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蒼い風/BlueWind

第1部
 蒼い想い

 洋祐は、舟に立ちながら忙しく切符に鋏を入れている改札員の背後で、何故か立ち止まった。車の行き交う目白通りを睨むと、彼は静かに顎を突き出し、深く息を吸った。そして再び歩み始め、舟の平板へ切符を軽く放り、眩しく視界の開けた外界に出た。

 どんなに心待ちにしていただろうか。最早何ものにも捉われず、過多な遠慮は一切無用、そして自分が自分である為の、ここが第一歩なのだ。そんな希望に満ちた思いだった。

 千石町に在る工業高校を、やっとの思いで卒業したのが半月前だった。タブロウに関わるものに憧れてはいたが、一ミリの文化的な雰囲気にも無縁なまま、解放された檻の小世界で三年間を過ごした。

 彼の高校生時代は校内も荒んだ時期で、留年がたび重なり卒業前に成人していた生徒もいた。校舎内で喫煙する生徒達や、授業を抜けて雀荘に行く者。屋上で喧嘩をしている生徒達、果ては大型トラックを運転して登校し、校庭の隅に無許可で平然と駐車する生徒までいた。

 洋祐は、まだ普通免許を持っていなかったが、どこか四輪の安全性を軽蔑しているところが有り、やはり爆走する度に命の危険性を伴うバイクは、自分の生き方とシンクロして最高だと思っていた。当時洋祐は、10年落ちのハーレーダビットソンと言うバイクで高校に通っていた。四輪に乗った安全性思考のオヤジ共は皆間抜けに見えた。

 彼は、下校時には級友の自宅が有る北砂町に必ず寄った。北砂町にはフラワーなる喫茶店が有り、茶店脇の団地には同年代のガテン系少年達が数人いた。彼等は、仕事が終わって6時以降になると、自分で買ったバイクを自慢するために、フラワーの横あたりまで出て来るのだ。洋祐たちは、ガテン系少年達と自然融合してグループ化して行った。

 或る夏の土曜日の夜だった。日比谷公園の晴海通り側の路肩には、公園の端から端まで数百台以上の大型バイクで埋め尽くされていた。それは、通行人から見ても実に異様な光景で、正に圧倒される景観だった。

 自慢のダボハンを、改造チョッパーにしてデモンストレーションしているサングラス野郎達。円陣を組んで騒いでいるグループ。縁石にへたり込んで煙草を吹かしてしる奴等。マッポの規制も無い昭和の良き時代だった。

 映画では「イージーライダー」が大ヒットして、某暴走族もメジャーでは無かった頃、本当に単車が好きで、走りを楽しんでいる者達が、関東一円の何処からとも無く、うじゃうじゃと集まって来ていた。この頃ヤンキー達は各自徒歩で尖っていた時代で、未だノーヘルで道路を走れていた時代だった。

 グレイのアスファルトにハッツいたら、命と即引き換えなのが、煙草の似合わないガキ共にもその存在感を更にリアルアップして行った。初めは数人の仲間同士で走っていても、段々メンバーが増えて行き、数十台のバイクが一斉に走り始めると、その爆音たるや公害に等しく、世間の注目を徐々に引き寄せるようになって行った。数が増えると最後尾を走っていた単車数台が信号で止まり、追いつかなくなってバラバラになる事も増えて来た。この辺りから赤信号に侵入して、青信号の車を止め、全隊を一気に通過させる者が出て来た。それも勝手にやったりやらなかったり、頗る纏まりが無かったので、全隊を指揮する者の必要性も出て来た。丁度暴走族が出現する創成期であった。

 日比谷公園で一服した後、身内の五、六台で246号を六本木まで南下するのが洋祐達のいつものパターンだった。

 土曜の夜に 日比谷公園へ行ってみな

 マジな男がたくさんいるぜぇ

   突風に劈くキャブトンの唸り声

   根性フルスロットルで

   魂の爆音を聞いてみな

   鳥肌全開で脳みそが転倒するぜぇ

 グレイのアスファルトにハッツいて

 木偶になっちまったら

 俺たちが仇を取ってやるぜぇ

   ミッドナイトエンジェル

   夜明けまでトップギヤだぜ

   禁断ゾーンまでブレーキオフだ

 一秒先のことななんか

 知ったこっちゃねぇんだよ

 そこの四つ輪供 気を付けな

 火の玉ヤローがぶっ飛んでくぜぇ

↓続きです

 目白駅から商店街を、7、8分歩いた辺りで右へ曲がると閑静な住宅街になっていた。裏通りにしては広い路だった。やがて池袋から延びてくる私鉄線の踏切が見えて来た。電車が通過する一二分前になると、それ迄垂直に立っていた虎柄の遮断機が、通行人の承諾も得ないまま一方的に行く手を阻み、紅いランプを点滅させて警鐘音が喧しく鳴っている。線路間際に建てられた家々は、電車の存在自体を全く無視したように、架線に背を向けて、塀とレールのゆらゆらと消え行くその果て迄も延々と続いていた。

 美術系某予備校は、あの煩い踏切手前の左手に、白く塗装されたコンクリート造三階建ての躯体を、周囲の家に気遣ったように、ひっそりと蹲って建っていた。

 洋祐は、ここでデザイン科の午後部に席を置いていた。しかし洋祐は、デザインと言っても世間のあらゆるカテゴリーの流行には一切関心が無かったし、当時は、時代に遭遇したものたちの幾つかを道連れて共に歩んできたおかげか、一応流行の先端を歩いているような若者風情では有ったが、それは、その時代に無差別に配信された文化を無意識に摂取していたに過ぎなかった。

 予備校は、その殆どが油絵科と彫刻科で形成されており、デザイン科はアトリエが二部屋しか無く、未だマイノリティーな扱いだった。アトリエの広さは、一部屋30畳ほどで、建物正面の左手から通りを廻った別館二階の突き当たりに在った。浪人生と言えば20歳前の学生達も多い筈であるが、そこでは絶えず煙草を楽しむ学生達で賑わっていた。アートと煙草は切り離せない関係でもあったし、煙草を吸わない美術系の学生などは、人間としての深さや、発言力も希薄な雰囲気がままあった。最適なのは、マリワナや軽めのドラッグなのであろうが、そこまでの反体制意識に係わり合うことは、浪人生の今は敢えて避けているようだった。

 日菜乃

 石膏像の陰影が昼から大分変わり始めた頃、洋祐は木炭デッサンの手を止めて徐に立ち上がった。風呂屋の洗い場の小椅子ような木製の椅子に座ってデッサンをやっているのだが、洋祐は食パンをかじりながら休憩室に入って行った。木炭デッサンは一般的な消しゴムを使わない。その代わりに食パンの柔らかな部分を軽く丸め、腹の部分を使って描かれた墨色を当たると、驚くほど白く消えるのである。食パンは、二切れもあれば一日のデッサンには事足りるのだが、どこのパン屋も最低半斤単位で売っていたので、苺やピーナツバターの安いジャムも一緒に購入して、余りそうな食パンはジャムを着けて食べていた。

 洋祐は、休憩室の窓を全て開け放ってみた。小春日和の木漏れ陽が、庭木の葉間から休憩室まで差し込んで、その瑞々しい生命の樹影を床板に落としている。この空間は洋祐の他に誰もいない。落葉樹の葉がそよそよと風に揺れると、陽と影もまた美しくはらはらと揺れた。洋祐は、木製の長椅子を横に二つ並べ、その上に俯せて横になってみた。楢材で組んだ椅子だろうか。小学生時代の教室の机と同じ質感で、長椅子の程よい冷たさの木肌が心地良く、懐かしい想いに浸った。

 暫し時間を忘れかけた頃、一組のカップルが会話をしながら入って来た。彼等は、洋祐を一瞥すると入り口近くの長椅子に揃って腰を下ろした。二人は、他愛のない話をしているが、女は良く笑う。男は一見温(ぬる)そうな雰囲気で、丸いプラスティックの黒縁眼鏡を掛けている。洋祐の高校時代には、この手の男は居なかった。教育機関的には、優秀な生徒は僅かな工業高校であったが、皆それなりの緊張感と独特のセンスを持っていた。この黒縁眼鏡の男から漂う温(ぬる)さは、他人に対する優しさなのか、それとも気遣いなのか、洋祐の眼には彼が新しいカテゴリーとして映ったようだった。

 二人の会話から、男は「プリン」と呼ばれているのが分かった。そして女の名前は「ヒナノ」と知れた。ヒナノは肩上まである黒髪と、程よくインディゴの剥げたジーンズが良く似合っていた。奥二重なのであろうか、一重瞼で柔軟な肢体の新しい日本美人に見えた。洋祐が遭遇したことのない上品さがあり、その中に芯の強さも感じられた。洋祐は時々頭を起こして二人を向いた。いや、女を見た。何回か三人の視線が交差したが、二人は会話中に、互いに紙一重で巧く視線を逸らしている。洋祐は起き上がると、煙草を咥えジッポウで火を点けた。そして、二人に何気なく視線を向けたところでやっとプリンと眼が合った。プリンが会話上の笑顔を保ちながら軽く頭で合図して、洋祐の専攻科を聞いて来た。

「どうも、今年から? デザイン科なの?」洋祐は、一寸考えながら答えた。

「一応デザイン科。でも本当は油絵をやりたかったけど、それじゃ食えないじゃん」

「そう、僕もデザイン科。でも彼女は油絵科なんだよね」

 この二人は付き合っているのだろうか? しかし、この重要な気掛かりは、若い故の勢いからか、次の言葉を選択している途中に消えて無くなっていた。

「僕はね、プリンって呼ばれていてね、こっちはヒナノって言うの」

 洋祐は、ヒナノに軽く会釈をしながら、暫く見つめてしまった。プリンが洋祐の名前を尋ねた。

「オレはね、喜多川洋祐って言うんだ」

「キタガワクン?」

 ヒナノが遠慮のない、それでいて聴き心地の良い声で言い放った。一瞬彼女を向いた洋祐は、ヒナノと視線が絡み合い、僅かな時間ではあったが、ヒナノのその声と瞳に射抜かれたような淡い恋心を持ってしまった。二人の会話に洋祐も加わって、三人で会話が始まった。話の殆どが、プリンとヒナノと予備校のトライアングルな話題だったが、洋祐は時折相槌を打ちながらも、充分に満足していた。暫くすると、ヒナノが笑いながら身体を反らせ、グレイの皮バッグに入れてあった煙草を取り出し、桃色のウェットな唇に一本咥えた。そしてマッチを持つと、小母さんが焚き付けの時に擦るような動作で、大きな音を立てながら火を点けた。清純な中に意外性を伴ったギャップが洋祐には好印象に映った。

 洋祐の出身校には工業化学科なるものが有り、クラスの半分近くも女学生がいたが、喫煙する女子高生には品性の欠片も感じられなかった。しかし、このお嬢様風の女性の喫煙光景は、新しいショウを好意的に観ているようであった。洋祐には不透明な会話に、何となく話が途絶えたが、気を取り直した三人は元気を装って休憩室を出た。洋祐はアトリエに戻り、イーゼルの前の椅子に再び腰を下ろすと木炭を手に取った。

「でも何か新鮮で良いな、この感じ」洋祐は、同じ希望を持った者たちと初めて出会った喜びを感じていた。そしてその交流がとても心地良かった。彼は、一寸ぼんやりしながら進学する生徒など一人もいなかった出身高校での、捨てた筈の記憶の糸を辿っていた。

 記憶の糸

 高校一年の一学期の中頃だった。洋祐は、入学後毎日感じていた緩く乾いた無機的な環境と、その腐りそうな躰を危惧してか、内容も良く調べずに危険な柔道部の門を叩いてしまった。バスケット部やバレーボール部それに野球部と、他にも選択肢があったのだが、協調性を優先できない彼は、三人以上でやるスポーツが不得意だった。そして彼は、一対一の最低人数でやれる柔道を選んだのだった。洋祐は柔道部に入部さえすれば、その腐りそうな躰と気持ちを、何とかしてくれるかも知れない。と言う他力本願的な想いがあった。柔道の技を覚えて強くなろうとは決して思わなかった。

 途中入部の初日、放課後部室で道着に着替えるのだが、着替えの途中パンツが気になった。洋祐は、隣で着替えていたF組の島田に聞いてみた。

「ねぇ、これ、パンツ穿いてて良いんだよね?」島田は当たり前のように言った。

「えっ? 脱ぐんだよ、ふるちんだよ、ふるちん!」

「本当に? なんか嫌だなぁ、擦れると痛いじゃん」

 洋祐は独り言のように言った。道着に着替えて体育館に行くと、既に入部と言うか、拐われて来たような一年生部員が他に八人居た。一年生は遠くから見てもすぐに分かった。彼等は一様に肩を落として覇気が無いのだ。戦後、シベリアに抑留された日本人の捕虜達を想像させるような雰囲気もあった。彼等は、自分たちで敷いた柔道用のタタミの上で、先輩達から稽古を付けて貰っていた。

「拐われた」と言うのは、洋祐達新一年生が入学して初めての朝礼だった。校長先生の挨拶も終わって全員解散になった頃、校舎から愚連隊のようなオヤジ顔の先輩が二人出て来た。そして、一年生の列にやって来て、目星を付けた新一年生にこう言ったのだ。

「お前さぁ、名前何てぇの?」聞かれた一年生もこのオヤジに逆らうと怖いので、すぐに自分の名前を言ってしまうのだった。

「えっ? 柳田ですけど』

「そう、柳田ね、で、何組だよ?」

「F組ですけど」オヤジ顔の先輩は、持っていた紙切れに素早く柳田の情報を書き込んだ。

「F組か、あのさ、今日からお前は柔道部員だからさ、授業が終わったらすぐに部室に来いよ。部室は体育館の裏だからよ」

 理不尽な勧誘と思っても、誰もオヤジ顔の先輩が怖くて逆らえなかった。こんな調子で、明るく未来の希望に燃えた新一年生が八人ほど、奴等に拐われて柔道部員にされてしまったのだった。洋祐は、この学校ではっきりしているものは「力」のような感じを持った。

 放課後の練習は、当然だが毎日あった。洋祐的には、基礎練習が死ぬほどキツかった。毎日6走Km、うさぎ跳びやダッシュ、腹筋、腕立て伏せをやらされた。この時洋祐は身長183cmで体重が65Kg程度であったので、ひょろひょろだった。柔道をやれば太れるかな? と淡い期待もあったが、彼は柔道部の精神的負担が大きくて、実際に腹筋が割れたりもしたが太れなかった。走ると言っても6Kmくらいだが、体力の無い洋祐にはかなりしんどかった。洋祐は柔道部に入部したのをすぐに後悔した。しかし、自ら入部をした手前、辞めたいとは言えなかった。洋祐のいるB組には、他に柔道部員が3人いた。彼は、その中の寄席研究会にも所属していた中川に話を持ち掛けた。この寄席研究会には、戦前桂米丸氏が所属していたらしい。

「退部? 何言ってるんだよ。洋祐が辞めたら連帯責任で俺たちがしごかれるんだよね。クラブを辞めたかったら学校を辞めるしかないよ」

 連帯責任と言う軍隊めいた言葉が返ってきた。中川は、元々寄席研究会にいたのだが柔道部の悪たれ先輩に引っ掛かって、半ば強制的に柔道をやらされていた。これが洋祐が産まれて初めて経験する縦の社会だった。〈馴染めないなぁ、体育会系〉そう思ったが仕方なかった。洋祐は、この日辺りから卒業まで、家でも学校でも笑えなくなって行った。授業が終わったら地獄のクラブが待っていて、そのプレッシャーから、日々を楽しめなくなっていた。しかし、確かに緩く乾いた日々の生活からは、完全に抜け出せていた。

 ある日の部活で二年生の高須賀が、整列した一年生を前にして妙なことを言い始めていた。内容は、たとえ自分たちが豆粒に見えるくらい遠くにいても、自分たちを見たらすぐに大声を出して挨拶しろ、と言うのだ。

「これは連帯責任だからよっ、全員一分投げ10本だ。ほら、2人づつ組めよ」高須賀はストップウォッチを押しながら怒鳴った。こうして何某かの理由を探し出して理不尽なしごきは毎日続いた。しごきは他に、2センチ程度の間隔で市松模様の凸凹になっているタイルの屋上が有り、そのタイルの上で正座をさせられる、所謂キャラメルと言うのがあった。基礎練習は腕立て伏せやうさぎ跳び、腹筋、ダッシュそれに声出しが有った。声出しは気合いの練習だが、内臓が喉から飛び出すくらいの声を要求された。

↓続きです

「もっとデカイ声を出せよっ、ウラーッ、がなるんだよっ」

 先輩が怒鳴る。両手を膝について、荒川の土手のコンクリートに大量の汗を垂らしながら、洋祐は何も考えられなかったが、このしごかれている時間が一番精神的に安定していたようだ。

 柔道部に高石と言う三年生がいて、この先輩が一年生の頃、先輩の理不尽な言動に腹を立て、ある二年生を殴りつけたと言う。これが原因で彼は先輩から一目置かれてしごかれなくなった、と言うのだ。洋祐はこの話を聞いて、縦の社会なんてこんなものかと思った。一般的な会社は、上司と部下の関係が出来ていて、上司に逆らう事が度重なり一旦眼を付けられると、他の部署への異動話が出たり、或いは、仕事が激減したとか、自分の仕事が満足に出来ない状況が出てくるが、当高校では、年齢と言う上下関係しか存在しないので、そんなものは「強い力」で何処かに吹き飛んでしまうのだと思った。

 日菜乃のこと

 一時間後、木炭デッサンに若干の疲労を感じた洋祐は、投げやりにカルトンを畳むと、壁際のラックにそれを突っ込んで、椎名町駅から6号線を越えた所に在ったアパートに戻った。

 アパートの玄関は、共同玄関になっている。間口と奥行きが共に三尺で、アルミサッシの外開きドアであった。そして、入ってすぐ靴を脱ぎ、壁中に造られた自分の下駄箱に靴を仕舞うのだ。靴は二足も入れれば一杯になったが、洋祐はバスケットシューズ一足しか持っていなかったので、特に狭い下駄箱と言う認識がなかった。このアパートは、大家の女主が家の半分を住居にしていたので特に狭かった。一階のすぐ左が洋祐の部屋になっている。立って二畳寝て三畳の変形で、極めて狭いこの部屋は、押入れの上部の所だけ壁から迫り出して造作されており、下部は寝た時に足が伸ばせるように、柱も襖も何も無いのだ。

 洋祐は、要町に住んでいる母方の叔母とこのアパートを探したのだが、旦那が面白い人だった。防衛大学に現役で合格したが、10代に興味を持った音楽に対する想いが捨て切れず、一年生の在学中に東京藝術大学音楽部の作曲科を受験した。そして見事に合格した変わり種であった。洋祐が浪人生活を始めた当時は、某音楽大学で教鞭を取っていた。中学生だった洋祐を東京藝術大学の石膏室に連れて行って、美術に対する関心を更に持たせてくれたのもこの叔父だった。

 洋祐が中二の或る梅雨の日曜日、叔母夫婦は、洋祐を誘って東京芸大のある通りに来ていた。道路を挟んで反対側には、弁柄色の煉瓦を積み重ねた高く大きな塀が続いており、叔父が「あれが音楽部や」と指差して教えた。やがて見えて来た美術学部の大門は、休日であったので閉ざされたいた。その大門のやや左手に建てられた小さな守衛小屋の前に、一人の年配の男が制服を着て立っていた。叔父はキャンパスに入ろうと守衛に交渉した。最初守衛は首を左右に振ったが、そのあと、恐らく音楽部上層部の教授の名前を知り合いとして告げたのであろう、守衛は笑いながら大きく頷いて大門脇の通用口から皆を中に入れてくれた。

 学内には、叔母夫婦と洋祐の他に誰も居なかった。照明は全て消灯されており、外から差してくる雲掛かった行灯のような太陽光だけが頼りだった。暫く、テレピンオイルの匂いがする暗い廊下を三人で歩いた。廊下の左右には大きなアトリエが幾つも続いていて、その中を彷徨いながら進むと、木枠のガラス窓越しに石膏像が幾つも見えて来た。「あっちに行って見ようか」叔父がそう言って先に歩き出した。石膏室の入口らしき木製の戸を横に引くと、そこには洋祐の見た事も無い光景が広がっていた。

 東京藝術大学美術学部の石膏室。今は無き木造で、幅約30m、奥行き約50m、天井高が10mも有ろうかと思わせるその空間には、なん百体とある大小の石膏像たちが、当時の歴史的断片を感じさせながら措かれていた。中でも、洋祐の眼を引いたのが、建屋の空間を形成する太い梁と、床に座した馬に跨った騎士の、1トンは有りそうな巨大な石膏像だった。一つ一つの石膏像に数百年に及ぶ時間の長さと重厚さを感じた。そして、その時代の貴族や農民たち怒号、歓喜の声、多くの人々の意思と思惑が、石膏室の冷えた空間の中で回遊する巨大な群となり、洋祐を呑み込んで行った。洋祐はその空間の中で溺れそうな錯覚をに囚われた。彼が美術と言うもの壮大さと、何か厳かなものを感じたのはこの時だった。

