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肉体は大きくならないけど、筋トレに満足している

これまでの人生で目標設定やゴール設定をやらされた経験はあるけど、それが重要なものという認識はなかった。

2020年8月に思い立って筋トレを始める前に、自分に設定していたことがある。

それは「在りたい自分になる」だった。


「あの人のようになりたい。」

のように明確な存在ではなく、

「自分で選んだことを行える存在になりたい。」

のだ。


自分が在ろうとしている存在になろう、と決めたのだ。


ここには他者の評価や介入は全くない。

「自分がこう在る」と決めた存在に近づくように行動するだけ。



その在りたい自分の1つが、「決めたら続ける、やり抜く」だった。


筋トレもそう。

筋トレの目標が「マッチョになる」とか「体重を●kgにする」とかだったら挫折したかもしれない。

途中でやめたかもしれない。(マッチョになるには、時間と技術と知識が必要)


しかし、筋トレの目的は「自分をギリギリまで追い込んで快感を得る」だったし、筋トレの目標は「続ける」だった。

この設定であれば、日々行うだけで「在りたい自分」に向かっている。

筋トレをやった事実が積み上がって、自分を後押ししている。


やっと気づいた。

目標設定って大切なんだ。

けっこうバカにしてた。すいません。



筋トレほどの頻度ではないけど、散歩も続けている。

歩いている理由は、走れないから、だ。

走るとあちこち痛くなって、文字通りの苦痛を味わう。

それが嫌だった。


走れないのも嫌だったし、走った後に痛いのも嫌だった。

で、走れないから歩いた。

運動不足は自覚していたので。



歩く経験値が増えてきて、筋トレもしていたせいか、昨日ふと「走ってみようかな」と思い立った。

30分くらいの散歩の後5分間くらい走ってみた。

痛くない。

体が走る負荷に耐えられるようになってきたのだ、たぶん。


肉体には負荷が必要だ。

適切な負荷が。

適切な負荷をかけて、肉体をある程度健全な状態に保つのは自分と向き合うために必要な要素だと思っている。


負荷に耐えられないまま自分と向き合うと、鬱っぽくなるから。。。



そんなわけで体の変化、感情の変化を追いかける作業は楽しい。

内観というのだろうか。

この楽しさも記録しておかないと忘れてしまうから、記録も欠かさないようになった。

そうやって1つ1つが在りたい自分に近づけてくれているように思う。


忘れっぽいので、「在りたい自分」とは何だっけ?となってしまいそうだ。

そうならないように、時々振り返ろうと思う。




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