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「わかる」と「わからない」について

先日、こんな記事を書いていた。

「わかりあう」は見てる世界の中で共通点を見つけ合う作業だ、という主張だった。


「わかる」と「わからない」

書いたきっかけは1冊の本を読んだからなのだけど、「発言の真意が伝わらない」とか「誤解されて受け取られる」経験を過去にしたのを思い出したのだと思う。


「もうちょっとわかるように説明して」

と言われて、違和感を覚えたのは一度や二度ではない。


「わかる」っていうのは、話し相手の説明が上手だから「わかる」のではない。

「わかったからわかる」のだ、と思っている。

順番が違うのだと思う。


わからなければ何を話してもわからない
どんな説明を聞いてもわからない

ある人が話をして「わかった」のだとしたら、それは説明を受けてわかったのではなく、わかったからわかったのだ。

わかる状態になったから、「話を聞いてわかる」という状況が生まれる。


「わかる」から「わかる」という体験

わかる状態になれば、話さなくても、話を聞かなくてもわかる。

「わかる」っていうのは、知識というよりは情動?情緒的な体験なんだと思っている。

山ほどのデータがあっても、わかったことにならないのと同じように。


だから、「わかる」には

話すかどうか、
説明をしたかどうか(されたかどうか)、

さらにいえば、

説明が上手いか下手か、は関係ない。


わかっていればわかる。
わかっていないとわからない。

そういうことなんだ。


「わかる」まで待つ

だから、「わからない」と口にする人にたいしては「待つ」のが必要になる。

その人が学ぶために時間が必要なんだ。

その人が経験している何かと、他の情報が結びつくことで「わかる」につながるかもしれない。

世の中は「因と縁」の関係性でできている。



話せばわかるわけではない。
学ぶまで待つ。


「わからない」には信頼と忍耐で向き合う

だから、もしも「わからない」と感じた場合、わからないのを誰かのせいにしなくてもいい。

誰かの説明が悪いわけでも、自分の知性が低いわけでもない。

わかるタイミングじゃなかったのだ。


「あの人の言ってることはわからない」と攻撃や拒絶をしなくていい。

必要なのは時間と出会い(タイミング)だから。わかる時が来る。

問題は「わかりたいかどうか」の部分。


誰かを「わからせよう」としなくていい。

必要なのは「きっとわかる時が来る」って信じて待つこと。

信頼と忍耐。


本当はわかっている。

本当はわかりあえる。

もしも、そうでなかったとしたら、ちょっとタイミングを忘れているか、タイミングが今じゃないだけ。


誰かのことがわからなくても落ち込まないようにしよう。いつかわかるから。

誰かがわかってくれなくても怒らないようにしよう。いつかわかってくれるから。





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