 次の日、洋祐が予備校に辿り着いた頃には昼を大分過ぎていた。高校生の頃、毎日のように遅刻していた癖が抜け切れていなかった。疲れた足取りで二階に上がる階段の途中で、洋祐は低く尖った声を背中に聞いた。「遅い!」しかし、それは確かに以前洋祐を射抜いた声だった。洋祐が踵を返して声の主を振り向くと、薄暗く冷えた階下を背景に、バラのごとく微笑んだヒナノが艶やかに咲いて立っていた。ヒナノは、オレンジ色のミニワンピースを爽やかに身に着けて、白く形の良いしなやかな脚は視覚のアウトフレームから眩しく輝いていた。

「どうしたの、遅刻よ」

「あっ、何か疲れちゃってね。今日プリンは?」

「用事が有るって言っていたわ、後から来るみたい」

「そう、でも彼って優しそうだね」

 やはり、洋祐はプリンの存在が気になっていた。

「貴男も優しそうに見えるわよ、ふふ」

「えっ、本当に? なんでそんな事。そうだデッサンやらないとね、また後で」

 ヒナノには、只たじろいでしまうばかりだった。美しいもの、暖かいもの、穏やかなものに憧れる本能と裏腹に、自分が今やらねばならない事が疎かになりそうな危機感も当然あった。しかし、そんな事も男が両立出来ないで大望を遂げられるのか、と言う自分に取って都合の良い考え方のシステムもまた並行して働き始めていた。洋祐はアトリエに駆け込み、昨日のデッサンを再開したが、2時間くらい経った頃、ガーゼを叩き墨を払い落とすと休憩室に入って行った。中には二、三人のデザイン科の学生と、端の窓際ではプリンとヒナノが楽しそうに会話をしていた。洋祐は二人の横顔を見ながら近寄った。するとプリンがそれに気づいたようだった。

「あっ、喜多川くん元気してる? 今君のこと話してたとこ」

 プリンが背筋を伸ばして洋祐に言った。

「君、バイク持っているんだって、どんなの?」

「ハーレーさ、プリンは何か持ってるの?」

「マジで? オレはベレットだよ」

「ああ、確かあれって、いすゞのGTで1600ccだったよね」

「そうそう、良く知ってるね」

 車の話題になった時に、プリンのあだ名の由来をヒナノが教えてくれた。

「前にプリンがスバルの軽に乗っていてね、その時の車体の色がクリーム色で、屋根の色が焦げ茶色だったのよ」

「それでなんだ? アハハ笑える、ハハハ。でもさまだ18歳じゃん、もう車の免許持ってるの?」

 洋祐が不思議そうに聞くと、プリンが答えた。

「18歳になって、すぐ軽自動車の免許を取ったんだけどさ、その後にね、今度軽免許が廃止になるので普通免許証にしてあげる、って警察に言われたんだよ。あっいけない、ちょっと用が有るんで先に帰るね」

 プリンは、ヒナノと洋祐にそう告げて休憩室を出た。洋祐はプリンの後に座ったが、丁度彼女の真横に並んだ形になった。ヒナノと洋祐は、初めて二人切りになった。

「ねぇ、ヒナノってどんな字を書くの?」

「こう書くのよ、ほら日菜乃って」

 彼女は洋祐の手を取って、人差し指でゆっくり掌に書いて見せた。その時、日菜乃の掌の暖かく柔らかな感触が洋祐を驚かせ、美しい桃色の爪と白くしなやかな指が、洋祐の掌で艶めかしく動いた。そしてシャンプーの香りが追い討ちを掛けるように、彼の本能の領域を侵して行った。それから日菜乃は家族の事を話し始めた。

「私にお姉ちゃまがいてね、二木さんと結婚したのね。二木さんはね、お父ちゃまの運転手だった人よ」

「お父さんの運転手と結婚? お父さんは会社とかやっているの?」

「江戸川区の方で鉄鋼会社をやっていたのだけれど、私が中二の時に死んじゃったの」

「そうなの、それで父親の死後に運転手が憧れのお嬢様に手を・・・」

 洋祐は最後の言葉を呑んだ。二木の奴が汚いとも思った。

「二木さんてね、結構大きくて体格も凄くて、マウンテンゴリラってあだ名なのね。それでね、何時も軽自動車を運転しているのだけど、この間、後ろから他の車に煽られたんだって。軽だからって良く有るらしいのね、そう言うこと。それで、車を道路脇に止めて二木さんが外に出て相手を睨みつけたら、向こうがビビって逃げちゃったんだって」

 日菜乃は大笑いしながら話した。二木の手柄話に嫌悪感を催した洋祐は、彼女の出身校を聞いてみた。

「出身校? 学習院よ」

 こう言った学校が存在しているのは知ってはいたが、まさかこんな身近なところで聞くとは思っていなかった。

「二木さんって、どんな車の運転手をしていたの?」

「ベントレーよ」

「高級外車だぁ、二木さんに言っといて。今度勝負してやるからって」

「えっ? あなた何を言っているの?」

「腕相撲でね、さてとシゴトしないとね」

「そう、じゃ私は修行にでも行きますか」

 この予備校では、デッサンの事をシゴト、トイレに行く事を修行に行くと言っていた。

 日菜乃が箱入り娘の無菌状態で育った事は、すぐにわかった。姉が父親の運転手と結婚した事も頷けた。それは、二木の仕掛けた罠にまんまと嵌ってしまったのだと思った。普段は従順で紳士的な運転手も、実は粗雑で強引な男の本性を、事或るごとに印象付けて、お嬢様の育った環境に無かった不思議な魅力に感じさせたのだ。洋祐も、工業高校という粗雑な環境で、時には校内で暴力を振るった事も有ったし、何か二木と共通しているものを感じていた。しかし、心の何処か奥底では、二木に先を越された嫉妬めいたものも有ったような気がした。そんな事より、自分は、日菜乃との出会いを有意義なもの、美化されたものでありたいと、心の何処かで思っていた。たかが男と女の偶然な出会いを、奇跡の出逢いなどと信じたかったのだ。

 回 想

 洋祐は、日菜乃を喫煙所に一人残してアトリエに戻った。アトリエに戻った洋祐は、木炭を持ったまま高校時代の修学旅行を思い出していた。

 某年の11月だった。上野駅から夜行の修学旅行専用列車で出発して、早朝盛岡駅に到着した。駅からは専用の大型バスで旅館に到着。重い荷物だけを旅館に置いて、そのまま市内の観光名所を回遊した。そして旅館に戻って最初の夜だった。

 夕食は大広間で一同に、と言う形ではなく各部屋に中居さん達が運んでくれた。部屋のメンバーは学校が終わったらすぐ帰宅するような、所謂真面目で目立たない生徒たちが4、5人一組になって、その中に洋祐も居た。各部屋での夕食が終わった頃だった。広目の廊下を大人数で騒がしく走る音と学生達の喚く声が混合し、それが地響きとなって聞こえて来た。尋常では無い気配が強く感じられた。工業化学科に在籍していた肉食系ヤンキーは、各組に一人ないし二人ずつくらいであった。彼等はそれぞれ単体で活動していたが、電気科のハイエナ達は常に5、6人で彼等に夜襲を掛けて行った。

 旅館の中庭で、浴衣姿も露わなA組の小林が奴らに捕まった。F組の加賀谷は近くの男子便所に小林を連れ込んだ。小林は、頭から便所に投げ込まれ、立ち上がって振り向いた瞬間、顔面に加賀谷の蹴りが入った。小林は口元が真っ赤に出血していたが、更に山口のゲソパンがボディーにめり込んだ。小林は、事態が全く飲み込めず暫く黙っていた。

「喋れないのかよ、コノヤローッ?」加賀谷が右の肘で威嚇すると、小林は怯んだ。焦った小林は、分けも解らず恐怖心からか、ついに、奴等に魂を渡してしまった。工業化学科は、A組からD組まで四クラス有った。クラスには二人ずつくらい尖った生徒が居た。特に意識して尖っている様子も無く、生まれ付いての強気が表面に出ている感じだった。草食系男子には肉食系に見える程度であり、組織造りにも無関心。こんな学生達が電気化学科のE、F組に狙われた。修学旅行期間にA組からD組まで順繰りに単体ヤンキー達が次々と夜襲されて行った。工業化学科の生徒達は横の結束が無かった。

 洋祐の部屋はノンポリの御坊ちゃまばかりだったが、一人だけ元気の良いC組の中里が居た。中里は洋祐と顔見知りだったが、眼つきが鋭く中学から続いた坊主頭だった。食事が終わって各人がくつろいで居た時だった。洋祐達が居る部屋の扉が急に開けられていきなり4、5人の学生が入って来た。先頭に居た者が大声を張り上げている。その中の一人が中里を見つけると、加賀谷が小走りに部屋に入って来て、いきなり宙を2mほど飛んだ。両足をピタッと付けて、頭を前方に砲弾系で飛んだ。そして、その頭は座敷の奥に座って居た中里の顔面へと放物線を描いていた。一瞬驚いた中里の上体が大きく反って、加賀谷の肩が中里の顔面に接触した。中里は叫ぶが、立ち上がった加賀谷は中里の頭部を蹴りながら凄んだ。加賀谷は中里を怒鳴ると、更に左から掬い上げるように彼の顎を拳で打った。中里は頭の中が真っ白になった。とにかく何故こうなったのか?と言う状況がまるで見当もつかないのだ。中里は、この場が早く終わる事だけを願ったが、途中から奴らは中里の頭を上から一斉に殴り始めた。そして、中里もまた魂を捨ててしまった。

 洋祐は、加賀谷の中に遊んでいる様な、ゲームの様な感覚を感じていたが、行きずりの喧嘩では無いこの計画的なやり方がどうにも腑に落ちなかった。加賀谷はこの部屋に洋祐を確認してはいたが、以前二人は校内で、止めが入って決着は付かなかったがタイマン勝負をした事も有ったので、眼も合わせずそのまま引き上げて行った。洋祐が実際に見た夜襲は、中里のこれだけだったが、その夜は他のクラスの尖った連中も締められたようだった。洋祐と同じクラスの井戸は、トイレに連れ込まれて鎖で殴られた。

 当初、奴等は拳で殴っていたが、自分の手も同じように負傷することを知ってからは、拳以外の道具も使うようになっていた。暫くすると彼等の間で自分の拳に包帯を巻くのが流行って、それが徐々にステータスになって行った。肘打ちを使う山口は、肩から三角巾で腕を吊っていた。修学旅行の帰りの列車は、包帯を手に巻いたヤンキー達が用も無いのに通路を行ったり来たり、誇らしげに手を上げながら闊歩していた。

 その数日後、校内には加賀谷組なる団体が結成されて、更に勢力を拡大して行った。洋祐の眼前で締められた中里は、後に加賀谷の麻雀相手になっていた。

 予備校の講評会 

 洋祐は、ここで我に帰り、再びデッサンを再開するが、彼の頭の中は日菜乃一色で、自分が今何をしているのかそんなことはどうでも良く感じた。脳の禁断の領域を侵されてしまった彼は、落ち着かなかった。苛ついている分けでも無かった。過去に女性を空想することは無かったが、日菜乃はそれまでの女性と全く違って見えた。上品で判断が早く、程よい身長としなやかな肢体。洋祐は日菜乃に夢中になってしまった。
 予備校のカリキュラムは、毎週土曜日にデッサンの講評会があり、洋祐も必ず参加した。作品の出来が悪くても必ず提出して批評を仰ぐ。これが受験生のアーティスト魂だと思っていた。しかし、成績は散々たるものであった。芸大を狙っている学生の中には五浪や六浪とかもいて、それを知った洋祐は、少々成績が悪くても徐々に気にしなくなって行った。
 講評会が終わって洋祐が廊下に出ると、人混みの中、学生達を躱しながら、蟹あるきでプリンがやって来た。彼は、洋祐に気付くと笑顔で話し掛けた。
「やぁ、喜多川君、講評会はどうだった?」
「いやー、大したことないよ。プリンは?」
 デッサンが上手く出来ないのは無理では無かった。横から木炭紙を見れば薄くて白い不透明な紙に、さも立体の像と空間が存在しているかの如く、作為に満ちた方法で描いてゆくのであるから。それを技法と呼ぶのだが、これは、俗世間の詐欺師たちがやっているようなことを、別の方法でやっているのと同じことである。それを洋祐はこの年の春から始めたばかりであるから、技法以前に何か身体にしっくり来ないものも感じていた。洋祐は、以前から気になっていたことをプリンに切り出した。
「日菜乃も講評会なの? でさ、話変わるけど日菜乃ってプリンの彼女なのかな?」
「えっ? 違うよ。へー、気になるんだ。なら君が付き合っちゃえば?」
 プリンは躊躇わずにそう言った。
「でも、何時も二人は一緒に居るじゃん」
「うん、オレ達デザイン科の午前部はさ、現役からずっと一緒なのね。日菜乃も現役時代から油絵科にいてさ、それで顔見知りになってね。ずっとみんなグループなんだよ」

 油絵科の日菜乃は、何時もデザイン科の近くまで来てプリント一緒にいた。普通に考えても不思議な感じだった。こう言う場合、同じ大望を持って居る者同士がその何割かを共有して、刺激や喜びや苦しみを分ち合い、挫けそうな心を励まし合いながらこの暗い時代を生き抜いて行くはずなのだが。日菜乃は、そんな共有の望めない場所に自ら出向きプリンと時間を過ごしているいる。それも一年も前から。この日菜乃の行動にも洋祐は漠然とした違和感を感じていた。少し話したあと、プリンはアトリエに入って行った。洋祐は、日菜乃のことが気になり油絵科のアトリエを探した。

「キタガワクン!」運良く横の廊下から日菜乃に声を掛けられた。
「あなた講評会はどうだったの? よかったの?」
「イマイチね。日菜乃は?」
「まぁまぁかな、ねぇ茶店に行かない?」
 洋祐と日菜乃は予備校前の通りを暫く歩き、商店街手前に見えて来た目白茶房に入ることにした。厚いアクリルの透明ドアを引っ張ると、ドアの上部に付けてある鈴が揺れ、すかさず小さな澄んだ通る声で二人を歓迎するフレーズが聞こえて来た。二人は、中程の四人用のテーブルに向かい合って座り、アイスコーヒーを其々に頼んだ。この茶房のママは、ラテン系な雰囲気のスリム美人で、烏の濡羽色の黒髪を、後方で単つに纏めたポニーテールが印象的だった。奥のカウンターの中で、女の娘がカレールウを仕込んでいた。トミちゃんと言う可愛い娘で、洋祐達と同い年らしい。

「ちょっとオレ、実家に電話してくるね」洋祐はそう言うと、茶房入り口脇に置いてある薄いピンク色の電話に向い、受話器を撮ってコインを入れた。電話を終えて席に戻る洋祐を、日菜乃は大きな瞳で見上げながら言った。「あなた、今関西の言葉で話していたわ。でもあなたの実家は江東区じゃなくて」
「オレさ、親と話す時だけ関西弁になっちゃうんだよね。これってそうは簡単に直らないしね。オレ、生まれは兵庫県なんだよね。親父は神戸出身でお袋が九州の佐賀県なのよ」
「でも、いつ東京へ来たの?」
 洋祐は、父親の仕事の関係で11歳で東京に来たことや、中学、高校の頃の思い出話を日菜乃に話して聞かせた。

 瀬戸内海

 爽やかな風が、潮のフレーバーを微かに漂わせて街中を吹き抜けていく。瀬戸の豊かな海をマザーに抱え、東側の金ヶ崎から内陸に八キロほど入った入り江になっている。穏やかな波は、心地良い陽光を浴びながらきらきらと水面が輝き、それはまるで洋祐を読んでいるかのようだった。

 山陽本線相生駅から海側へ南下したところに播磨造船所の社宅があった。洋祐は、両親と三つ違いの妹の四人でそこに暮らしていた。駅から造船所へ延びた中央のの道路はアスファルト造りだったが、脇へ続く道路は殆どが土と砂利で出来ていた。土や砂利の道路は、強風の時には白い土埃りが舞った。洋祐の家は駅を背にして中央の道路の右手、カトリック系のテレジア幼稚園の裏側に在った。この辺り一帯は、播磨造船所の社宅になっており、社宅は木造平屋建て四軒長屋の造りで7、8棟が並列に建てられて、更に一棟単位をリンポと呼んだ。江戸時代の町人長屋と同じ雰囲気だった。

 社宅の長屋は、テレジア幼稚園に近い端から、ヒロちゃん、洋祐、よっちゃん、タカちゃんの家の四軒が薄い壁で仕切られていて、近所には同い年くらいの子供達が大勢いた。洋祐の家は、ヒロちゃん家と同じ一角に便所が向かい合わせで並んでいて、洋祐が用を足していると、隣でも便所に入って来るのが扉の開閉音で分かった。洋祐は、それに気付くと何時も薄い壁を「コンコン」とノックした。そうすると必ず向こうからも「コンコン」と返事が返って来た。何時も声を掛け合って親しくしているお隣さんでも無かったが、なぜかこう言う時には格段の連帯感を覚えたのだった。

ー続きますー

 便所は溜め式で、和風便器に太い取っての付いた板で蓋をする造りになっている。鉾と盾の盾のような感じだ。洋祐は、この溜め式の便所に落ちそうになる夢を何度も見た。現在の水洗トイレは自分自身との関わり合いしか感じないが、昔の溜め式の便所は、家族で何か一つの事を協力してやっている様な、一蓮托生的な連帯感を感じられた。それは、一家族で使う便所が特に顕著であるが、外で止む無く拝借する溜め式の便所は、できれば係わり合いになりたく無いと言うか、不快になる感じは否めなかった。

 洋祐とタカちゃんの家の間によっちゃんが住んでいた。上は女ばかりの4人姉妹で、よっちゃんは末っ子で長男。洋祐と学年が同じだった。
 夏の或る特に暑い日だった。よっちゃんの母親が、たまたま上半身裸でいた姿を洋祐は目撃した。それは長屋の一つの風景のようで、洋祐はまるで気にならなかったが、ヘチマのように長く垂れ下がった乳房から、すぐには眼が他に移らなかった。その後も同じような光景がまま有ったが洋祐は毎回同じ反応をした。
 不思議なことに、よっちゃん家は社宅なのに色々な農作物を収穫できた。洋祐的には納得が行かなかったが彼は考えた。ドブの斜面にある大きな無花果の木からは熟れた果実が年に二回取れた。紫陽花が咲き終わる頃、地面一杯に花を落とした甘柿は、秋にはその豊満な果実が実った。家前になぜか畑を持っていて、ここにはネギが植わっていた。夕食時に畑の縁石周りのニラを姉妹がささっと手でむしり取って家中に入って行くのを洋祐は何回も目撃していた。
 これに納得できなかった洋祐は母親に聞いたが、母親は洋祐に良く分からない曖昧で遠回しな言い方をして、洋祐を宥めた。
 これは後年分かったことであるが、ドブ側のタカちゃん家には、以前洋祐の母方の親戚が住んでいて、その親戚が家の周りに畑を作ったり、無花果や柿を植えたりしていたらしい。そのうち九州の炭鉱の景気が良くなって、佐賀県に引っ越してしまったので、そのあとよっちゃん家がちゃっかり全部頂いてしまったらしいのだ。子供の時にこの情報を聞いていれば、よっちゃんに遅れを取ること無しに無花果や柿を取れたのに、黙っていて何も教えてくれなかった母親を、洋祐は疎ましく思った。

 ペーロン「白龍」

 初夏、毎年相生湾では造船所の有志達が中心になり、商工会議所と市が協力してペーロンなるドラゴンレースの祭りを開催している。洋祐の祖父もこのペーロンに毎年出場していた。
 ドラゴンボートは、全長13m、全幅約1.6mの舳先が龍のような形になっている中国風の木造船で、船長、舵取り、太鼓、銅鑼各1名ずつ、その他漕ぎ手28名総勢32名で競うのだ。そして4隻ずつ並んだ手漕ぎ舟がその着順位を競うお祭りで、年々その規模も大きくなり、現在では大きな観光祭事として賑わっている。ペーロンは中国語で「白龍」と書き、中国読みがそのまま日本語で定着したものだ。

 洋祐の祖父は、レースの舟の最後尾で銅鑼を叩いていた。銅鑼は、直径が7、80cmくらいあり、真鍮で造った太鼓饅頭(今川焼き)を半分に割ったような半鐘で、バチで叩くと「ジャーン!」と独特のエスニックな音を出した。続けて打つと「ジャン、ジャン、ジャーン!」と中国風味満点でレース見物の醍醐味になっている。銅鑼が一番目立った。
 レース当日の朝10時ころ、洋祐は父親の自転車に乗せられてペーロン見物に出掛けた。相生湾へは自転車で20分ほどの道のりである。父親の漕ぐ自転車は重い感じがした。ブレーキパッドとサドル以外は全部鉄で出来ていたし、大部分は錆びて赤黒くなっていた。この時から自転車に興味を持てなくなった洋祐は、小学校3年生くらいまで自転車に乗れなかった。それを乗れるようにしてくれたのは祖父だった。
 或る日の昼時、祖父はテレジア幼稚園の庭で、洋祐の自転車を後ろから支えて推してくれた。祖父が手を離すと洋祐はすぐに倒れたが、辛抱強く付き合ってくれて、夕暮れ前にはどうにか祖父の支えが無くても自転車に1人で乗れるようになっていた。

