ」だって、生まれてから今まで、多くの他者が介入して、多くの知識や情報が介入して、出来上がったものだ。

それを自分と言えるのか?

どこからどこまでが自分なんだ?


一流料理人が美味しいと言っているのを聞いて、美味しいと感じてしまう自分は自分だ。

一流料理人の評価を気にせず、自分が美味しいと感じるものを美味しいと判断するのも自分だ。

どちらにしても「自分」の判断の時には、過去の経験の蓄積が関係する。


全くの未知との出会いでも、出会った瞬間にその対象の中に「自分がかつて経験したものはないだろうか」と探し始める。

それを手がかりに評価する。

人はそれくらい未知が嫌なのだと思う。


なんだか難しく書いてきてしまったし、私の頭の中も難しい。


こういう時は、「もう、どうでもいいじゃん」という思考になっていくのが私の常だ。

「シンプルに考えよう」という美しい言葉を逃げ道にしてしまう。


感覚とか直感というものも、なんだかんだ言って思考、知識、経験、記憶から作られるのだろう。

Don't Think.Feel.

と言ったのはブルース・リーさんだったっけ?

ThinkもFeelも根っこは変わらない。

与えられたもの、手に入れたもの、受け継いできたもので構成される。


そんなふうに考えていたら「自分」ってなんだ?

と、わからなくなってきた。


多分、自分なんてものはないんだ。

あるがまま、とか
自分らしく、とか

幻想というか虚像なのかもしれない。

自分だと思っている自分の全ては、与えられ受け継がれてきたもので、言ってみれば借り物みたいな感じ。


30歳くらいから漠然と、「管みたいな存在になりたい」と思っていた。

向こうから来たものを、そのまま別の方へ流すだけ。

来たものを渡す。

返すのではなくて、渡す。

そんな存在になりたいと思っていた。


それからしばらく、勉強したり経験したりする過程で「自分自身」を持つのが大事だと思い込んでいた。

自分自身、なんていうものはないのかもしれない。


自発的に、主体的に、何かの行動をとるのが望ましいと思っていたけど、そうでもないのかもしれない、と思い始めた。

10年くらい前に漠然と思い始めた「管」のイメージ。

ここに来てそのイメージがなぜか復活したのも、何かしらの授かりものかもしれない。

自発的でも主体的でもなくていいから、流れてきた何かを堰き止めずに、流れてきたら流れてきたまま、誰かに渡せるようになりたい。

そんな存在であろう。


かつての「在りたい自分」と少し変化が起きている気もするけど、元々の自分に戻っている感じだ。

かつての在りたい自分って、脳で思い描いただけの「在りたい自分」だったのかもしれない。

なんだかんだで、こうして書いていることで気づくことができた。

きっと言葉になっていない色んなことが、私の中にあるのだろう。

言葉にしてみたからこそ、違和感も覚えたし、変化もしていける。

書くっていうのは、少なくとも私にとっては必要な作業なのだわ。


できる限り書いて、言葉にしていけたらいいな。

自分の中で止めているものを流していくためにも。

流れていこう。

流していこう。


記事を読んでいただいて、共感していただけたらサポートをしてくださると嬉しいです。あなたからのサポートを、他の誰かに届けられるよう頑張ります。