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歳を取ると注意してくれる人がいなくなるから

あるドラマを見ていたら「50を過ぎたら、注意してくれたり導いてくれる存在はいなくなる。だから易(占い)をやる」みたいなニュアンスのセリフに出会う。

小さい頃は親がたしなめ、導いてくれる。

学校の先輩、職場の上司、年上のお客さん、などなど年齢が進むにつれて親以外にも導いてくれる存在は現れる。

それとタイミングを同じくして、親の導きは得られにくくなる。

親は弱っていくから。親はいずれ死ぬから。


年上の人でなくても、年下の人でも自分の道標になってくれる人はいる。

私は年齢は関係ないと思っている。


時代背景によって、少しずつ捉え方が違うだろうけど「メンター」という存在、指導者的役割はいつの時代も重宝されていたのだと思う。

将軍、大名には軍師がいたし、内閣には総理大臣のほかにも官房長官、各大臣がいる。

大名は茶人にこっそり相談したりもしていたらしい。

サッカーのチームでもヘッドコーチとコーチはセットで仕事をする。


最後の最後の最終的な決断は一人で行うモノだろうけど、相談する相手、導いてくれる相手はいつの時代も必要みたいだ。

その対象が占いであっても不思議ではない。

三国志に出てくる「諸葛孔明」は天文学?占星術?によって状況を読んでいたみたいだし。

占いによって導きを得るのも悪くない。


ふと自分自身を振り返ってみた。

ここ何年か「導いてくれる存在」は明確にいなかったかも。


歳が進むと叱ってくれたり注意してくれる人はいなくなる。

これは、その通りなように思う。

その自覚があるので、極力自分で律するようにしている。


明確な「メンター」はいないけど、

小説を読んでも、
映画を見ても、
漫画を読んでも、
ニュースを見ても、
人と話しても、

「導き」と「気づき」を得ている。

そういった日常に在るものから得ようとしている。


叱ってくれる相手はいなくなりつつあるけど、「お天道様が見ている」と思うと変なことはできない。

この感覚は占いを参考にするのと近いかもしれない。


この時のお天道様は「在りたい自分」と言えるかもしれない。

お天道様は太陽のことだと思っていたけど、何かしらの比喩表現であるだろう。

神のことかもしれない。

仏のことかもしれない。

わからないけど、「こう在りたい」と思う存在、人物像に見られた時にどう思われるか?そういう感覚を持つ比喩なのだと思っている。


仕事上の具体的な相談は、仕事の仲間にしている。

最良かどうかはわからないけど、進むことができる。

それでいい。


結果の大小や優劣だけを見ていくと、方向を間違ってしまう。

プロセスもそうだし、なにより「進む」「成長している」にフォーカスするのが重要かと思う。

たどり着きたい場所をイメージしながら選択できるので。


叱られたり、注意されるのは、嬉しいものではないかもしれない。

でも、歳が進むと本当にされなくなるものなので、注意してくれたり導いてくれる相手は本当に大事にするといいと思う。


そういう存在が近くにいない場合は、自分で自分を律しよう。大変だけど。

お天道様を自分の中に見つけて生きていこう。大変だけど。


メンターとかコンサルタントとかが職業として成り立つ理由がわかる。

人間関係が薄れているというか、相談相手が近くにいなくなってしまったから、サービスとしての「相談」「導き」を買うのだろう。


そう考えると、先住民とかの小グループのシステムは、難しさもあるけど相談や意思決定のプロセスとしてはうまく機能していたのかも・・・


大きくなり過ぎたのだろうか?現代は。。

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