 相生湾に近づいて来ると、父親が浮橋の方を指して言った。
「洋祐、あっこでやっとんやで。お祖父ちゃんも出とうで」
「ほんまに? お祖父いちゃんも出てんの?」
 父親は、途中で知人と何度か出会い、自転車を止めては暫く話を交わした。そして軽く手を挙げて別れるのだった。洋祐にはこの何気ない光景が、まるで白黒の映画のような、流れるセピア色の風景の記憶として残っている。
「洋祐、今度のレースでお祖父ちゃんが出るで!」
「ほんまに!」祖父が出ると、洋祐は口元に手を添えて思いっきり応援した。四隻のドラゴンボートが、それぞれ位置に着いて波間に揺れている。実行委員が拡声器でスタンバイを促した。
「よーい! スタート!」
 スタートの銃声がすると洋祐が吼えた。
「ウォーッ! お祖父ちゃーん! ガンバレーッ!」
 銅鑼の激しい半鐘音が漕ぎ手に鞭を入れる。
 ジャン、ジャン、ジャウーン! ジャン、ジャン、ジャウーン!
 ドラゴンボートの左右に別れた漕ぎ手たちは、皆蒼く逞しい。そして背中の龍神がその腕(かいな)に宿った。海面を櫂が刳ると、力強く砕けた波と泡が白い龍の飛沫となって飛んだ。
 ジャン、ジャン、ジャウーン! ジャン、ジャン、ジャウーン!
「お祖父ちゃーん! ガンバレーッ!、ガンバレーッ!」
 踠く白龍に最後の銅鑼が打ち鳴らされた。
 ジャン、ジャン、ジャウーン! ジャン、ジャン、ジャウーン!
 祖父の舟は一着でゴールインした。
「洋祐、一着になったなぁ! 今度は準決勝やで、お祖父ちゃんやったな」
『そやなぁ! それであと何回したら優勝なん?」
「あと二回やワ洋祐、優勝したらええなぁ」
「お祖父ちゃんの事やから、優勝するに決まってるワ。そやけどペーロンは銅鑼が一番格好ええなぁ。ところでお父ちゃんはなんでペーロンに出えへんの?」
「お父ちゃんか? お父ちゃんはな、走る方が好きやねん」
「ふーん」洋祐は仕方なく納得してみせた。母親によると父親は、短距離が抜群に速かったらしい。小学校の運動会に父兄が出場する短距離走があって、その時出場した父親は、アッと言う間に三人をごぼう抜きしたと、あとで母親から聞いたと言う。

 夕方、父親が洋祐を自転車に乗せてペーロン見物から帰って来た。
 父親は自転車の前方に洋祐を、荷台に母親を乗せて、その母親は背中に妹の美由紀を背負っていたので、四人乗りで出掛けることが多かった。ペーロン見物から家に戻った時、母親が洋祐に言った。
「お祖父ちゃんどうやった? 優勝したんか?」
「準優勝やて、もうちょっとやったワ」
「そうか惜しかったな、そやけど去年は優勝したんやで。そや二人共疲れたやろ? 風呂でも行ってきいな」
「そやな、そないするワ。ほな洋祐、風呂でも行こか? 用意しいや」
 洋祐は父親に連れられて、駅近くの風呂屋に出掛けた。

 双葉小学校

 駅前の中央通りを500mほど下がった所から始まる道を左に入ると、途中から勾配の緩い坂になり、それを20分ほど上がると双葉小学校が在る。洋祐は、この小学校に通うことになった。
 三年生の時だった。横田先生と言う若い女の先生が新しい担任になり、夏の体育の授業には水泳の時間があった。洋祐はこの水泳の時間が嫌いだった。水が嫌いとか好きとかの問題では無かった。あの独特な水着の形態が実に恥ずかしかったのだ。色は黒で一般的にはサポーターと言うのだが、市民には「きんつり」と呼ばれていた。この名称からして恥ずかしかった。戦前の日本男児は褌(フンドシ)をしていたらしいが、それを穿き易いように改良したものである。褌に見られる前に垂れ下がった布の部分が無く、後ろがT字型になっており、紐で調節するのだが、一番近いものが女性の下着であるTバックである。洋祐はこれを穿くのが心底恥ずかしかった。クラスにスポーツ万能で格好良い生徒が何人かいたが、みんな細くて「きんつり」もスッキリと穿きこなしているよに見えた。洋祐は家で穿いてみたが、あの部分が皆よりもったりしているように思えた。
「なんかちゃうなぁ、もったりしてるなぁ」

ー続きますー

 そんな或る日の体育の時間だった。水泳の授業になったが、洋祐は中々着替えないでグズグズしていた。そのうちに皆が着替え終えてプールに移動してしまった。
「みんなぁ! 着替えたかぁ?」
 横田先生が教室に入って来て、隅々を確認したあと洋祐を見た。
「喜多川くん、どないしたん? 着替えもせんと、風邪でも引いたの?」
「えっ? はい、そうです」
「まぁええわ、今日は見学にしときなさい」
 何か、簡単に山を乗り越えられた安堵感が洋祐をほっとさせた。簡単に見学を許された洋祐は、調子に乗って何度も風邪を申告して、何度も頭が痛くなって何度も見学を希望し、その度に許された。そんな或る日、洋祐は廊下で横田先生に呼ばれた。
「喜多川くん、ちょっとこっちに来なさい」
 洋祐は、横田先生に廊下の隅にあった用具室に連れ込まれた。
「それ、ちょっと脱いで見なさい」
 女でも大人の横田先生には凄みがあった。恐る恐る見た横田先生の眼は、洋祐が穿いていた半ズボンに向いていた。洋祐は一寸躊躇ったが、半ば強制的に半ズボンとパンツを半分ほど下げさせられて尻を見られた。そして先生は、洋祐の尻を右手で軽く叩きながら明るく言った。
「何やぁ! 何も無いやん」
 先生は、洋祐のお尻に何か出来物があって、毎回プールを見学していたのかと思ったらしいのだが、洋祐はこの事件を誰にも口外していないので、はっきりしていない。これは、現代で言う所の「セクハラ」であろうが、当時はあまり話題にはならなかった。

 洋祐が五年生になったある日、音楽の時間になった。新しく担任になった石井先生は、若い男の先生だが音楽の授業もやっていた。授業が始まって先生がオルガンを弾き始めた。そして、暫くすると洋祐の方向を向いて石井先生が怒り出した。
「そこーっ、何を騒いどんのや? 煩いんじゃぁ!」
 洋祐は授業中に他の生徒と騒ぐような事はしなかったのだが、石井先生は、洋祐に近づいたかと思うとその場で洋祐を起立させ、いきなり彼の頬をゲンコツで殴りつけたのだった。洋祐に取って、ゲンコツで殴られた初めての出来事だった。しかし、彼は醒めていた。随分痛かったが、この理不尽な出来事によって洋祐は、学校と先生に対する気持ちが完全に引いてしまった。石井先生は、懸命に練習したオルガン演奏を生徒に笑われたと思い込んで、誰彼となく適当に生徒を選んで暴力を振い見せしめにした。と言うところであろう。
 そして、洋祐が五年生の一学期の中頃、家族四人は華の東京へと転居して行くのだが、それは父親の優が勤める造船所と東京の大手重工業会社の合併により、本社勤務を命じられたからだった。しかし、父親は、一年以上も前から東京に単身赴任が続いており、引っ越すのにも予定を立てる事が十分出来たはずなのだが、洋祐が五年生の一学期中頃と言う極めて適当な、計画性に欠けた引越しを敢行したのだった。別の言い方をすれば、子供の学校の事や環境変化の不安とか、一切何も考えないで、駅前のマル通に言ってトラックを回して貰ったのだ。そして、その黄色いトラックに全ての家財道具を詰め込んで、東京の社宅の在る豊洲へ送り出したのだった。家族四人は、東京に行く事しか頭に無かった。何か陽の当たる場所に出られると言うか出世したような気持ちだった。だからと言う訳でも無いと思うが、やはり両親は子供の勉学環境なんかどうでも良かったのだ。
 東海道新幹線の開通前でもあり、東京まで夜行列車で12時間ほど掛かる当時「東京」は地方の憧れであり、その東京と言う名称自体が、宝石の如く煌きと、憧れと、田舎の全ての権力を一編に排斥してしまう程の力強さを兼ね備えていた。

 テーブルの灰皿がハイライトの吸殻で一杯になった頃、外に出ると既に陽が落ちて、目白通りを走る車のヘッドライトが眩しかった。
「話、長くなっちゃったね。ごめん」
「良いのよ、あなたをもっと身近に感じられたから。そう言えばね、お母ちゃまも若い頃兵庫県の相生市に居た事があったのよ。奇遇ね」
「えっ? それ本当?」洋祐は、日菜乃に何か運命的なものを感じた。
 日菜乃と一緒にいると良い気分だった。何かこの地上で選ばれた者同士が、青春の一頁を演じているような気持ちに日菜乃はさせてくれた。

 深い霧

「ねぇ、あなたどこのアパートに住んでいるの?」
「えっ?」洋祐は一瞬戸惑ったが、間を開けず言葉を返した。
「この近くなんだよ、行く?」
 内心洋祐は複雑な心境だった、切っ掛けは日菜乃であったので、洋祐は遅れを取ったような気がしたことと、あの、立って二畳寝て三畳の、狭い部屋へ日菜乃を連れて行くのに若干の抵抗感もあった。しかし、二人きりになれるという誘惑の方が俄然勝利して居た。
 二人は椎名町方向に歩き始めた。暫くすると河川を埋め立てたような遊歩道があって、そこを通り越して一本めの路地を左へ入ると洋祐の住むアパートだった。
「あのさ、ここかなり狭いけど大丈夫かな? 押入れがさ、空中から迫り出して、寝るときは三畳間なんだけど、起きると二畳間になるんだよ」
 日菜乃は洋祐の話を聞いて面白がった。靴を脱いで共用廊下に上がり、洋祐の部屋に二人で入った。日菜乃は、その極狭の部屋を受け入れたのか部屋の事は何も口にしなかった。こんな狭い部屋ではあったが、若い洋祐に取っては、その最低レベルの空間が、自宅から通学している同年代の学生達より自立しているような、光り輝くそんな特別な空間に思えて、気持ちだけは弾んでいた。

「オレは今デザインを専攻しているけど、本当は絵画と言うか、そっちの平面がやりたいんだよね」
「そうね、あなたはやりたい事をやるべきだと思うけど、でも、私たちって今浪人中じゃない? 一応美大に入ってからでも遅くなくてよ」
 洋祐は、内心受験は諦めモードだったので、話は飛躍して、その内容はダダイズムのマルセル・デュシャンやシュールリアリズムのルネ・マグリット気分そのものだった。
「日菜乃さぁ、公募展にねレディーメードの小便器をそのまま出品した男の話って聞いた事ある? 20世紀初頭の話なんだけどさ、これをコンセプチュアルアートって言うんだ」
「もちろんよ、従来の技法よりも制作上の観念的なものが優先しているって言うニューヨーク・ダダの先駆者でしょ。でも、今その事を考えていると、アカデミックな技法の受験に支障が出て来るわよ。あなたは大丈夫なの? ねぇ、タバコ吸っても良い?」
「もちろん、オレも吸うから。もっとこっちにおいでよ」
 この狭い部屋で二人同時にタバコを吸い始めると、瞬く間に煙が部屋中に充満して、洋祐は、自分たちが深い霧の中にいる子山羊のように思えた。
「この白いブラウスキレイだね、ほらここのとこ、男物とはボタンの合わせが違うんだよな」
 二時間ほど経って、二人はアパートから出てきた。
「ねぇ、バイクで何処かに連れてって」
「良いけどよ、しっかり掴まっていろよ」
 洋祐は、部屋の脇に駐めてあったバイクのカバーを取り、エンジンを起動した。そして日菜乃をバックシートに乗せて、予備校方面から目白通りを南へ爆走した。ローでスロットルを全開すると、タコメーターが一気に7,000回転まで上昇し、更にレッドゾーンに突入した。洋祐は瞬時にギヤをセコンドに繋げ、サード、フォース、トップへ。バイクの躯体が唸りをあげ、風を切って爆走した。

  君を愛したあの日
  夢と希望を 単車に託して爆走した
  見えない不安を 確かな振動で消してみた
  君の白い肌と 流れるグレイな景色のコントラストが
  風に涙を誘われ 飛沫になって銀河ロードが創られる
  振り向いてみて あれが見えるかな
  オレたち 二人だけの銀河ロード
  ブルーな ガソリンの匂いを感じながら
  ただ ただ スロットルを回し続けた

ー続きますー

 洋祐は、その後引っ越した。立って二畳寝て三畳の極狭の箱から、椎名町駅前の六畳に越したのだった。住人は洋祐の他に一部屋置いて隣の住人だけだった。後年分かった事だが、建て替えで新規の住人は募集されていなかったのだ。しかし、洋祐のような浪人は一年もすればいなくなるだろうと、不動産屋が読んで入居させたようだった。
 椎名町駅前のアパートは、戦後すぐに建てられたと思う。今では建築不可である木材(可燃性)の外壁だった。昭和20年代に建築されたようなしもた屋造りで、当初外壁は無垢の木肌に少し焼き目を入れた、綺麗な焦げ茶色をしていたと思われる。だが今では、所々の木片も朽ち落ちて、板は年輪だけが妙に真っ黒に浮き出ており、全体の色も灰黒色で家全体が乾燥して痩せてしまった老骨アパートと言った風情だった。洋祐はここに転居した。
 当時、椎名町駅から直線で30mくらいしか離れていないのと、家賃の安さで、取り敢えずここにした棲家だった。しかし、その造作に、洋祐の田舎に住んでいた長屋を思い出させる雰囲気もあったので、ここにいると時間が逆戻りしたような気分と妙な安心感が得られた。

 日菜乃の家族たち

 日菜乃と付き合い始めて一ヶ月くらいに、洋祐は日菜乃に誘われて彼女の家へ遊びに行った。田園調布からほど近い一軒家だった。
 弟はまだ某有名高校の学生で、会話の中に受けを狙うところが洋祐と違う世代に感じられた。二木さんは、やはりそのあだ名を聞いていたので、どこにいるか瞬時に分かった。お母ちゃまは優しそうな、また落ち着いて話す上品な方であった。
 二木さんには、兼ねてから言ってあったように腕相撲の挑戦をした。洋祐の肢体は細かったが、余分な体脂肪が無いだけで、筋力は柔道部のお陰かそこそこ有った。
「二木さん、ちょっと腕相撲をやりませんか?」
「腕相撲? 良いけど、オレ結構強いよ。大丈夫?」
「ダイジョーブです」
 二木さんがこの挑戦を受けてくれた。そして、この一番は今夜のメインイベントとなった。
 洋祐は腕まくりをしたかったが、腕に筋が見えるのを嫌ってシャツはそのままにした。だが、二木さんは半袖のままその太い腕が露骨に見えて、洋祐に圧迫感を与えていた。両者は、和室の大きなテーブルに其々ついて腕を交えた。
〈あっ、毛ガニだ!〉洋祐はあっさりとした手だったので、彼は二木さんの「指毛」に多少のショックを受けた。
「はい、腕を組んで、手首の力を抜いてね、そうそう、左手はテーブルを持って良いからね。行くよ、良い?」
 日菜乃がレフェリーを買って出て、強いトーンでそう言った。
「おっ、結構強そうだね? この感じ」
 二木さんが心にも無い事を言ったかに思えて、その余裕に洋祐は「ムッ」としながら言った。
「はい、良いですよ」
 洋祐は、相手が力を入れるその前に、一瞬でも早く力を入れれば勝てる。そう考えていた。そのスピードは0.01秒単位だと思うが、二木さんより一回り以上若いと言う唯一の優位性がそう考えさせた。
「OK? ようい、ハイッ!」
 洋祐は、二木さんより一瞬早く力を込めることが出来プッシュダウンした。しかし、重機のようなその腕は、テーブルに設えたユンボの如く印象で僅かに揺れただけだった。
「おおっ、強い! ツヨイッ!」二木さんが、余裕を嚙まして一旦自分の手の甲側へ倒したかと思うと、一気に洋祐を潰しに掛かった。洋祐は潰されまいと額に血管が浮かび上がるほど頑張った。しかし、何と、そこで洋祐の腕が「ポキッ」と鳴って一瞬両者に妙な間が出来てしまった。
「ははは、ポキッだって」
「!・・・」洋祐は声が出なかった。
 そして、その音を耳にした二木さんは、笑いながら洋祐の腕をそのままテーブルに押し潰したのだった。
 洋祐は立ち上がって言った。
「あーっ、負けちゃった。オレもう帰るもんね!」
 洋祐は、恥ずかしくも有ったが周りに大きく言葉を投げ掛けた。
「ははは、オモシロイ、オモシロイ」
 弟にはそれが受けたようだった。
 このイベントのあと洋祐は、お姉ちゃまとお母ちゃまに作った夕食をご馳走になった。和食だったと思うが、料理の内容があまり記憶に残っていなかった。緊張感と腕相撲に負けた屈辱感で食事に注意が行かなかったのだと思うが、違和感なく食せた。他所の家で食事をご馳走になると、味の違いから必ず料理した人の顔が浮かんで記憶に残るのであるが、この時ばかりは実家で食事をしているような、そんな違和感をまるで感じない不思議な感覚だった。
 夕食が終わって一段落したあと、日菜乃に田園調布駅まで送って貰った。あの人が二木さんだよね。凄いね! 力有るし、第一毛ガニじゃん」
「ははは、そうそう。でも皆大歓迎だったわよ。今日はありがとう」
「うん、良い思い出になったよ。でもお母ちゃまと相生の話をしたかったな」
「今度また来た時に話せば良いわよ」
「そうするよ。じゃ、どうもね、バイバイ」
「じゃあね、バイバイ」洋祐は改札に入って行った。

 翌夕暮れ、日菜乃は洋祐のアパートに居た。彼が漫画についての普段から持っていた熱い想いを語ると、それを聞いた日菜乃はこう言った。
「私ね、手塚治虫の鉄腕アトムを全巻持っているのよ。小さな時に集めたの。今度持って来てあげる」
「えーっ、本当に! ありがとね。いつかさ、ジーパン買いに行こうって言ってたじゃん。これから行ってみない? 渋谷」

 目白駅ホームに立つ二人に、内回りの山手線が低い警笛を一度鳴らせて進入して来た。池袋駅で既に満員状態になっていた電車の乗客たちは、洋祐には大人ばかりに見えて二人が浮いたような存在にも思えたが、これを逆手に楽しむようなところがあった。乗客たちと一つに慣れていない洋祐と日菜乃は、距離を置いた観客に観られている役者のように振舞って遊んだのだった。
「日菜乃さ、この間二人で行った原宿駅裏の娘さ、あの娘も御学友なの?」
「そうよ、あの娘も御学友だったのよ。お父様が大きな会社を経営されていてね」
 二人は周囲の反感を買うようなこんな会話をして面白がった。
 渋谷で降りた二人は、ハチ公前から道玄坂に出て暫く散策した。そして、その途中に偶然見かけたジーンズ店で、ホワイトマンと言う聞き慣れない銘柄のジーンズを購入した。

 八月下旬、近頃洋祐はアパートで一人考え込むことが多くなっていた。受験が迫って来たこと、デッサンが上達しないこと。浪人生なのに、恋愛を受け入れてしまったこと等もあり、洋祐の気持ちは徐々に暗い方へと追い込まれて行った。
「恋愛している場合じゃ無いんだよな」
 彼は、そう思いながら取り敢えず現代国語の本を開いた。
 洋祐の出身校では、進学する生徒は一人もいなく、進路指導も当然のように無かったので、彼は効率的な勉強方法を全く知らなかった。当然だが気持ちも全く入らなかった。洋祐は、教科書を眺めているうちに文字そのものに興味を惹かれ始めた。そしてノートへ教科書の文章を写し始めた。印刷されている明朝体の文字。昔から「書」に興味があった洋祐は、この明朝体を、端から一行づつ、字体のバランスを取りながら写し始めた。彼は、この作業に気持ちが乗って時間の経つのが妙に早く感じられた。
 暫くすると、普段は滅多に聞くことの無い、洋祐の部屋のドアをノックする音が聞こえた。ドアの外で誰かの気配がする。ハッとして、洋祐がドアを開けると外にプリンが立っていた。彼がアパートに来るのはこれが初めてだったし、日菜乃を介して話をするのが普通になっていたので、洋祐は特別驚いたのだった。
「プリン、どうしたの? 狭いけど入る?」
 プリンがドアを開け、少し中へ入って部屋を見渡した。
「良いよ良いよ、ほう、受験勉強しているの。偉いじゃない」
 洋祐は、一瞬まずい! と思ったが遅かった。
「なあに? 一文字づつ写しているの? こんな感じでやっているんだ」
 焦った洋祐は、釘を刺す積りで言った。
「日菜乃には言わないでよ」
 しかし、このことを日菜乃に告げられることは容易に想像できた。このタイプの緩(ぬる)い男はそこら辺の線引きが出来ないのだ。
「ちょっと近くを通ったものだから寄ったんだけどね、そろそろ家も晩飯だから帰るね、勉強頑張ってね。じゃね」
 プリンは、ベレットのエンジンを起動させると、慌ただしく走り去って行った。
 何故プリンがこのアパートに来たのか? それは恐らく洋祐の部屋に日菜乃が来ているかどうか? それを確かめたかったのだ。
ー続きますー

 アセスメント

 旧盆が過ぎた或る日の午後、洋祐は日菜乃を探しに本館の油絵科のアトリエに行った。日菜乃はまだ来ていなかったが、助手の沙希がいたので少し話し込んだ。
「沙希さんの絵ってなんか綺麗だね」
「ありがと、私ね、絵を描くときには、この地球上にある総てのものが美しいと思って描いているのよ」
 洋祐は、普段滅多にやらない絵画理論の切っ掛けを貰ったような気がした。恐らく恋愛と受験との狭間ででストレスが鬱積していたからだろう。沙希は油絵科の助手をしていたが、年は二つ上で既婚者だった。
「総てのものが美しいって、じゃあんなのもそうなのかい?」
 洋祐は、左手の吸いかけの煙草で壁際を指してそう言った。そこには大きな段ボール箱が置かれて、中には紙屑やガムテープの芯、それに木屑の廃材等が投げ捨てられていた。
「もちろんよ、その塵はその塵で美しいわ。貴男はそうは思わないの?」
 洋祐は沙希が少し興奮していることを確認したが、美術を語ることを優先させた。
「思わない、世の中、醜があるから美があるんだよ。何か勘違いしてない?」
「そうかしら。あの塵達は、私たち人間の為に作られて、そしてその役割を果たした後、今日にでも処分される運命にあるのよ。充分働いてくれたじゃない」
 塵は塵で美しい。洋祐は何か分かるような気がしていたが、引き下がらなかった。
「観念的には解るけどさ、別に美しいとは思わないな」
「貴男には未だ解らないのよ」
 沙希は少し熱くなって、洋祐を教室に置いたまま外へ出た。しかし、洋祐には譲れないものがあったのだ。彼はずっと迷っていた。美しく見えるものを美しく描くべきなのか。そうでは無く、現代美術のセオリーらしく、コンセプトを優先させるべきなのか。それは受験には殆んど関係の無い話であるが、いや、むしろアカデミックアートの登竜門に於いては、この拘りを捨てた方が良いのだが。「現代美術の動向と受験」このテーマは、洋祐が洋祐であり続ける為の攻防であったが、暗く先の見えない彼に僅か一つだけ残された、彼の存在を肯定付ける価値観でもあった。
 暫くして沙希は、LARKを買って戻って来た。洋祐は、待ち兼ねたように沙希に語り始めた。
「あのさ、オレの知り合いの娘でさ、中二の時に父親が亡くなって、母親と姉貴と弟が残ったのね。父親は会社を経営していて、姉貴は父親が亡くなった後、父親の車の運転手と結婚したわけ。その運転手は高卒で稼ぎも大した事ない。で、未婚で残ったのが知り合いの女性と未だ高校生の弟一人なんだよね。このシチュエーションだとさ、知り合いの女性はこう考えても可笑しく無いよね。実家のために、経済的に豊かな人と結婚しなくちゃ。そう思うよね、普通」
「なぁにそれ? 結構意味深な話よね。誰かのことを言っていたりしてね」
「えっ? そんな事ないよ。父親が亡くなったから私が頑張らないと、ってそう考えるかも知れないよね」
「そんな寂しい話はよしなさい」
「いや、性格とかじゃ無くてさ、そっちの方が問題で上手くいかなかったらどうすれば良いの?」
 沙希は、項垂れた洋祐を上から眺めていた。未だ受験前の若い洋祐を見て、何か心が熱くなるのを感じた。
「話が暗くなって来たわね。飲みにでも行きますか」
「ありがとう。沙希さんが独身だったら良かったのにね」
 洋祐は、重い足取りでデザイン科へ向かった。

 未紀(千晴)

 八月も最後の週になった或る日の午後、洋祐は日菜乃とデザイン科前の廊下に居た。
「どうかしたの? なんだか暗い感じよ」
「オレ、旅に出ようかなって思っているんだ」
「旅って、あなた何処へ行くの?」
「ん、関西に友達がいるから、関西へちょっと行ってみようかな」
 日菜乃は特に洋祐を止めたりしなかった。二人の気付かない間に、徐々に生まれた破滅的であろう関係は、日菜乃もそれとなく感じていた。
 翌日、洋祐は東京駅八重洲口から深夜バスに乗り込んだ。行き先は大阪だった。大阪には、田舎の同じ長屋に住んでいた幼馴染みのタカちゃんが、関西学院大学に通っていたので、取り敢えず大阪に向かった。
 受験と恋愛の両方から暗闇に追い込まれた洋祐は、旅と称して破滅的であろう二人の関係から、一時的に逃避を図ったのだ。
 その年は、万国博覧会が開催された翌年でもあって、大阪の街は依然活気付いていた。
 タカちゃんのアパートは大学の近くに在った。そこに、京都産業大学のマメちゃんと言うタカちゃんの同級生が遊びに来ていた。タカちゃんは、上級生の粋なところを洋祐に見せたかったのか、飲み屋と女の話を洋祐によく聞かせた。
「これエエやろ。お母ーにこれを作らせてな、この前垂れのとこにマジックで抱いた女の名前を一人ずつ書き込むんや」
 タカちゃんは、スラックスをずらすと前屈みになって、白い晒しの生地で出来た褌(フンドシ)を二人に見せた。確かに、マジックで書かれた女の名前を一つ、二つは確認出来たが洋祐は名前までは読めなかった。
「いやー、これ褌やん! 粋やな、タカちゃんは」
 マメちゃんが驚いたような素振りで、笑いながら言った。
「マメちゃん、ちょっと行こか? 洋ちゃんも行こか?」
 夕方、遊びに来ていたマメちゃんと3人で飲みに出た。
 アパートを出ると、タカちゃんがどんどん先を歩いて行く。辺りはもう暗くなっていた。そうして10分ほど歩いた右手にカクテルバーらしき店が見えて来た。この店はタカちゃんの行きつけの店らしい。ラーメン屋を改装した様なこのバーは、外壁が全て黒色に塗り替えられていて、引き戸が5枚ほど連なっていた。
「これは絶対に元ラーメン屋だ!」洋祐はそう思ったが黙っていた。
 その中の一番手前の一枚を、タカちゃんが引いて開けると、いきなり床に固定された回転椅子が目に入った。飲み屋を全く知らない洋祐とマメちゃんは、慣れた感じを装って椅子に座ると、タカちゃんが常連の様に振る舞いながらカウンターの中の年増女(ママ)に言った。
「ママ、東京から友達が来ているんよ。何か作ってあげてよ。オレはカカオフィズね、君らも何か頼んだら」
 タカちゃんがそう言うと、洋祐は水割りを、マメちゃんはソルティードッグを注文した。タカちゃんは、声を押さえながら二人に言った。
「あんな、この前な、オレのんママに触らしたってな、代わりにママの胸を、こうぎゅうぎゅう揉んだったんや。ママえらい喜んどったで」
「おお、さすがタカちゃんやな!」
 マメちゃんと洋祐は、顔を見合わせて感嘆の声を上げた。タカちゃんは、ママに聞こえ無い様に声を殺しながら自慢し、洋祐とマメちゃんは畏敬の念を表す様にゆっくりと拍手した。
 それぞれが何杯かお代わりしたところで、マメちゃんが洋祐に言った。
「洋ちゃん、京都来た事ある? エエとこやで、一回来てみたらええワ」
「ええんですか? すみません、お世話になります」
 翌日、洋祐とマメちゃんは、大阪から地下鉄で京都に向かった。以前タカちゃんから話には聞いていたが、マメちゃんとはこの時が初対面であった。初対面でいきなり厄介になりに行くというこの不自然な状況は、二人とも何となく感じていて、学生時代はこんなものだろう、と思う二人の気持ちとは裏腹に、世間の通りも若干頭を擡げて京都行きの車内は、いきなり話が盛り上がったかと思うと、急転静寂を繰り返した。
 マメちゃんは、京都産業大学の学生で、大学は上賀茂に在った。駅からはバスでアパートに向かった。彼の部屋は二階に在った。外階段から二階にあがると長い廊下が一本中央に通っていて、その両方に四畳半の部屋が四室ずつ並んでいた。マメちゃんの部屋は、右手の二番目だった。部屋の中は、小さな洋箪笥と座卓、それに低い本棚があって、畳の端にニッカのボトルが一本置いてあった。
 その夜、マメちゃんが洋祐を飲みに誘ってくれた。
「オレな、90ccの単車を持ってるさかいに、河原町辺りでもこれから行かへんか? 飯でも食おうや」
 洋祐は、バイクと言う懐かしい響きに微笑みながらマメちゃんに言った。
「バイク持ってはるんですか? よろしくお願いします」
 マメちゃんは、洋祐を90ccのバイクのケツに乗せて、四条河原町へと繰り出した。やがて到着すると、バイクをビルの空きスペースに停めて洋祐に聞いた。
「洋ちゃん、未だ早いからジャズでも聞こか? 聞いた事ある? ジャズ」
「あんまり馴染みがありませんワ」
 マメちゃんは、ビッグボーイと言うジャズ喫茶へ洋祐を連れて行った。

 ビッグボーイは、四条河原町の交差点から少し外れたビルの地下一階にあった。二人はウェイターの案内で席につき、ホットコーヒーを其々に注文した。洋祐が本格的なジャズ喫茶に行ったのは、これが初めてだった。以前に行った銀座のACBはジャズ喫茶ではあったが、当時はジャズバンドでは無く、グループサウンズの生演奏が主流であった。そして客は全て10代の、片手に持ったハンカチを頭の上で振り回しながら、キャーキャーと騒ぐ娘達だった。
 ビッグボーイでは、ジャズのLPレコードをターンテーブルで回していたかどうか、そこまで気にならなかったが、スピーカーは縦が一・五mくらいあった。マット地の黒く大きくて賢そうだが、ツンとすましたところが洋祐的には馴染めなかった。
 30分ほどしてジャズに造詣が深く無かった洋祐は、音楽に飽きたのか周囲を見回した。その時、カウンターに座っていた女性と眼が合った。肩くらいの髪に逆毛を立てて後ろに流している。瞬きを頻繁にしていたが、視線を逸らさない女性だった。遠目だが美人に見えた。女性は一人でコーヒーを飲んでいる。洋祐は、なぜか唇を舐めて合図をしようと思った。彼女に分かるほどに。
「洋ちゃん、そろそろ出よか?」マメちゃんが頭を上げて洋祐に言った。
 マメちゃんは、観光の積もりで案内してくれていたのが洋祐には分かっていたので、彼はそれに従った。マメちゃんも、ジャズは日常的に聴いていない感じだった。
 店を出て、右へ程なく歩いたところで、洋祐はマメちゃんに先に帰るよう話した。マメちゃんは、洋祐を理解出来ないでいたが、一二分するとカウンターの彼女が店から出て来た。
大凡の見当が付いたようにマメちゃんは微笑み「分かった、じゃ気を付けてな」と言い残すと彼は単車に跨り、車のライトが輝く交差点の方向へ消えて行った。

 洋祐は、彼女が店から出てくるような気がしていた。彼は足早に彼女に近づいた。彼女は、はにかんだ様子で後ろに手を組みながら下を見つめ、そして洋祐を見た。
 お互い照れたような間が空いた。七分丈の裾の細いジーパンに、ラメ入りの黒いTシャツを着ている。洋祐は彼女の年齢を聞いた。
「幾つなの?」
「にいいちになったばっかりや、あんさんは幾つ?」
「オレが年下だね、19ちょっと前。名前は何て言うの?」
「未紀。美樹と言う字は嫌いやねん」
 嫌いって、名前は自分で付けられないと思ったが、すぐに呼名である事が分かった。
「そうそう、オレは洋祐。ジャズ喫茶には良く行くの?」
「私、ここでピアノを弾いていたのよ。今私ね、同志社大学を休学しているの。これはバイト、ピアノ弾かせてくれるって言うから」
「エーッ、プロのピアニストかと思って驚いたよ。それで家は近いの?」
「私ね、つい最近まで同棲してたんよ。3人で」
 洋祐に取って同棲の響きは新鮮だったが、3人と言うのが気になった。だが、若干18歳と言う未だ性に関して未熟であった洋祐は、3人との愛情も成立するのかと、その場はそう考える他は無かった。しかし、洋祐はその関係性の中で、何か無性の寂しさと空虚感を未紀に感じていた。

ー続きますー
「ちょっと飲みに行かへん?」私の知ってるとこがあるから」
 未紀と入ったところは狭いバーだった。どこをどうやって行ったかは、まるで覚えていなかったが、通りから路地に入った、ビッグボーイから5、6分くらいの検討はついた。
 バーには客が他に2人いた。かなり暗くてスポットライトだけが、カウンターの上を照らしていた。
「私はジンスト、あんさんもそれで良い?」
「うん、オレもジンストで良いよ」
 洋祐は驚いたが、同じものを頼んだ。
 小さなグラスに注がれた、ジンのストレートを二人で飲んだ。洋祐は、恐る恐る口を付けて三分の一ほど飲むとグラスを置いた。
「私ね、ジンはゴードンが好きなんよ」
 ジンは辛く草のような味がした。〈こんなのストレートで飲む女がいるんや〉洋祐は驚いた。
 洋祐は未紀の中の、自分と同じ匂いの部分を懸命に探した。
「あのね、私五人姉妹なんよ。でも四人死んじゃって、だから私ね、五人分生きなあかんのよ」
「えっ、五人姉妹? でもどうして四人も亡くなったの?」
 未紀は返事をしなかった。暫く沈黙が続いた。それは一言で言い表すことが出来ないこと。本人も良く分からないこと。大きな大極の中で、家族の誰かの行為によってその歯車が動き出し、そして、最終的に多くのものが止まってしまったのだと洋祐は感じた。
 洋祐は、未紀に計り知れない程の孤独感を覚えた。自分の未熟な人生経験からは、返す言葉を選ぶことも出来なかったが、取り敢えず自分の話も、と思い口を開いた。
「オレさ、高校で柔道やっていたんだ。でも、何か限界を感じたんだよね。スポーツとしては、心身ともに成長して立派な人間になって行く過程とか、大事なものをいっぱい経験できて素晴らしいと思うんだけどね」
「それが嫌なん?」
「いや、スポーツとしては良いんだけど、格闘技としては無理が有るんだよ。相手が二人以上で一斉に掛かって来たらかなりヤバイ」
「なんやよう解らないけど、熱くなれるんやろ? それやると。それも大事やと思うワ」
 洋祐は、自分の話に興味を持ってくれているかどうか気遣いながら未紀の様子を見た。未紀は、暗い壁よりも更に遠くへ視線を向けて、タバコを吸いながら洋祐の話を聞いていた。そしてそのシュッと上向きに反り返った前髪が、カウンターのスポットライトに反射して銀色に輝いていた。
「ふふふ、大丈夫。私も学生時代はアタックナンバーワンだったんよ。バレーボールをやっていたの」
 仄暗い、何かタバコとコーヒーとドラッグの香りのするジャズ喫茶から始まった恋と、青春時代に太陽の下で汗を流した、と言う話とのギャップが、未紀をますますミステリアスに仕立てて行った。
 二人はジンのストレートを数杯飲んでバーを出た。
「ねぇ、喫茶店に行かへん? 紅茶飲も熱いの」
 洋祐は未紀に誘われるまま、河原町通りの或る二階の喫茶店に入った。暫くしてホットレモンティーが二つ運ばれて来た時、未紀が何やらバッグから取り出した。洋祐が気になって聞いた。
「何それ?」
「ベンザリン、熱い紅茶で飲むと効くんよ」未紀が微笑みながら答えた。
 洋祐は、薬をやったこともなかったし、高校の友人がアンパン(シンナー)をやっていた時もまるで関心がなかった。しかし、この時は未紀と同じ行為を共有したい思いが俄かに強くなって、二人でベンザリンを二十錠ずつ飲んだ。
 暫くすると、洋祐の意識が遠退いて行った。その後、彼の意識が初めに戻った時は、二階の喫茶店から降りる階段で、二人一緒に転げ落ちた時だった。
「いっ痛ー! 未紀大丈夫?」洋祐は咄嗟に未紀を気遣って声を掛けた。未紀は痛そうにして立ち上がったが、幸い無事だった。さすがアタックナンバーワンだ。
 二度目に気が付いた時は、どこかのホテルに一緒に居た。洋祐は、次の夜もマメちゃんの居る上賀茂に戻らず未紀と一緒に過ごした。
「未紀さ、本当の名前は何て言うの?」
「あのね、千晴って言うの。あんな、コンピューターの話やけど」
「えっ、コンピューター? それがどうしたの?」
「うちの大学に在るのよ。テープに穴が空いた奴。それ、前に使ったことがあってね、古いコンピューターの最後の機械に無理したら新しいソフトが回るのよ。そやけど、やっぱり子供の服に大人が肩をすぼめて着ているようなものやから、一度に計算とかすると服がキツうなって動かないようになるのよ。私もそんなところが有って、何か言わなあかん時にね、色んな情景が浮かんで来て、それを一度に表現しようって時にね、そのコンピューターみたいに止まってしまうのよ。動かなくなってしまうの。可笑しいやろこれって」
「いや、オレもあるよ、そんな事しょっちゅうだよ。何か話していてさ、イメージの方が先に出て来るんだよ。そのイメージが出たタイミングで話をしているから、イメージと話を合わせるのが大変でね。人の名前とかが突発的に出ない事が結構有ったりするよ」
「あんさん、将来何がやりたいの?」未紀の確信を突いた疑問に洋祐は、考えながら口を開いた。
「昔は漫画家とか言っていたんだけど、今はなんでも良いからビッグになりたいな」
「洋祐のビッグって何? やっぱり絵とかなん?」
「最初はね、絵画がやりたかったけど、絵じゃ食えないと思ってさ。今は一応デザイン科なんだよね。でもこれがしっくり来ないんだ。やる気が出て来ないんだよ。モチベーションが上がらないと言うか、やっぱり動機が不純だとダメなのかな?」
「人間はね、本当に好きな事をやって、それで生活できる事が一番倖せやと思うんよ。せやから、親に面倒をみて貰っている時こそね、安月給でも気にせんと好きな事を前向きにせなあかん時やと思うワ。どんな仕事でも10年続けられたら、その時はええギャラ取っていると思うけどな」
 洋祐は、未紀の言ったこの言葉が後年分かるのだが、この時は無理だった。洋祐は、未紀に返す言葉を選んだ。
「でも、動機が不純だと、やっぱダメって事かな? やる気が起きないのに、食えないからってデザインをやっているなんて」

 洋祐と未紀はいつも肩を組んで、倒れそうで倒れない危なげな歩き方をしていた。まして洋祐は夜でもサングラスを掛けていたので、まるで危ないお兄さんのようであった。
 二人が夜の四条通りを、フラフラと肩を組んで歩いていた時の事だった。その夜はブルージーンズにUSアーミーのシャツとチャンチャンコを着て、サングラス姿で雪駄を履き、やや長髪と言う出で立ちであった。そんな「大丈夫?」と言う感じて女の肩を抱きながらフラフラと歩いていた。
 すると、そこへ二人を中傷する声が聞こえて来た。
「ホーホーッ、やっとるやんけ!」
 洋祐が声の方向を振り向くと、サングラスをした若い男と手下らしき男が二人、洋祐と千晴を見て野次っていた。この時、東京から京都までずっと追い込まれていた憂さを、一気に晴らしたい気持ちが洋祐を襲った。
「喧嘩やったろか!」
 千晴にそう一声掛けると、洋祐は急に行動に出てサングラス野郎に言った。
「なんやワレ! 丁度ええワ、むしゃくしゃしとったとこや、来んかいやっ!」
 洋祐は、そう言うとサングラス野郎の顳顬(コメカミ)に右の肘打ちを食らわした。するとサングラス野郎の悲鳴が聞こえた。洋祐は高校で喧嘩と言うものに比較的慣れていた所為もあって、この時ばかりは前向きだった。すると焦った二人が小走りに寄って来て、一人が辺りに落ちていた角材で洋祐の頭を上から打った。幸い柔らかい角材だったので、頭髪の下に薄く血が滲む程度だった。洋祐は、三対一では分が悪いと思い、千晴の肩を抱いて近くのビルへ潜り込んだ。暫く経ったが奴らは追っては来なかった。
 このビルの玄関は開いていたが、中は暗くて廊下と階段に蛍光灯が一本点いているだけだった。二人は、中二階の階段の踊り場にへたり込んでタバコを吸った。千晴は、洋祐に何かを感じたようだった。
「あんさん、どうかしたん? いきなり喧嘩なんかして。やりたい事はやったら良いと思うけど、何か違う事で悩んでいるみたいやね」
「うん、何かね。今浪人中だから色々有ってね」
 千晴に東京の日菜乃の話は出来なかった。その事と受験で追い込まれて、京都まで魂の彷徨を続けて来たのだったが。
 ただ恋愛を続けていれば、やがて訪れるかも知れない自然消滅も、青春に有った一つの話として記憶に残せたが、日菜乃の場合父親が亡くなって、自分がしっかりしなくてはいけないと言う責任感が、恋愛の対象者にもまた、その責任の一端を担う体力を要求したのだった。これ以上近ずくと二人共具体的に思考し、実行しなくてはならない。お互いが、この具体性を聖域に感じない現在(いま)に滞留したい思いと、迫って来る受験と身体を突き抜けて行く時間が、永遠に凝固する事を洋祐は願った。

 そのあと、三人で同棲していたと言うアパートに行った。
 部屋は施錠されていなかった。六畳間と三畳間が繋がった造りで広く感じた。みんな去って行ったその部屋には、煌々と点いた裸電球だけが残されていた。二人で畳に座った。千晴が洋祐の膝に寄り掛かると、洋祐は千晴を抱きしめた。その夜は千晴と別れ、洋祐はマメちゃんの居る上賀茂のアパートに戻った。

ー続きますー
 翌朝、洋祐はビッグボーイの開店時からカウンターでコーヒーを飲んでいた。カウンターの中では20代半ばの男が、忙しそうにアイスピックで氷を割っている。洋祐は、千晴が現れるのを暗いカウンターで只管待っていた。全開のジャズが暫し時の経過を忘れさせてくれた。アップテンポのピアノだった。
 仄暗い店の中、煙草の薄紫の煙が、カウンターの上の小さなスポットライトに照らし出され、その正体を現したり消えたりした。
 洋祐は、カウンターの男にコーヒーのお代わりを頼んだ。
「どうしたの? 元気ないじゃない」
 カウンターの男が洋祐に話し掛けて来た。
「そう見える? ちょっとね」
 彼は、鳥取県からやって来たらしい。名前を清水と言っていた。
 昨日千晴と別れる時に、再会の場所や時間の約束をしなかったのは、それが粋な感じに思えた事と、ビッグボーイに行けば何時でも逢えると思ったからだった。
 東京で受験と恋愛の両方から追い込まれ、旅に出たはずだったが、京都で計り知れない孤独感に出会い、洋祐は再び出口を探せないでいた。暗黒の世界に落ち込んだような感覚だった。
 昼になっても彼女は現れなかった。三時を過ぎても五時を回っても、千晴は来なかった。
「これ食べる? サービスだから気にするな」
 待ち崩れた洋祐を見兼ね、清水がりんごを剥いて出してくれた。
「ありがとう、ごめんね」清水は笑って頷いた。
 午後六時ごろ、腕時計を見た洋祐はダメージが酷くボロボロだった。
 九時になり、とうとう十時を過ぎてしまった。
「もう逢えないのかな?」
 そう呟いた洋祐の顔からは一切の表情が消え失せていた。
 そろそろ閉店になる頃、勘定を済ませて店を出ようとする洋祐に、清水が突然言った。
「死ぬんじゃないぞ洋祐!」
 彼はそう言ってノッカスを四錠くれた。
 洋祐は清水の顔を見ながら深く頷くと、ノッカスをポケットに突っ込み京都駅に向かった。
 タクシーに乗る気にはなれなかった。歩きながら洋祐は、ノッカスの包みを全て破ると、左手に集めて一気に飲み込んだ。
 洋祐は、歩道を蛇行しながらズルズルと歩き続け、やっと京都駅に着いたが、最終電車は既に無くなっていた。洋祐は、京都駅の待合室中央に置いてあったテーブルの上に、サングラスのまま仰向けに横たわると、そのまま深い眠りに落ちた。

 早朝、待合室の喧騒に気付いた洋祐は、入場券を購入するとホームに入り、東海道線の大垣行きに乗った。そして終点で名古屋行きに、更に熱海行き、東京行きと乗り継いだ。魂が抜けたようだった。

 レールの繋ぎ目が 列車の車輪に命の鼓動を与えた
 グゥン ガクン ゴトン ゴトン

 列車のガラス窓に額を着けながら 何処まで行こうか
 列車の鼓動を訊きながら 何処まで行こうか

 窓の景色が ぼやけた瞳を通り抜けて行く
 列車の胎動に身を任せて 何処まで行こうか

 あのね マザーがいるんだよ
 母親とかじゃなくってさ
 深い 深いところにさ マザーがいるんだよ

 遠い 遠い昔にね 胎児の羊水にも似た
 とっても気持ちの良いところさ

 マザーはね ボクらの故郷なんだ
 総てゆるしてくれるさ
 総て受け入れてくれるさ

 あったかくて やさしい潮の
 深い 深いところにさ
 マザーがいるんだよ

 でも マザーに逢いに行くとね
 もう帰れないよ
 逢いに行こうかな
 逢いに行っても 良いかな?

 授けられたもの

 九月中旬になった或る日、東京に戻った洋祐は、久し振りに日菜乃と油絵科のアトリエで逢っていたが、何となく沈黙が続いていた。
「日菜乃、ちょっと屋上に行かないか」
 洋祐は、彼女に何か自分の意思を伝えなければと思い、人気(ひとけ)の無い屋上に誘った。
 夕方の六時ともなると、屋上は既に群青のグラデーションに染まっていた。
 洋祐の後姿に違和感を感じていた日菜乃だったが、穏やかな瞳で洋祐を直視している。爽やかな風が日菜乃の髪を靡(なび)かせていた。
 洋祐は、日菜乃なら解るだろうと思った。洋祐の気持ちが俄かに高ぶった。恋愛と受験の両立なんて出来るはずが無い。もうどうでも良い、と彼は総てを投げ出したかった。
 その時、洋祐の気持ちの変化に気付いた日菜乃が、風上に向かって僅かに首を振り口を利いた。
「ここ気持ち良いね、でもどうしたの?」
「うん、この間さ、オレ大阪に行ったじゃない。それから京都にも行ったんだ。そこでさ・・・」

 洋祐は、京都で千晴に出逢ったことを日菜乃に話した。そこで計り知れない孤独感に遭遇したこと、河原町でチンピラと喧嘩をしたこと、千晴と一緒に薬をやったこと、そしてビッグボーイで一日中千晴を待ち続けたことを話した。日菜乃は、冷静に聞いていて何一つ避難をしなかった。
 しかし、彼女の気持ちは、少しずつ、少しずつ洋祐から遠退いて行った。
 洋祐には、その遠退いて行く日菜乃の魂が微かに見えた。
「おいっ、日菜乃! どうしたんだよ?」
 堪らなくなった洋祐は、思わず日菜乃の手を握り、その魂を引き戻そうとした。
「えっ・・・ ヨウスケ」
 紅く濡れた唇の動きだけがその言葉を告げた。
 その刹那、洋祐は二人の手元から、金色に光輝く小さな妖精たちが、小さな数千の妖精たちが、仄暗い群青の天空に揺揺と舞い上がって行くのを感じた。

 愛の蜃気楼が
 コバルトブルーの風に崩れてゆく
 恋人たちよ 哀しまないで
 奇跡の出逢いは 手探りの耀き
 止まる想いに 時間(とき)が祝福した
 恋人たちよ 歎かないで
 授けられた未来に(あした)に 妖精たちが謳う
 愛の信者たちは千年の生命
 恋人たちよ 俯(うつむ)かないで

 貴女から始まった 私の蒼く耀く時間(とき)たち
 日常の諸々に翻弄されて 渡してしまった私の蒼さよ
 朽ち果てた空蝉の祈りに芽吹いた告知は
 射し込まれた一片の光に 魂とフウガした
 傾いた椅子を差し出す貴女に 微笑(わら)って答えた
 風に呼び止められて 千年を生きた有機な想いが
 マザーを呼んでいる
 それは 私たちのもの
 それは 私たちのもの

第 1 部終了

— 第 2 部に続きます —

第2部
 山内

 翌年、日菜乃の美大進学は再び叶わなかった。そして同じ予備校で二浪することになった。しかし、なおブルジョワ女子校からの開放感と恋愛と言う甘い誘惑は、受験の道に霧のように立ちはだかり彼女の視界を覆ってしまった。先は見えないのだが、今日も予備校へ行き、絵筆を持ってカンバスに向かってさえいれば何とかなる。そう思い込んでいたのかも知れない。やはり女性の最終思考は、その躰を形成するDNAが目指すところの子孫の繁栄なのか。女である日菜乃にとって、この道で稼いで家族を養うと言った浮世じみた苦悩とは無縁なのだ。
 日菜乃は、山内と言う奈良県生まれで同じ油絵科の、一歳年上の男と付き合い始めていた。洋祐も何度か喫茶店で見かけたことがあったが、理屈っぽく喋るその声は、時折語尾が甲高く引っ張られて、同じ関西弁だが、洋祐は彼に近寄ることは無かった。当時としては珍しく長い髪と、東京では聞き慣れない関西弁が予備校の中でも目を引いた。好青年では無かったが、浪人生活の身に染みた、その荒みかたが洋祐には無い未知の凄さと、日菜乃にしてみれば、チープコンプレックスが箸休めのごとく、その興味を引いたのであろう。日菜乃自身、自分の好みのタイプを知っている積もりではいたが、この山内と言う男は対象外で、まさか自分がこんな男に引っ掛かるとは思ってもみなかったであろう。無精髭を生やして、いかにも芸術家を気取った風体は、あの洋祐も口を利くことを躊躇った。
 山内は高円寺南に、風呂無しだが台所、トイレ付きの六畳間を借りて住んでいた。彼は、実家から毎月三万円の仕送りを貰っていたので、生活にはさほど困っていなかったが、日菜乃を満足させる程デートに金を遣う余裕は無かった。予備校から高円寺まで共に帰る途中、駅前の喫茶店で会話を交わすのが常だった。コーヒーを飲みながら山内の偏屈な似非芸術論にやり込められて、すっかり虚脱感に苛まれた日菜乃の躰を、山内は毎晩のように優しく愛撫した。そうすると日菜乃は又生き返り、明日に希望を繋いで帰路につくのであった。
 男に取って日菜乃は、ある意味危険だと洋祐は感じていた。日菜乃と付き合っている時も、洋祐は激しく魂を揺すぶられる事が多く、マイナーであった、いや、今迄逃げていた自分と、真っ向から向き合わざるを得なくなったことも多かった。例えば、今そこは曖昧にして置いて、上手く煽てながら相手の成長を促す。そんな気遣いを日菜乃は一切しなかった。いや、出来なかった。いつも自分に素直にストレートな想いを表現した。それが相手に疵を付けるかも知れない事と思い遣る気持ちは、お嬢様育ちの彼女に未だ芽生えていなかった。自分に素直な事、これこそが、自分の芸術に取って一番大切な要素であった。以前付き合っていた洋祐も、アート制作の過程の中で、自分自身の正直さと嘘に直面して痛感していた。自分に嘘を付く人間が生み出した作品は、決して魅力ある作品には仕上がらない。良くも悪しくも自分に素直である事。他人に非難されようとも日菜乃にしてみれば、それは、はっきりと手に取れる勲章のようなものだった。しかし、日菜乃はこれを恋愛にも持ち込んだ。山内には、絵の才能が無いのでは無いか。そんなことを平気で口にした。また、それが度重なって有ったのか、山内は、難解な芸術論で日菜乃を打ち負かして憂さを晴らすのが常套だった。だが、日菜乃に自分の才能と向き合わされ、その将来性も自ら否定的になってしまった山内は、アカデミックな油絵の腕は一向に上達しなかった。
 この十九、二十歳の恋人たちには、今を生きる事が最重要課題だった。独自な芸術論と煙草と酒と愛情が、二人には充実した毎日を過ごす糧で、その高揚感と恋愛感をも高めて行った。
 今を生きる事。若い二人に取って、毎日が新しい何かに出会うステージだった。初めて聞くこと、初めて目にすること、そして初めて体験すること。躰が新しいソースを求め続けていた。それこそ、同じ年代の若者たちと差別化を図ること、オンリーワンであり続けること、一歩前にいることで暗い受験環境の中に、唯一明るい灯火を見出していたのだった。
 浪人生と言う、何か自己の意にそぐわない立場に置かれた状態は、反動もあってかその荒んだ生活の中に、唯一将来に大きな夢を求めて歩き始めていること、そしてお互いがその同志であることで容認出来た。求め合い全てを許し合った二人は、深く愛し合っていることを更に確かめ合った。

 山内は、東京芸術大学の油絵科を毎年受験していたが、思う様な結果は得られなかった。決して下手ではなかったが、大学受験の、そのアカデミックな手法に馴染めなかったのだ。
「オレがな、今に日本の芸術の歴史を変えたるワ」
 山内は、口癖の様にこう言っては日菜乃を振り向いた。
「あなたの事は好きよ。でもあなたの絵は好きじゃないわ。と言うか、今は受験用の絵を意識して描いた方が良くはなくて」
 愛を確かめ合った二人ではあったが、絵に対する価値観には僅かにズレがあった。
「あほか、おまえかて芸大の一次試験に毎年落ちてるやん。おまえにはオレの芸術は分からへんのじゃ」
 日菜乃は宙に瞳を置いたまま、押し黙った。反論したい分けではなかった。何か寂しい思いが彼女の躰を突き抜けた。それもまた新しい感覚だった。
「愛し合っているのに、どうしてこんなに寂しいのだろう?」
 日菜乃は何故油絵をやっているのか。山内の素朴な疑問であった。それを山内に照らし合わせてみれば、彼も気が付けばこれを選択していた分けだが、しかし、山内は男、近い将来山内はこの道で食べて行かなくてはならない。正にそこが男と女の違いで、彼は趣味で絵画をやっている分けでは決して無い。そもそも男と女は、生まれ出たその時から背負うものが違うのだ。山内のそんな無意識が、日菜乃に対する言動の中に絶えず現れていた。だが、そんな日菜乃の寂しい心も、山内から優しく愛されると、知らぬ間に満たされ消えてしまうのだった。

 日菜乃の実家では、父親が病死してからと言うもの、江戸川区で経営していた鉄工所が多額の負債を抱えて経営破綻してしまった。昭和四十年代の高度成長期、鉄こそ国家の柱と日菜乃の父親もまたこの事業に乗り出したのだったが、しかし、長男は未だ高校生であったので、その会社の後を継ぐにも子供過ぎた。父親の運転手だった二木は、日菜乃の姉と強引な結婚を果たした男だったが、鉄のイロハも知らないズブの素人であったので、経営は無理だったし、鉄工所を畳んで何か別の、自分が得意そうな商売を考えるほどの器量も持ち合わせていなかった。元運転手が、どう考えてみても日菜乃の家族を養う事は無理であった。
 日菜乃の母親は、田園調布駅の一等地の自宅を売り払い、借金の返済に充てたが未だ数千万円足らなかった。家族は離散した。母親は家を売った金の一部で二つ隣の駅で狭い賃貸マンションに移り住み、日菜乃はそこで母親と暮らすことになった。姉夫婦も近くのアパートに越して、二木はトラックの運転手になった。弟は高校を卒業すると、奨学金制度を利用して大学に進学し、近くでアパート生活を始めた。女である日菜乃を今すぐ働かせることに、母親の紀子は躊躇った。紀子は、女は家庭に入り、家や家族を守ると言うのが信条で、そのためには稼げる男と出会う事が必須でもあった。女と言うものは、生活圏内で出会った男性に、いつの間にか恋愛感情を持ってしまうのを、母親の紀子は良く知っていた。
「日菜乃、どうせ恋愛をするのなら、油絵をやっている人とだけは止めてね。食べて行くのが大変だからね」
 紀子は、口癖の様に、日菜乃が未だ中学生の頃からそう言い聞かせていた。
 せめて日菜乃には、好きな絵をやらせてあげたかった。予備校から引くに引けない日菜乃の行く末を、母親の紀子は危惧した。高校を卒業して二年も経ってしまったら、一流企業に入社させることも無理かと思われた。
 一流企業に入社して、将来有望な青年と結婚したのなら、日菜乃の家族も救われたのであろうが、日菜乃自身は父親の死後、極端に生活のレベルが下がった分けでも無かったので、実感が伴っていなかった。
 日菜乃が最初に恋愛感情を持ったのが、予備校のデザイン科にいた洋祐だった。デザイン科なら就職に有利であるし、産業に直結しているところに将来的展望を期待出来た。

ー続きますー
 しかし洋祐は予備校の成績も今一で、美大に進学するのも無理と思われたため、日菜乃は恋愛そのものを捨ててしまったのだった。いや、それだけで洋祐との恋愛に決別した訳では無かった。洋祐が京都へ行った時、千晴と出逢って関係を持つが、やはりこの辺りで女としてのプライドが、洋祐を許せなかったのだろう。
 では何故、油絵をやっている山内と恋愛関係になってしまったのか。それは、日菜乃に取っても悲恋であった。当時、洋祐との恋愛を取るのか、家と家族を取るのか。この狭間の中で考え抜いた挙句、日菜乃は洋祐を捨てて家と家族を選んだのだった。
〈これで本当に良かったのだろうか?〉 自分の恋愛を犠牲にして得られた家族愛も充実していたが、捨ててしまった恋、自分の素直な気持ちに申し訳ない気持ちが、この時日菜乃の心に溢れ出した。そして、その回顧と哀愁に満ちた日菜乃の気持ちの隙間に偶然入って来たのが、いつも日菜乃の近くにいた山内だった。山内の幼稚な強がりは、日菜乃に取っては甘えに感じられたし、それが安心できた。しかし山内は三浪目、日菜乃は二浪目だった。いくら東京芸大を目指す者の中には、十年浪人している人間も居るとは言え、日菜乃と山内の関係の中には、将来に希望を見出せないでいた。

「私たちはこのまま沈んで行くのだろうか? そんな事は絶対に嫌だ。しかし何故、私はこんな才能も無い男と付き合って居るのか・・・ターゲットを絞ろう」
 それから日菜乃は、山内との別離を自然な形で迎えたいがため、普段から思っていたこと、感じていたことをより躊躇なく言うようになって行った。
「あなたは、油絵を描くより前に、もっとデッサン力を付けた方が良くてよ。美大の一次試験はデッサンなのよ」
 ウィークポイントを突かれた山内は、ムキになって声を荒げた。
「オレのデッサンはな、違うんや。あんな物差しで測られたら叶わんワ。芸大の箱にオレは大き過ぎるんじゃ」
 山内を撃沈させるために使った兵器的言葉を上手く躱されて、日菜乃もムキになった。
「とにかく、美大に合格しなきゃ始まらないでしょ? あなたは未だ始まってもいないのよ。分かっていて? そんな事を言うのは、どこでも良いから美大に入ってからにして」
 普段の日菜乃は、そんな酷い言い方は絶対にしないのだが、この時は、口から出た一つ一つの台詞を確かめながら、話して居る日菜乃自身を、彼女は客観的に観る事ができた。
〈私って、こんな酷い言い方も出来るのだわ〉彼女はそう思った。
 そして、山内と話している時にだが、申し訳ない気持ちとは別に、軽蔑した、見下したその快感のような熱いものが、日菜乃の子宮辺りに走った。日菜乃は立ったまま山内を冷たく見下ろし、そして山内の長い髪に右手をゆっくりと差し出して、撫でるように鷲掴みにした。その後、日菜乃は山内の顔面を自らの腹の辺りに押しつけ、時には子宮が感じる程に擦り付けた。
「何だろうこの気持ち。変だ、変。私はこんな淫乱な女では無いはずよ。でも何か。こんな気持ち初めてだわ。男なんて・・・ こんなもの」
 日菜乃は、それ迄抱いていた男性に対しての朧げなイメージが、この時完全にフェードアウトして行く感覚に目眩を覚えた。
 もちろん山内の事は愛していたが、彼を愛する事と、家族を含めた自分自身が生きて行く事、そして自分の性を合わせた全ての欲求はチグハグで、満たされないままこの恋愛に満足できない毎日が尚も続いて行った。
「違う、こんなのじゃ嫌!」

 予備校の帰り道、山内と一緒に買い物をして、彼のアパートに着くなり米を研ぎ、夕食の支度をする。そんな所帯染みたデートが半年余り続いた。車でツーリングを楽しむ事や、映画の帰りに洒落たレストランで食事をすると言ったデートは、貧乏な浪人生では所詮無理であった。日菜乃もまた父親を亡くし、家の家計が苦しいのも、はっきりと知らされていないにしても何となく感じていて、母親には我儘は一切言わなかった。故に家庭環境は違っていても、余計な金を持っていないのは共通していた。十九、二十歳の若者たちには、こんな生活でも新鮮で、山内の為に作る夕食の献立を考えることも毎日が幸福に満たされていたが、山内が三浪目の冬を迎える頃になると、その生活にも徐々に暗い滲みのような影が現れるようになっていた。
ー続きますー

 一浪のころ、いつも一緒にいたプリンは、既に八王子の某美術大学に進学していて、日菜乃が休憩室で一人喫煙していても、何かもの寂しい感覚に囚われる事が多かった。

 年が明けて、また受験の季節が来たが、日菜乃は目的の大学には入れず、山内も四浪を決めてしまった。
「山内さん、私予備校のプロ養成所に行こうと思っているの。これ以上お母ちゃまに迷惑を掛けられないわ。どこかに入らないと」
「プロ養成所って、油絵のか?」
「いいえ、あそこは版画科があるのよ。銅版画とかリトグラフとか。私ずっと前から版画に興味があったのよ」
「そうか、それやったらそうした方がエエワ。そこに入ったらお袋さんも安心するのとちゃうかな」
 日菜乃が版画に興味があった事、これは山内も初めて聞いたことであったが、徐々に時代に取り残されたような感覚に囚われていた山内には、日菜乃のその新しい発見に対しても、話を広げて行くような気持ちにはなれなかった。そして、愛しているが無関心な状態。お互いが、相手の気持ちや状況を尊重するが為に踏み込めない、切り出せない状態もこの頃から日常化して行った。
 先もわからない状態で、子供は作れないと日菜乃は思っていた。避妊はしていたが、愛し合った後に処理するものも何か虚しさだけが残った。

 四月、日菜乃は二年の浪人生活を経て、国分寺にあるプロ養成所の版画科に入学した。通学路線も変わり、山内の住む高円寺には週末に訪れる程度に変わった。自分の求める幸福感と、山内との恋愛関係から得られる幸福感とは完全にずれていること。そんな思いが、通学中の車両の中で、日菜乃の気持ちを暗く重くして行った。
 山内もまた受験生でありながら、甘い恋愛に埋没してしまったことに、一時的にではあるが激しい悔恨に見舞われていた。だが、一旦日菜乃との恋愛に溺れてしまった以上、これは彼のプライドであったかもしれないが、自分から別離を切り出すことには抵抗があった。
 日菜乃は、恋愛の対象を受け入れておきながら、恋人の短所も含めて総てを愛する。そんな愛し方が出来ない女性だった。ピンポイントで恋人の弱点を突き、物怖じなく発言するのだ。それが自分に正直になると言うことであり、自分のアイデンティティーだと確信していた。日菜乃と山内、二人が同じような思いを抱きつつも、お互いがそれを切り出せないで、また同じような生活が続いて行った。山内はデッサンをしていても胸中は暗かった。直接的に日菜乃の姿が目に浮かび、その存在を否定するのと違って、何か鈍よりとした、暗い雲と先の見えない濃霧の真っ只中に取り残されたような気持ちに苛まれ、それが絵筆を持つ手にも現れたようだった。覇気の無い、情熱や瑞々しさの感じられない、そんな絵を、彼は毎日同じように筆をキャンバスに運んで苦悩に満ちた顔つきで量産して行った。

 毎週末に開かれていた講評会で、彼の作品は、前方に縦横に並べられたイーゼルの端に取り残されていた。講評会では講師たちが、作品の評価の高い物を中央に並べると言う事をやっていて、彼の作品はいつも端の方に取り残される状態が続いていた。これも彼の心を少なからず傷つけた。それは、周りの受験生たちにも一目瞭然で、彼の作品の良し悪しがここで決定されてしまい、山内の持っていた独特の芸術的センスは、講評会ではまるで通用しなのであった。日菜乃と逢っている時には得意気に話していた芸術論も、その精彩をさを失って行った。週末にはいつも逢っていた二人だったが、最近では逢うたびに、山内が日菜乃を飲み屋に誘うようになった。そして持ち前の芸術論を一方的に浴びせ掛け、日菜乃の冷めた微笑みに陥落すると、急に愚痴を零すようになった。
「オレのデッサンはな、背景が違うんや。バックから鎖骨の辺りに入る空間な、ここにはポエムがあるんよ。これは並の講師には体験していないから分からんのや。しかし、何で、こんな風になってしもたんかな?」
 日菜乃には、山内の気持ちが良く分かっていたが、それを慰める言葉を何とか取り繕うこともしなかった。
「あなた、そろそろ帰りましょう。私、今持ち合わせが無いの。お勘定済ませてね」
 深酔いした山内の右腕を支えながらレジに向かうと、日菜乃は山内のジャケットの胸ポケットから財布を取り出し、居酒屋のチェックを済ませた。
 帰途の途中、公園に立ち寄った。都心で良く見かける小さな公園だった。ジャングルジムに滑り台とブランコ、それに砂場。しかし、誰もいない深夜の公園は、二人だけの世界だった。明日に賭け、将来を夢見た二人だった。山内は、いつかは世界を見返してやる。何時もそれだけが自分のバネだった。二人で居れば心強かった。何も恐れる事は無かった。それだけで十分満足出来た。そうやって何時も強がっていた山内だが、公園のベンチで、反社会的な象徴であったロングヘアーも力無く縮れ垂れ下がっていた。碧冷めた顔は苦しそうで、眉間に皺を寄せて暫くすると「うっ」と喉を詰まらせて嘔吐した。日菜乃には山内が妙に小さく見えた。
「恐らく、経済とは無縁なのだろうなこの人。子供が出来たらどうするのかな?」
 日菜乃は、そんな浮世染みた考え方が、その夜は普通に出来た。
「お前な、何で勝手に版画科なんかへ行ったんや? 最近は週に一回しか来んようになったし、オレはな、前みたいにお前と一緒に学校でデッサンやったり、帰りに一緒に喫茶店に寄ったりしたいんや」
「ごめんなさい、私食事の用意もあるでしょ。高円寺はちょっと遠くなったの。でも、学校がお休みの週末にはこうやって逢いに来ているでしょ」
 常に二人一緒でなければ成立しない。まるでイマジネーションの世界で確率されたような恋愛だった。受験も上手く行かない。その捌け口だった日菜乃との恋愛も、終焉を予感させるような、寂しくて冷たくて暗い雲に覆われた公園の一角だった。

 日菜乃は、父親から溺愛され、自由奔放に育てられた。姉は自由な中に厳しく躾けられたあとが、その服装や立ち振る舞いに見て取れた。日菜乃は自由人であったし、自分に素直な事が、いや素直な意見を他人にはっきりと言える事が、何よりのアイデンティティーであった。歩くときは、裾がフレアになったジーンズで軽快に歩いた。髪は肩までのショートで、質の良いストレートな黒髪と、前髪の奥から見える瞳は、何ものをも恐れ無い漆黒の深さと透明感があった。

 日菜乃は、山内との愛の巣を疎ましく思い始めていた。どうしてあんな人と・・・ 無理は無かった。山内はまだ美術大学に合格しておらず四浪目であったし、いや、仮に来年どこかの美術大学に進学できたとしても、彼は必ず貧乏絵描きになっているであろうと容易くこの想いに行き着いてしまった。こんな人の子供を受胎しても良いのだろうか。そんな思いが日菜乃の胸を重く包んで行った。同時に、自分が好んで始めたこの恋愛を、自分の手で幕を引くことも自分を否定しているように思え、そんな勇気も湧いて来なかった。毎日ご飯を食べるようにまたあの人と逢って、そして恋愛のようなものがずっと続いて行くのだわ。そう思うと、自分でも整理できない苛つきのようなものが湧いて来た。

 次の週末、日菜乃は山内のアパートにいた。この部屋にも愛着は勿論あったが、変わり映えのしない景色よりも、二人の関係の方に辟易していた。日菜乃は、いつも山内に受験の話を出来るだけしないように気遣っていた。四浪にもなると他人には笑い話で言えることも、親密な二人には、最早ジョークにもならない位切羽詰まった感じなのであった。しかし、日菜乃は切り出してみた。心の悪魔がそうさせたのだ。僅かに笑みを浮かべながら言ってみた。
「ねぇ、今度大学受験に落ちたらどうするの? 五浪になるのよ。奈良のお母さんが泣いちゃうね」
「何言うとるんじゃ、お前は。今から来年の話なんかすな、ボケッ。そうなったら、そうなった時の話じゃ。日展にでも入選したら、世間がオレを放ってはおかんで。あかなんだら土に帰るだけや」
 山内は自分を慰めるように、初声は大きいが力無く、最後は消え入りそうな声を繋いで言った。その瞳は少し赤み掛かって濡れていた。

 山内は日菜乃に安堵を求めたかったが、日菜乃にはそれを許さない冷たさがこの時にはあった。
「日菜乃、なぁ、こっちに来いや」
 山内は日菜乃を誘ってみたが、日菜乃はそんな明日の見えない環境で愛を育む事は出来なかった。
 今愛し合えば、抜けられなくなる。そんな思いも強かったし、第一、二人が輝いていない事が一番腹立たしかった。
「私ね、輝いている人が好きよ。あなたもっと輝いてよ。今日は晩ご飯作ったら帰りますね。今日アダモの新譜が出るのよ。十時にはレコード屋さんも閉店なの。ごめんなさい」
 日菜乃は煮魚、野菜の炒め物など簡単な食事を作り、卓袱台に丁寧に揃えると、山内に「お野菜は必ず食べてね。また来ますから」と言い残して帰って行った。

 日菜乃が家に戻ったのは、夜の十一時頃だった。マンションのドアを開けると、部屋の電気が点いていなかった。
「お母ちゃま、居るの?」
 手探りで電気を点けると、ダイニングに面した六畳間に布団が敷かれていて、日菜乃の母親はそこに横たわっていた。

ー続きますー

「お母ちゃま、どうしたの?」
「あっ、日菜乃ちゃん、ごめんね。今食事の用意をするからね」
「良いのよ、食事なんて。それより何かあったの?」
 母親の紀子は、起き上がると額に手を当てながら、疲れた表情で話始めた。父親が残した借金の債権者と言う男が日中訪れ、玄関で大きな声を出して怒鳴るので、近所の手前仕方なく部屋の中に入れたのだが、そのあと何と三時間もの間まくし立てられたと言う。父親が銀行から借り入れを断られて、高利の金融会社で借り入れをしたのだが、父親の死後、返済が数ヶ月遅れたのを切っ掛けに、別の高利貸しに債権を売り渡したらしいのだ。
「日菜乃ちゃん、どうしよう?」
 姉と結婚した二木は、この義母に月二万円の仕送りをしていた。紀子はそれ以上の金の話をとても切り出せなかったし、今年小学校に入学したばかりの男の子と三人の生活で精一杯だった。
「私が何とかするわ。それでお母ちゃま、男の人に何て言ったの?」
 紀子は、寝癖のついた頭髪に手をあて、俯きながら思い出すように言った。
「私がパートでも何でもして返して行きますからって、言ったのだけど、そんなのじゃ高が知れているから、今度日菜乃ちゃん、貴女が居る時に話がしたいって」
「そうなの・・・ でもお母ちゃま心配しないでね。私と二木さんが居れば何とかなるわよ」
 日菜乃は、母親に思わずそう言って慰めた。

 マンダリン・セキュリティJP

 ニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機が続けさまに追突し、アメリカ炭疽菌事件が勃発した2001年某月某日、マンダリン・セーフティガードに施餓鬼暢由が、某都市銀行から専務待遇でやって来た。
 彼は、警備業界には無関心だった。某都市銀行に入社出来たのは彼の父親が頭取をやっていた関係と、某有名大学に父親のコネで入学できたため、経歴的には申し分の無い人材に見えた。
 そして、洋祐もまた極新空手の島野師範の誘いを受けて、この警備会社に就職していたのだった。
 親会社のマンダリン・セキュリティJPは仏系米国人の父ステファン・ジェンキンスと日本人の母チエ・ウエノの間に生まれたオリバー・U・ジェンキンスが、1968年に日本に戻ったおり、マンダリン・セキュリティの前身であった、JGSI(ニッポンゼネラル警備会社)を買収し1988年に社名変更、本部を香港に置いた国際警備会社であった。

 ニッポンゼネラル警備会社は、会期中延べ6,400万人が訪れた1970年度大阪万国博覧会にて、警察警備隊及び他警備会社と共に活躍をした。そして、ニッポンゼネラル警備会社はその名を改め、現在はマンダリン・セキュリティJPと改名、極東のマンダリン警備会社日本支部として成長している。
 現在、子会社のマンダリン・セーフティガードは、常駐警備(24H勤務)を基本とした業務を中心に行っており、親会社のマンダリン・セキュリティJPは、機械システム及び装置を使った警備を社軸としている。

 セーフティガードの仕事が、全て親会社から回って来るのが施餓鬼は些か不満だった。子会社は仕事の内容を選べないのと、かなり単価が叩かれて安かったのだ。彼は、父親に不満をぶつけた。
「父上、どうして私があのような警備会社に行かねばならないのですか? 私はもっと業務形態のシンプルな会社が良いのですが」
 施餓鬼の父親は、怪訝な顔付きで彼を諌めた。
「何を言っている。警備はこれから最も市場拡大が望める仕事だ。お前もそこで頑張って、将来は警備会社を持つくらいになるんだ」
 施餓鬼暢由は、慌てて父親に言い返した。
「しかし、私は広告会社のような所が希望なのですが、綺麗な女子も多く、私も早く結婚できるかも知れませんし、警備会社と言うのは男子ばかりと聞きます」
 父親は、息子を諭すように優しく言った。
「お前を慶早大学に入れたのは施餓鬼家を継ぐ為だぞ。お前が役員になって頑張っている姿を見れば、どんな女子だって追いて来よう。まずは10年、頑張って来なさい」

 マンダリン・セーフティガードの歴代社長は、親会社のマンダリン・セキュリティJPから派遣された雇用社長であった。五年毎にその首が挿げ替えられるので、歴代の社長はあまり会社に対して前向きになれなかった。しかし、彼らは現状維持、異常無しの状態を保つ事に関してはその努力を惜しまなかった。自分の在任中に何も起きないことが、一番の功績と思われていたからである。
 この会社には幾つかの理念が存在していた。それは、主軸として「現状打破の精神」「正しさの追求の精神」「否定の精神」その他であり、これ等は全て親会社から拝借して来たものを、社員に知らしめる事も無く、ただ本社の白壁に貼ってあるだけの飾り理念であった。現状打破の精神は、現状の賃金体系の打破に。正しさの追求の精神は、会社に発言をしない事が正しいに。否定の精神に於いては、社風を乱す者を否定する形となって理解されていた。
 飾り社長に飾り理念、そして天下り専務に盲目的な社員達と、羊の皮を被った少数派の狼たち。この者達は、一体これからどう言う日々を送って行くのであろうか?
 こんな会社であっても、全てのやり方、会社と言う舟の漕ぎ方、社員の整理(レイオフ)には、その方法が確立されていた。他社から持って来たその方法は極めて冷徹で、水面下で粛々と遂行されるのである。
 親会社に監視されている意識の強い社長とそのセカンド辺りは、自社のレベルが競合他社と等しいか、若しくはそれ以上である意識を持つ事に躍起になり、同レベルの意識を実感できた時には大いに満足した。
 しかし、大きなセキュリティ会社を親に持つと、子会社を見る世間の目も変わるものである。社名のマンダリンが同じだけに、この会社のロゴを持つ警備員を、企業の玄関に配備して置くだけで自他共にステータスを感じさせる事ができた。施餓鬼父子の関係に実に良く似ていた。

 警備の仕事(敷地周り)は、施設内の出入管理(車)、それに伴う訪問客やユーザーの案内、鍵管理及び貸し出し、自然災害による二次災害の防止、災害時の避難誘導、不審者の侵入防止、盗難対応、火災防止等の他、犬の糞の掃除、迷惑駐車の取り締まり、玄関周りの清掃と、大凡何でも行っていた。大きな玄関には、専門の設備員や清掃員が居るのであるが、彼等の守備範囲は極めて限られていて、契約書の記述に無い清掃や修理には、余り視線が向かなかったようである。
 防災センターでの業務は、防災盤監視、監視モニターチェック、電話対応、出入管理(人)、巡回、鍵の貸し出し、緊急対応等が主な業務で、これ等の業務は建物の平面図を熟知していないと、何処かで感知器が発報しても、即時に現場へ到着して対応すると言った迅速な行動、或いは指示が出来なかった。
 本来、ベテランの警備員は、新人警備員がストレス無く十分な警備業務が出来るように指導育成しなくてはならない。大工や配管工、その他の職人的な仕事は、やり方は分かっていても手が覚える迄に5年や10年は掛かるが、警備の仕事は、一旦知識を覚えたらその日から使える仕事が多く、ベテラン警備員は自己防衛の為、新人に追い抜かれないように、自分のトラの巻きのサワリの部分しか教えなかった。優秀な要素が有って、仕事の出来ない気立ての良い新人こそ、ベテランの思う理想的な新米警備員の形なのである。
「駄目じゃ無いか、自火報の対応が出来て無いだろう? 仕方無いな、今度オレが教えてやる」
 一旦新人を叩いておいて、その後に恩と期待を彼に押し着せ、ベテラン警備員は優しく言うが、大抵はそれ切りで後で教える事は無かった。
「先輩は、他の仕事で忙しそうに動いているが、自分には良くしてくれる。良い職場だ、来て良かった」
 新人警備員の眼には、いつもこう映った。

ー続きますー

「見せる警備」と言う考え方がこの警備会社には有った。学生生活で例えると、家では必死になって勉強をやり、学校の授業ではガリ勉を悟られないように平常心でこれを受ける。だが試験では毎回高得点を取り、周囲には全然勉強していない。と何時も言う。
 セーフティガードでは、これの真逆をやろう! と言う事である。とにかく「やる気をユーザーにアピールする」であった。
 毎日、朝礼をユーザービルの一角を借りて行う。通行人にも聞こえる程の大声を張り上げて朝礼及び基本動作を行う。時には、ユーザーから「少し静かにお願いします」と言われる時もあった。
 同時に非火災訓練も毎朝行う。赤い簡易消火器を抱えて、ユーザー社員の横を駆け抜けて行く。ポスト交代時は、基本動作を踏まえたキビキビとした動作で、まるでロボットのように直角に曲がり、敬礼と同時に大声で「交代!」と気合を入れて発しポスト交代を行うのである。
 そしてユーザーに、頑張ってやっていると言う意識を持たせておいて、防災センターでは、30台以上あるモニターの監視時に眼がチカチカして眠くなり、耐えきれず上の瞼と下の瞼が自然と付いて寝てしまう事もあった。
 寝ると言っても姿勢はそのままで、意識だけはどこかへ行っているのであるから後ろからは、どう見ても起きて仕事しているようにしか見えない。ベテランの警備員は会社の正面玄関で立哨(立って警戒する)したままの姿勢で寝る事が出来るのである。こんな会社に施餓鬼がやって来た。

 朝礼で施餓鬼専務の新任挨拶が済んで御開きになり、彼は専務専用の、背もたれの高い椅子に腰掛けた。そのあと事務方全員を左手からゆっくり見渡すと、右手を顎に当て首を傾げながらニヤ付いた。
 会社の事情がまだ分からない施餓鬼専務は、取り敢えず総務の芋弦課長を呼んで聞いた。
「あっ、課長よろしくね。でさ、現場の方は今、事業本部長の星山さんが仕切っているのかな?」
 芋弦課長は、眼鏡を右手でつまみながらやや俯いて話した。
「星山事業本部長は、親会社から最近来た人ですから、実際に現場を仕切っている人は島野課長ではないでしょうか」
 施餓鬼専務は、核心に迫った話に笑みを浮かべながら追求した。
「島野課長ね・・ で、どんな方なの?」
 芋弦課長は、自慢するように島野課長の事を少し声高に話始めた。
「極新空手の師範をやっている方です。我社には、都内と三多摩地区に合わせて150以上の派遣隊が有りますが、各派遣隊の隊長たちは殆ど島野派ですね。我社は揺ぎない一枚岩です、素晴らしいです」
「そうなの」施餓鬼専務は、軽く返事をすると芋弦課長を自席に戻した。
 マンダリン・セーフティガードは、自社営業を一切やらなかった。仕事の全ては親会社からの下請けで、実際それが目的で作られた会社ではあったが、受注の増減から発生する、社内的な緊張感が全く無かった。

 島野課長は、実戦空手で有名な極新会館の四段と言う猛者で、新宿の道場で指導していた。洋祐は、週に二回この道場で島野師範から稽古をつけて貰っていてまだ初段であった。
「洋祐! 再就職は決まったのか? 空手の稽古も良いけど、そろそろ自立しないとな。親の仕送りで道場に来るのはもう止めろ!」
 洋祐は、右、左とリズミカルに突きを繰り出しながら、島野に答えた。
「はぁ、これってやりたい仕事が中々見つからなくって。島野師範、何か無いっすか?」
 島野は、待っていたとばかりに笑いながら洋祐に言った。
「じゃ、うちに来るか? 警備って馴染みが無いだろうがな、これからの仕事だよ。そろそろ霞ヶ関の省庁警備を立ち上げるんだよ。洋祐、お前も協力してくれ」
 警備と言う仕事の創成期は、未だ一般的には世間に認知されておらず、その為社員の募集を行っても、優秀な人材は全然来なかった。代わりに面接に訪れたのは、一般社会から弾き出された方、背中に彫り物が有る方、前科が有りどこも使ってくれない方等が多く、凡そ殺人者だけはいなかったが、他は全部居たそうである。であるから、洋祐のような若者は、島野も是非とも欲しかった人材であった。

「霞ヶ関の省庁にですか? 凄いじゃないですか、分かりました。で、何人くらいの人でやるんですか?」
 島野は稽古を止めて、互いに挨拶を交わし床に座り込んだ。そして考えながら言った。
「そうだな、初端は60人くらいで始めようと思っている。洋祐は、オレ付きの地域担当をやってくれ。取り敢えず城南、城東地域で30位の派遣隊を管理する。出来るか、洋祐!」
 洋祐は、島野課長付きと言う事なので、重圧もそれほど感じないで仕事の話を受けた。
「はい頑張ります。でもいきなり30の派遣隊ですか? 経験0ですけど」
「大丈夫、オレはお前を良く知っている。お前なら出来る。しっかりやってくれ」
 洋祐は、少し照れたように言った。
「はい、島野師範のためなら頑張りますよ」
 洋祐は、島野に誘われるママにマンダリン・セーフティガードに入社した。

 マンダリン・セーフティガードには、自由な雰囲気が有った。自社営業をやらないので、社内の規律が甘く、仕事に対して前向きな人間が自由に活躍出来る土壌が未だ有った。島野は、ある夢を持っていた。自分が起業した身辺警備会社を、日本中に広めると言う夢である。
 良い人材を育成するには社員教育が欠かせないが、島野はこの教育にも積極的だった。セーフティガードの全てに於いて、島野は前向きであった。社員たちは、そんな島野課長を尊敬し憧れた。

ー続きますー

 霞ヶ関派遣隊の隊長は、佐久と言う無口な40歳代後半の普通の男だったが、警備経験は長かった。班長は長尾と言う薄毛の大男だった。この男は喋りが流暢で、隊長、副隊長、班長、一般隊員の連絡業務を行った。40歳を過ぎたばかりだが、妙に腹の出た大男だった。長尾には何人か腰巾着が付いていた。彼等は、伊土、佐藤、穴黒、菊見と言い、自らを本部側の人間と称して一般隊員達と一線を引いていた。他に副隊長として、清本と言う30歳前後の若者がいたが、佐久とは反りが合わず、派遣隊の中で一人浮いた存在であった。
  菊見と穴黒は、身長が160cm弱で痩身だった。この二人は相手を見て上手く立ち振る舞うのが得意であり、上役や先輩に対しては、笑いの取れる警備的ジョークで持て成し、新入社員に対しては、その伸び代を摘んで行った。
 或る日、新人の先川と言う者が配属されて来た時の事だった。未だ新人研修中であった先川の身長も菊見と同じくらいだった。先川は実に大人しい性格であったので、菊見に取っては絶好の虐めの対象でだった。菊見は車庫入れのポストで先川の耳を摘んで、笑いながら辺りを引き摺り回した。これを見ていた穴黒は止める事をしないで囃し立てた。穴黒は、虫の好かない人間がいれば、本人のいない時に派手に誇張した悪口を上司に伝え、また一般社員の中では、本人の不在を確かめると身振り手振りとジョークを交えながら、有る事無い事を言い触らす卑しい人間だった。そして、上級職には尻尾を振って、何と派遣隊の隊長職にまで昇り詰めたのだった。警備会社と言っても、こんな人間が上級職に昇れるような、正しく無い会社、現状の宜しくない会社、新人を否定するような、三つの理念に反する会社であった。

 或る日、長尾が佐久の傍に寄って耳元で囁いた。
「長尾! お前が寄って来ると気持ち悪いんだよ。妙に太って酸っぱい匂いがする。向こうに行ってろ」
「いえね隊長、良い儲け話が有るんですよ。でも自分は向こうに行ってますね。失礼しました」
 佐久は目を丸くして、シオマネキのように腕で長尾を呼び戻した。
「一応話だけは言ってみそ。聞いといてやんから」
 長尾は、ニヤ付きながら再び佐久の所に戻り、彼の耳元に手を当てがって呟き始めた。
「この派遣隊には60人からの隊員が居るんですよ。これを使わない手はありませんよ」
 佐久は長尾の手を払い、彼の足から胴、そして胸へと視線を上げて行き、最後に顔を見て言った。
「ナニ? どう言うことだ?」
「いえね、各隊員から隊費として毎月1,000円ほど徴収するんですよ。隊員が60人いますから、一ヶ月で60,000円になりますよ。一年で720,000円の上がりです」
 佐久は、笑みを堪えながら言った。
「そんな事を一々オレに言うな、黙ってやれ! だがな、やったらオレに必ず教えろよ」
 佐久は金は欲しいが、自分から危険を冒し何かを企てるような男では無かった。たかが、一年に720,000円程度の端金で、それが露呈したら仕事を失う事は確実で、リスクが大き過ぎた。これは、考える迄も無い事だった。しかし、佐久は非常に節約家で根っからの小心者であった。隊費徴収は、自分の知らない所で長尾が勝手にやったことにしておきたかった。
 長尾は、池袋から私鉄で二、三駅目辺りに母親と二人で暮らしていた。洋祐の美大予備校の有る所に近かった。母親は、亡くなった夫が残した遺産が有り、その金で長尾母子は裕福な生活をしていた。しかし、長尾が、中国パブに入り浸るようになってからは、金遣いも荒くなって、昼食をダイエット中と称して食べない日が幾日か続いた。
 長尾は、池袋にある中国パブのメイヨウと言うホステスに心底惚れてしまって、彼女へのプレゼントに酒代、それに食事代やら車代等にかなりの金を遣うようになったと言う。防災センターの役職机で彼は、毎日中国語の勉強に没頭した。こう言った種類の努力と集中力は凄いものがあったが、派遣隊の佐久隊長はそれを黙認した。

 庁舎六階の煙感知器が発報した時の事だった。長尾は現場確認のため消火器を両手で胸前に抱えて、奥歯が見えそうな位口を開け、空気を最大限に取り込みながら見せる警備の為か、頑張って走った。しかし、これは太り過ぎで苦しかったのだ。時々薄毛のせいで落ちそうな制帽を腕で器用に直しつつ、普通では考えられない位膝を胸に付くほど上げ、鬼の形相で走った。そして、長尾の後からは、伊土、穴黒等の腰巾着達も遅れを取るまいと付いて走った。先頭の長尾がデカイので、これはまるで親ガモが子ガモを引き連れて、鉄砲を持った猟師から逃げているかのような光景だった。見せる警備と言えばそうなのかも知れないが、もっと普通に出来ないのか? と思える一幕だった。
 庁舎玄関のカウンターでは、インフォメーションの女性隊員が二名、晴れやかな制服で常時お客の応対をしている。時々、一方が私用で休む時が有った。案内嬢の上番が一名の時に、女性がトイレや食事を取る時には、インフォメーションに誰も居なくなるので、男性隊員が交替でカウンター席に座って応対する事が有った。一般隊員が指名されてインフォメーションする事も有ったが、概ね長尾がこれを行った。しかし、長尾はインフォメーションの仕事が殆ど出来ないので、ただ座っているしか無かったが、自分が仕事の出来ない無能な男に見られる事は、彼のプライドが許さなかった。しかし、訪問客がやって来たら案内しなくてはならない。そこで長尾は「訪問客が来なければ案内もしなくて良いんだ!」と、そこに気付いた。
 インフォメーションの席に着いた長尾は、下を向いたまま暫く動かなかった。そして彼は、眉間に皺を作り、太い眉尻を45度に跳ね上げて、口をへの字に曲げた。そして、その形相を保ったまま長尾はゆっくりと頭を上げた。丁度その時運悪く、擡げた頭のやや右手に訪問客が一人立って居た。確認の為、目を合わせるのは避けたかったので、それを視野の一番外側で察知した長尾は、視線と顔をそのままゆっくりと左上の遠くへ持って行った。お客と視線を合わせると、何かしらの質問が必ず来るのを長尾は良く知っていたからである。
 爛々と輝く眼(まなこ)は遠くの壁を凝視して瞬きもしなかった。まるで「来庁している人間は誰も自分に近くな」と言うオーラを放ち、長尾はインフォメーションの席に微動だにせず、ただただ座り続けた。暫くすると、お客さんは諦めて他に行ってしまった。概ね13時頃、女性隊員の休憩時間が終わりポスト交替になるが、長尾は必ず「特に何も無かった、異常無し」と言って交替するのだった。

ー続きますー

 長尾の発案した隊費の徴収は、当月末から実施された。それは、佐久の傘下である中小の派遣隊五箇所からも同時に徴収され、これが五年間継続された。
 中には隊費徴収を疑問視した隊員も数名いたが、長尾と佐久は自分の立場を利用してこれを恫喝し退けた。
 この会社の警備員は、毎年昇級及びグレード試験を受けなければならない。一階級上がると毎月二千円の手当が増えるのだ。隊費を疑問視して抗議した隊員達は、一人残らず昇級試験及びグレード試験は不合格であった。隊員の評価は、隊長が行うので、佐久隊長下に付いた隊員が昇級したいと思えば、佐久に尻尾を振るしか無かった。
 隊長が、配下の隊員の評価を下して会社に報告する。この流れは慣例であるのだが、虚偽の報告を恐れて、隊員達は自由な意見を本部に言えない状況に嵌っていた。
 隊費の徴収は、霞ヶ関と過去に佐久が務めた派遣隊五箇所を巻き込んだ。

 長尾班長の謎の死


 霞ヶ関を含んだ六箇所の派遣隊から、五年間に渡って徴収した隊費が1,000万円に達した日の深夜だった。長尾班長が巡回中に死亡した。

 この1,000万円と言う金の価値を貴方はどう見ますか? 強盗などのリスクを冒さないで手にする事ができる金です。自分の金が盗られた! と名乗る者が居ない金です。普通の生活の中で、若しかしたら手に入る金ですよ。そんな金を要らない! と言う方は恐らく居ないでしょうね。

 長尾の死亡事故の現場検証後、他殺を見込んだ警視庁本庁は、刑事部強硬課の刑事二名と鑑識五名を霞ヶ関某合同庁舎に送り込んだ。刑事は、柳沢警部と外山警部補であった。両名ともノンキャリア組で柳沢が40代後半で外山が30代前後だった。
 中澤当務責任者の案内により、非常用エレベーターで察官が12階に到着すると、即刻初動捜査が行われた。
「深夜だがな、一応周りは封鎖しておけ」
 柳沢が外山警部補に指示を出すと、鑑識の一名が階段の上下とそれに繋がる扉に規制テープを貼って回った。その後、鑑識官二名でドアノブ周りの指紋採取を、三名の鑑識官が壁周りと床周りの残留物を取った。
 そして翌夕刻、地域担当の島野課長と洋祐が警察庁本庁の柳沢警部に呼ばれた。
「どうも、自分が地域担当の島野、こっちが喜多川です」
 柳沢警部は、恐縮そうな表情を浮かべて言った。
「あ、どうも。こちらの方へお掛けください」
 柳沢は、ポケットから名刺を出すと島野と洋祐に渡し、それぞれに名刺交換が行われた。
「柳沢です。島野課長、洋祐さん、まずですね、検死の結果ですが、死因はくも膜下出血だそうです。血液が大量に脳内に広がっていたようですね。それとね、長尾さんの頭頂部に傷が有るんですよ。普通、階段から落ちると頭頂部を打つ事はあまり無いんですがね。後頭部か前頭部の辺り何ですよ。それで、現場に他に誰か居たと考えたんですが、残留物が何も残っていないんですよ。それについて何か心当たりは有りませんか?」
「いやぁ、特に有りませんね」島野課長が洋祐と顔を見合わせて言った。
「そうですか。あっ、これから皆さんの指紋を取らせて貰いますから、今日出勤している方から一人ずつ来て貰えますか。念のため島野さんと喜多川さんの指紋も取らせてください」
 島野と洋祐は、仕方ないと言った面持ちで指紋採取に応じた。
「分かりました。全面的に協力しますので宜しくお願いします。警備員がユーザーの庁舎で殺されたなんて事になったら、洒落になりませんからね」
 島野課長はそう答えた。
 その後柳沢警部は、長尾の捜索を行った第一発見者の伊土を本庁に呼んで話を聞いた。桜田門の警視庁本庁舎は、霞ヶ関派遣隊から至近距離だった。
「伊土さん、あの夜のことを詳しく話して貰えませんか? 長尾さんが巡回に向かった時からで結構です」
 伊土は虚な目で話し始めた。
「長尾班長は深夜23時、最後の巡回に出掛けたきり戻って来なかったんです。帰隊予定時間を15分過ぎても連絡が無かったんです。本部では、中澤当責が無線で長尾さんを何度も呼びました。しかし、彼の応答は無かったんです。
〈長尾班長、長尾班長、取れますか? おかしいな? 何かあったのかな? 応答が無い。伊土、ちょっと見て来てくれ〉
 中澤当責がそう言いました。
 当日の当務責任者は、中澤と言う隊員でした。巡回コースを自分が辿って行くと、A階段12階の踊り場で倒れている長尾班長を発見しました。空かさず自分は本部に無線を入れました。
〈本部! 本部! こちら伊土、こちら伊土、長尾班長を発見しました。A階段12階から13階の踊り場で倒れています。至急救急車の手配をお願いします〉自分がそう連絡を入れると・・・
〈なにぃ、倒れてる? 了解。で、どんな感じだ? 怪我をしているのか? 救急車が来るまで安全体位を保て!〉
〈了解、顔が真っ青で意識が有りません。これより安全体位を形成します〉
 6分後、救急車が庁舎搬入口に到着して、更に2分後にはストレッチャーが非常用エレベーターで12階に到着しました。でも、階段の踊り場に救急隊員が到着した時には、長尾さんは既に死んでいました。
 救急隊員から当務責任者に「彼は心肺停止状態にあるが、詳細は追って医師から伝えられます」との旨を聞かされました。
 中澤当務責任者は、ことの重大さに躍起になって自分を問い詰めました。
〈どう言う事なんだ? 伊土! お前が長尾を発見した時は未だ息が有ったんだろ? 説明しろよ、伊土!〉
〈いや、発見時は息が有ったと思うんですけど、救急隊が到着した時にはもう・・・〉
〈しようが無いか・・・ 奴は運が無かったんだよ〉
 これが長尾さんが事故死した夜に起こった事です」

 柳沢警部は、伊土の供述の要点をメモしながら言った。
「伊土さん、貴男が12階に到着した時に、誰かが争うような声とか、音とか、何か聞こえませんでしたか? 何でも結構ですよ。ドアの開閉音とか有りませんでしたか?」
 伊土は、連日の寝不足からボーッとして、疲れた表情で言った。
「いいえ、特に何も聞こえませんでした。深夜でしたので、辺りは静かなものでした」
「そうですか。じゃ、あちらで指紋を取って貰って帰って結構ですよ」
 伊土は外山が用意した指紋採取用の机に向かった。待っていた外山が言った。
「では、このインクパッドで両方の指10本の指紋を全部取りますので、指先を左右に転がすように、一本ずつやって貰えますか」
 外山が、伊土の人差し指を持ってやって見せると、同じように伊土は自分で指紋を取り始めた。
「指紋採取と言っても警備員は大体に於いて白手袋をしているから、もしかしたら出ない可能性もあるな」
 柳沢警部はそう呟いた。

 長尾班長が亡くなった翌日の朝、防災センターで佐久は、鍵の掛かった引き出しから貯金通帳を出して見ていた。
「これでこの金は全部オレのものだ」佐久はそう思った。
 それを脇から見ていた腰巾着の伊土が佐久に助言した。
「隊長、その隊費の事ですが、警察は知らないので、ほとぼりが冷める迄手を付けない方が良いですよ。バレたら、また取り調べで隊長が持って行かれますよ」
 佐久は、伊土が見ていた事に慌てたが、平静を装って言った。
「そうだな、暫く置いておくか。察がオレに張り付いているしな。伊土、お前にも分け前をやるからな、通帳の事は口外するなよ」
 伊土は、佐久を見ながら黙って頷いた。

ー続きますー

 本庁の柳沢警部と外山警部補は、事件当日に出勤していた全隊員のアリバイを調べ始めた。佐久も当然事情聴取された。そして捜査官は、佐久のアリバイに注目した。
 当日公休日だった佐久は、22時を回った頃に車で長男15歳と出掛けたらしいのだ。それを隣家の奥さんが目撃していた。彼が自宅に戻った時間は深夜の01時前で、その時は一人だったと言う。それも、隣家でエンジンの音がするので、カーテンを開けて見ていたらしい。
 長男の証言は、父親と車で近くのコンビニに行って、お菓子を買って貰い雑誌を立ち読んでいたら、父親の姿はもうコンビニには無く、車も駐車場から消えていたと言うのだ。僅かに10分くらいの間らしい。長男は、仕方なく徒歩で帰宅したと言う。
 深夜01時に帰宅した佐久は「夜の首都高は空いているので走って来た。気持ち良かった」と奥さんに言っていたと言う。

 消えた隊費

 島野課長と洋祐は、長尾の死亡に納得が行かなかった。そして彼等は、独自の捜査を開始した。
「洋祐、察が未だ気付いていない所からやろう。まず隊費の通帳からだ。佐久に話を聞ようか」
 島野は、佐久を庁舎のロビーに呼んだ。
「島野さんオレを疑っているんですか? 民間が勝手にこんな事をしても良いんですかね?」
 島野課長は、眉間に皺を寄せながら言った。
「バカ言ってんじゃないよ! 察は五年に渡って集められた隊費がまさか使われずにそのまま有った。なんて事は知らないんだよ。この派遣隊の本部側の数人しか知らない事だ。察に気付かれていないのが不思議なくらいだよ。だが、オレは地域担当者として、この派遣隊を任されている以上、真相を必ず追求する。佐久さん、隊費の通帳を持って来てくれ、カードもだ」
 佐久が重い腰を上げ、通帳とカードを持って来ると、島野課長が洋祐に指示を出した。
「洋祐、この郵便局の通帳だがな、もう一回記帳し直してくれ」
「了解しました。入っていれば良いんですがね」
 洋祐は通帳を持って郵便局に走った。そして20分後洋祐が慌てて戻って来た。
「島野さん、大変ですよ。1,000万円全額引き出されていますよ。残高は有りません」
「やはりな、で、日付はいつになってる?」
「事件が起きた日ですね。400万円が二箇所と、200万円が一箇所で数回に渡って引き出されています」
「なるほど、そう言う事か? 佐久さんどう言う事何だろうね? ちょっと説明してよ」
 佐久はそれを聞いて、逆に狼狽た。
「無い?・・・ 何でだ?」
 佐久は一寸狼狽たが、我を取り戻すと島野の質問に答えた。
「いや、隊費が纏った金額になったら、隊員たちに分配しようと思ってずっと置いていたんですがね、どうして金が無くなっているんですか? こっちが説明を聞きたいくらいですよ」
「分配だって? 分配するんだったら隊費なんか最初から集める必要は無かったんじゃないの? 銀行で定期預金をやっている分けじゃ無いんだから。隊費の事はさ、警察は知らないと思うが、なんなら察に話して佐久さんを徹底的に取り調べて貰っても良いんだよ。佐久さん! 貴方が金をカードで下ろしたんじゃないのか?」
 島野が迫ると、佐久は強い口調で反論した。
「通帳とカードは、防災センターの隊長席の引き出しに鍵を掛けて保管されていたんだ。1,000万円になった時も長尾に通帳を見せられて確認している」
 その時洋祐は、金を下ろした時、通帳に付いた番号に気付いた。
「島野さん、この通帳の番号ですけどね、多分これで下ろしたATMの場所が特定できるんじゃないですか?」
「洋祐、良い所に気が付いたな。ちょっと調べてみようか」
 洋祐は、近くの郵便局に出向き、職員から通帳に付いている番号を聞いた。
「何ですか? 取り扱い番号がお知りになりたいのですか? それを印刷したものが有りますから、ちょっと待っていてください」
 暫くして洋祐は、郵便局の職員から貰ったプリントを持って庁舎に戻って来た。
「課長、これを見て下さい。えぇっと、01493が東京駅の八重洲で、01163が日本橋と、00329が神田駅前ですね。島野さんこの三箇所で下ろされていますよ」
「そうか、しかしこれでは犯人の自宅方向が全く分からんな。洋祐、ATMのモニターを見れないか相談してみよう」
 洋祐は、職員にモニターの話をしてみたが、残念な結果になった。
「課長、モニターの録画調査は、警察官の立ち会いが必要だと職員が言うんですよ」
「まぁ、そうだろうな。うちでも部外者が録画を見る場合はそれと同じだ」

 霞ヶ関派遣隊の者達は、全員警察の取り調べを受けたが、大体に於いて白かと思われた。それは省庁内部に入り、数々の扉を開けてA階段の12階に行く迄には、マスターキーとセキュリティカードが必要であった。各隊員の巡回が終了した時点で、マスターキーとセキュリティカードはドラゴンボックスに返却し、承認印を貰う慣習のため合鍵を作る事、特にセキュリティカードのコピーは不可能と思われた。

 佐久に目星を付けた強行課の柳沢警部は、佐久を本庁に呼んで問い詰めた。
「佐久さん、ハッキリ言ってくれないと長尾さん殺しの犯人にされちゃうよ。あの時間に貴方はどこに居たのかな?」
 佐久は長い沈黙を破り、若干顔を上げると呟くように言った。
「・・・ 仕方無いか、ハッキリ言いますよ。でも女房には内緒でお願いしますよ。実は、最近長尾とよく池袋駅北口の〈香〉って中国バーに行っていたんです。長尾がメイヨウと言うホステスに狂っちゃって、三日に一回は二人で行っていました。長尾が飲み代を払う事が多かったです。自分は他の女を指名していたんですが、自分がトイレに行っている時に、メイヨウが突然入って来て自分を誘ったんです。トイレは男女兼用で、それで、自然と個室に二人で入ってちょこっと関係が出来てしまったんです。あの日は、メイヨウと上野のホテルに居ました。受付が見ているはずです。調べて下さい」
 島野は驚いた。長尾が自分の彼女だと思っていた女が、実は自分の上司に取られていたなんて。島野は眉に皺を寄せて強く言った。
「じゃぁ、メイヨウを巡って長尾さんと二人で取り合いをしていたんですか? 長尾さんが居なくなれば、貴方に取って都合が良かった。これも立派な動機じゃないですか? 多額の飲み代も長尾さんから請求されて居たんじゃないんですか? 貴方は纏った金が必要だったんだ! それに隊長さんはマスターキーを好きな時に持ち出せるんじゃないんですか?」
 佐久が黒だと睨んだ柳沢は、佐久を執拗に調べた。しかし、ホテルの駐車場では、佐久の車のナンバーが受付に控えられていて、これが一致した。

 二日後、柳沢警部は本庁にて島野課長に一つの結論を申し聞かせた。
「島野さん、やはり証拠は出ませんでしたよ。長尾さんは、A階段12階から13階途中の踊り場より13階に上がる階段の中程で、突然の脳溢血で倒れ踊り場に落ちた。昼食も抜いていたと言うから、足下が余計にふらついたんだね。その落ちる途中、蹲った状態で階段に頭頂部を打った。死因は、くも膜下出血が原因の病死であるが、頭頂部を強打したことで出血に拍車が掛かったと思われる。以上です」
 こう結論づけて、警視庁の捜査は終了した。頭頂部の腫れた傷は、頭蓋骨が陥没するほどでは無かったことから、転落時に階段の角で打ったものと関連付けるのに手間取ったのだ。これが致命傷になったとは考え難かった。

 同時刻、上野近辺の派遣隊にいた島野課長と洋祐は、外回りの巡回を兼ねて再捜査を開始した。車の中で島野は、これ迄の事件を組み立てて洋祐に説明した。
「洋祐、隊費の徴収日は毎月末だったな。長尾は、月末の事故当日は当務(24H勤務)で、朝礼後に集金を終えた後、日中に郵便局で口座に預金し記帳した。その後、通帳とカードを引き出しに戻した。それから、当日の23時の巡回中に事故が起きたんだ。金は、事故当時すでに下ろされていた。こう言うことだ。PCはどこからでも操作ができるので敢えて登録していないらしい」
 島野課長は、移動中のライトバンを運転しながら、洋祐に説明した。それを俯きながら黙って聞いて居た洋祐は、島野課長を向いて言った。
「では事件当日、長尾さんが銀行に今月の集金分を入金した後、1,000万円の残高を記帳して、その後空かさずカードで全額を下ろした。勿論記帳しないで。そう見て良いんですね。勤務中に外へ出られる時間と言えば・・・ 昼休みですよね! でもどうして三箇所も回ったのかな?」
「ATMで下ろせる金額は、一回で200万円くらいだろう。それに1,000万円も同じ場所で操作して、途中で職員に怪しまれないとも限らない。洋祐、庁舎を出発して三箇所の郵便局で金を下ろしてまた戻って来る、その時間がどれ位掛かるかちょっと調べてくれ」
「簡単な事です。了解しました」
 助手席の洋祐は、シンクパッドをバッグから取り出すと起動して検索を開始した。数分後、彼は電卓を叩き出し、計算を纏めた。
「島野課長、時間が出ましたよ。霞ヶ関から地下鉄丸の内線で東京駅まで4分の乗車時間です。そこから八重洲に回って徒歩5分、更に日本橋へ徒歩6分、そこからJRで神田へ3分の乗車です。そして、神田から霞ヶ関まで14分の乗車時間です。各ATMで引き出す時間を一箇所6分と見て、三箇所で18分です。是等の時間を合計すると50分になります。その他に歩く時間や何だかんだで、全部上手く行って1時間丁度です」
「まぁ、それで出来なくも無いが、洋祐、事件当日の昼休みは11時からだが、長尾は丸1時間出ていたのか?」
 洋祐は、自分が調べ出したことを褒められなくて、些かがっかりして言った。
「ちょっと防災センターに電話を入れてみます」
 洋祐は、携帯電話をポケットから取り出し短縮ボタンを押した。
「島野さん、菊見に聞いたところ、当日の昼休みに長尾さんは食事だけ取っていたようですね。庁舎の一階の渡り廊下に食堂が有るのですが、そこで食べているのを菊見が目撃していました」
「そうか、でも休憩時間は他にも有ったよな。洋祐、当日の配置表を見てくれ」
 洋祐は、事件当日の配置表を差し、指を一行ずつずらしながら確認して行った。
「島野さん、長尾は14時から15時まで1時間の休憩になっていますよ」
「サンキュー、佐藤は今どこでやっているかな?」
「島野さん、彼は今7番ポストですね」
「えっと、7番ポストか? 道路端に居るな。丁度良かった、洋祐7番だ。奴に聞いてみよう」
 二人は庁舎に到着すると、ゴミ庫前に車を置いて、道路から施設に入庫する出入り口に向かった。
 佐藤が大声で誘導棒を振っている姿が見える。島野が「あれがそうだ」と言ったジェスチュアをしながら近寄ると佐藤に声を掛けた。
「佐藤、どうだ調子は? 四谷の君のアパートにこの間長尾が来て、泊まって行ったんだって? 君等は仲が良いね」
「そうなんですよ、でも良く知っていますね」
「まぁね、ちょっと聞きたいんだけど、事件当日さ、長尾が14時から外出したと思うんだが、何時に戻って来たのかな? 覚えてる?」
「あの日ですか、13時50分頃に出て行きましたね。煙草が切れたとか言って早めに出たのを覚えています。帰隊したのが、15時をちょっと回ったくらいですかね、まぁ、それくらいの時間は、長尾班長は何時もの事ですから、誰も気に留めていませんよ」
 島野は、慎重に考えながら話した。
「10分前に出て、時間をちょっと過ぎて戻った。合計80分程度は使っていることになりますね。島野課長、これですね。長尾さんはこの80分の間に郵便局から・・・」
「あっ、佐藤ありがとう。仕事頑張ってね」
 島野は佐藤に軽く礼を言ったかと思うと、洋祐に言葉を移した。
「洋祐、うちの派遣隊ってさ、上下番時に私物チェックを必ずやっているんだよ。長尾は、1,000万円を引き出して、そのまま庁舎には戻って来ないだろう。下番時にチェックでバレるような事は絶対しないよ」

ー続きますー

「そうですよね。じゃ、どうやってそのお金を? 道端でメイヨウさんに渡したとか」
「いやそれは無いだろう。丸ごと渡したとは考えられない。長尾の分まで全部持っていかれるだろうからな。恐らくその場で他の口座に預けたと考えた方が良いな」
「なるほど、そうすれば時間が掛かりませんよね。他行の口座に振り込むことも出来たと思うけど、面倒の少ない、同行の自分名義の口座に入れたと考えるのが常套ですよね」
「そう考えるのがスジだな。しかし、郵便貯金のカードは長尾の私物にもロッカーにも無かったな。通帳は自宅に有るとしても、せめてカードが無いと預けられないだろう・・・ よし今日はこれ迄だ。神田の派遣隊を巡察して行こうか」

 本社では、施餓鬼専務が毎日詰まらなさそうな顔をして机に座っていた。重要な決済は社長に上げれば事が足りるし、仕事は親会社のセキュリティから黙っていても依頼が来る。他に仕事と言えば、関連企業周りと一般事務の決済書類に判子を付くだけだった。会社が順調な時ほでこの男は暇なのである。
 施餓鬼専務は。現社長の在任中に於いては、会社の様子を伺うだけで何もしなかった。だが、少しずつその歪んだ性格が顕われて来た。彼は、社内での自分の存在価値に不満を持っており、同時に事業部での島野課長の活躍に激しく嫉妬していた。

 事業部に佐藤正高と言う社員がいた。地域担当の小間使いをさせられている社員である。これと言った能力も無いが、言われた事は何も考えず、忠実に実行する事には定評があった。施餓鬼専務は、そんな彼に眼を付けた。
「佐藤さん、事業部を統括しているのは星山さんだったね? 星山さんの任期はいつ迄なの?」
「星山事業本部長ですか? はぁ、彼の任期は・・・ そうだ確か今年定年だったと思いますよ。確か九月ですよ」
「九月ね、で、人事の事は今迄どうしていたの?」
「この会社は、親会社のセキュリティの全額資本で運営されていまして、こっちの人事は全てセキュリティから言って来ます。何しろ、うちの上層部は殆ど親会社から来た人たちですから」
「そうか、しかし、これからはセーフティガードで人事の決定権を持たないといかんな。セキュリティの常務にでも話をしておくか」

 島野課長と洋祐が独自捜査を開始してから数週間後、本社から二人に捜査を中止するよう指示が出た。
「警察では、この事件の捜査は、勤務中の事故死として既に解決している。勝手な事をするな」
 と言って来たのだ。だが、島野課長はこれに反発した。
「金の行方をはっきりしないと、この派遣隊に犯罪者を野放しにする事になる。隊費の事は施餓鬼も知らない事だ。ワルを放ってはおけないだろう? 洋祐、気にするな、この現場の責任者はオレだ。東京はオレが面倒をみているんだ」

 彼等の独自捜査が一ヶ月目に入った頃には、毎日多忙を極める隊員達にも隊費事件の事は頭から離れて行った。五年に渡って計167人から集められた金は、退職した隊員と入れ替えの隊員が数十名、何ヶ月間も重なっていたこともあり、どこか有耶無耶になってしまった。
 更に一週間が経過した頃、洋祐と伊土は上級救命の資格更新のため、神田消防署へ共に行く事になった。

 秋葉原駅から軌道敷沿いに上野方面に歩くと、神田消防署が見えて来た。その建物の右側に資格試験を行う受付がある。入館受付を済ませて上階へ行くエレベーターに乗り、目的の階に着いた。
 時間になり、消防署のOBが仕事を始める。週に何度も同じ事をやっているので、身体がオートマティックに動いて行く。
 教官が、上半身だけの人形を床に寝かせて人工呼吸の練習を始めた。胸骨に両手を合わせて五cmほど下に押し込んでは戻す動作を繰り返している。イチ、二ッ、サン、シと合計30回、声を出しながら規則正しく動作を行い、マウスtoマウスで人工呼吸を施す。この方法は、何年か経過すると微妙に変更された。傷病者の口にマウスtoマウスをやらない事なども近年変更になったこ事である。
 暫くこの動作を教官が点示実演しながら、皆にその注意点を教えた。
「良いですか、この心臓マッサージをやる時の注意点として、傷病者に循環サインが無い場合に行います。循環サインとは、肩を叩きながら大きく声掛けしても、身体のどの部分にも反応が無い場合です。心肺停止になって五分で脳が死滅し始めます。この五分が勝負です。身体に血液を流す事が大事なのですが、脳内出血が確実に分かっている人にはやらないでAEDにして下さい。自動体外式除細動器ですね。傷病者は何処の部位が悪くなって倒れたか、これを出来る限り正確に把握して下さい。
 洋祐は、この教官の注意点を聞いて長尾が倒れた時の事を思い出していた。
「若しかして、長尾さんは階段で倒れた後、伊土が来た時も意識がはっきり有ったのではないのか?」
 そんな疑惑が洋祐の脳裏を過ぎった。

 疑惑の男

 数日後、伊土の明け番だった。洋祐と澤出は東上線若葉駅で伊土の帰りを待ち伏せていた。
 そして、10時頃伊土が駅から出て来た。
 身長160cm弱程度、ヨレヨレの茶色のジャケットにクリーム色のパンツ、黒色の大きなリュックを背負っている。リュックには10cmくらいか、小さなパンダの縫いぐるみがアクセサリーで吊るされてあった。
「おっ、あれだ、あの男が伊土だ。じゃ澤出、頼むよ」
「了解です。期待して待っていて下さい」
 島野と洋祐は伊土に面が割れているので、尾行が出来なかった。そこで、島野が極新会館新人の澤出を尾行に付けたのだった。
 伊土のアパートは、駅から北へ12、3分ほど歩いた所のコンビニを右に曲がってすぐの所に有った。
 アパートの前の駐車場は五ヶ所有ったが、一ヶ所を残して皆出庫していた。残った駐車場には新車の軽自動車が置かれていて、中には家電の段ボールが粗雑に入れて有った。辺りを見渡すと、アパートの隅で大家さんらしきお婆さんが掃除をしていた。それに気づいた澤出は、通販で手に入れた偽の警察手帳をスーツの内ポケットから出すと、お婆さんの顔面にいきなり開いて「すみません、こう言うものですがね」と言って、即座に仕舞い込んだ。
「ちょっと聞きたい事が有るんですよ。こっちに来て貰えませんか?」
「えっ、警察の方ですか? 聞きたい事?」
 澤出は、こう言う寸劇の上手い人間だった。軽いノリが得意で、道場は練習より話込んでいる方が多かった。
「実は、伊土さんの事なんですがね、最近生活が派手になったなんて事有りませんか?」
 大家のお婆さんは、辛辣な表情を見せていたが、直ぐに真顔になり澤出を向くと話し始めた。
「伊土さんですか? そう言えばね、この間軽自動車を買ったみたいですよ。そこに駐車している車ですよ。それもキャッシュで。なんでも180万円もしたんですって。軽なのに高いわね。一寸前迄はね、家賃を二ヶ月も滞納していたんだけど、先月一括で振り込んでくれてね。そうそう、それからさ、困っているのよ。伊土さんとこのゴミがさぁ。此処のとこ、家電も全部買い替えたみたいでね、大型TVでしょ、冷蔵庫に洗濯機もなのよ。段ボールとか中のスチロールとかさ、分別しないでまとめてゴミ置場に捨てて有るのよ。困るのよね、分別出来ない人は」
「業者は段ボールの回収をしなかったのかな?」顰めた顔つきで澤出が聞いた。
「何かね、時間が無いから取り敢えず部屋の中に入れて、古いものだけ持って帰ったみたいよ。その週の日曜日に友達を連れて来て設置したみたいだけどね」
 澤出は、伊土が購入したと言う軽自動車の写真と、ゴミ置場に置かれて有った家電の段ボールや発泡スチロール等の写真を撮った。そして、金遣いの荒くなった事、ボイスレコーダーに記録してあった大家の話など全てを、そのまま島野に報告した。

ー続きますー

 次の伊土の出勤日だった。島野と洋祐は、上番時間一時間前に庁舎の通用口付近に居た。
「おっ、来たようだな、洋祐」
 島野がそう言うと、洋祐が軽く相槌を打った。程なく伊土が通用口に差し掛かると、島野達は彼をロビーに呼んでソファに座らせた。

「伊土さん、今さ、何で貴方がロビーに座らされているか、分かる?」
 突然のことに、伊土は大きく目を剥いて島野に言った。
「いや、全然訳が分かりませんが、どう言う事ですか?」
「一つは、ここはね開放されているでしょ。軟禁状態では全く無いって事ですよ。好きな時に、トイレに行ったりジュースを買って自由に飲んでくれて結構だよ。腹が減ったら食事だって取って良い。これ最初に言っとくね」
 島野が伊土にそう言うと、洋祐がボイスレコーダーを取り出して、伊土のアパートの大家の声を再生した。その後、伊土がキャッシュで購入した軽自動車の写真を見せた。
「二ヶ月間も家賃を滞納していた人間が、一気に家賃を全額入金して、新車の軽自動車を現金で購入するワ、高い家電を全部買い替えるワ。伊土さん、これは一体どう言う事? 自分にちょっと説明してくれないかな?」
「島野課長、言っておきますけど、これはプライバシーですよ。会社の上司に報告する義務は有りませんよ。誰だってそうでしょ? TVを買ったからって一々上司に報告していますか? 必要無いでしょ? そんな事」
 島野は、声を荒げて更に言った。
「別に報告したく無かったら、報告しなくても良いけどさ、色々買うのにも金ってものが必要な分けじゃない? その金はさ、大体の所うちの会社の給料でしょ? その給料で家賃を払えなかったのにさ、新車を買ったり、家電を全部買い替えたりと、一体何処からそんな金が出て来たのかな? と思ってね。派遣隊の隊費が1,000万円消えている事でもあるし、これだけでも貴男、はっきり身の潔白を証明しないと、かなりヤバイことになるんじゃないのかなぁ? プライバシーなんて言ってると、察に任せるしか無いね。そうしたら大変な騒ぎになるよ。業界の評判になるワ、前科は付くワ、再就職も出来ないよ。でも内容次第じゃさ、会社の恥になるから、このまま終わらせてあげても良いんだよ。オレは」
「このまま・・・ マジっすか?」
 暫く伊土は下を向いたまま考えた。そして、瞼を強く瞑ったまま顔を上げると眼を開いて言った。
「自分ですよ、金を持って行ったのは。申し訳ありません。これで良いですか? 自分は認めましたよ。金は毎月分割で返して行きますよ。必ず」
 島野課長は事件の核心を突いた感覚を持って、更に伊土を追求した。
「やはり伊土さん、貴男が犯人でしたか。でもね、あの金は隊員皆がもう忘れた金、誰がどう使おうと文句の出る金じゃ無いんですよ。でも、どうやって? 何処の銀行にあの金が有ったんですか?」
「長尾さんに頼まれたんですよ。この金をメイヨウに渡してくれって」
「意味が分からないな? メイヨウってどう言うこと?」
「長尾さんが惚れ込んでいた、中国パブの女ですよ。何でも金の掛かる女らしくてね。ずっとパブは彼の付けで飲んでいたみたいで、それが結構有ったようです」
 島野は、口元を歪めながら言った。
「可笑しいじゃないの? 貴男が長尾を発見した時、長尾は意識が無かったんじゃないの? 仮に意識が有ったとしようか。しかし、その台詞ってさ、死に行く者が最期に遺言で言う言葉じゃないの? 長尾さんは、その時自分が死ぬと思っていたの> そんな分け無いよね! 階段で足を踏み外したくらいで、あれでも大学時代にフットボールをやっていたスポーツマンだよ。よし、最初から聞こうか。伊土さん、貴男が長尾さんを発見した時にね、彼は意識が有りましたか?」
 伊土は、深いため息をつくと島野の問いに答えた。
「はい、まだ意識が僅かに有ったと思いますが、返答できる程では有りませんでしたし、呼吸も途絶えそうな感じでした」
 洋祐は、上級救命講習で教官の話していた心臓マッサージの注意点から、気掛かりだったことを伊土に問い質した。
「で、どうしたの? 彼を発見して未だ意識が僅かに有った。それから? 呼吸が途絶えそうな時、警備員なら誰でも次にやることがあるでしょ? 上級救命で何を習ったんですか? そこだよ!」
 伊土は、洋祐を上目遣いに見ると、また元の視線に戻して言った。
「きゅ、救急車が来る迄と思い、心臓マッサージを少しやりました。彼を助けたかったんです。もう無我夢中で心臓マッサージをやりました。長尾さん! 長尾さん! と叫びながらマッサージをやりました。それで、気が付いたら彼はもう息をしていなかったんです。善かれと思って一生懸命やったんです。自分の何処が悪いんですか? 長尾さんを助けようと一生懸命やったんですよ」
 伊土は、泣き崩れた。自分が長尾を助けることに懸命になって行った救命活動が、実は長尾を死なせる事になろうとは。一時は、島野もそう思った。だが、洋祐は何となく不思議な感覚を持った。彼は、更に伊土に近づいて言った。
「伊土さん、貴男は長尾さんが倒れた理由を、実は予想していたんじゃないですか? 週に2、3回は一日中一緒に働いている分けだからね。彼の食生活も目の当たりにしていたでしょう。伊土さん、この前救急救命の更新の訓練に、自分と一緒に神田の消防署へ行きましたよね。そこで教官が、頭部に内出血が確実に認められた場合はAE Dにする事って言っていましたよね。その事は、上級救命の更新以前から貴男は知っていた。教官も毎回のように注意事項として言っていますからね」
「・・・ いえ、知りませんでした」
「知らない筈は無いでしょ? 五年も警備員をやっていて」
 洋祐は語気を荒げた。そこに島野が割って入った。
「伊土さん、あの皆で集めたお金ね、皆のお金だから公金でしょ? 貴男がやった事は公金横領なんですよ。これだけでも罪なんです。全部自分に話してくれませんか? 金の話は、皆から了解を取って訴えない事にしてあげても良いです。善意で行った救助活動に於いては、もし、それで死亡したとしても罪に問われる事は無いのですよ。だからここは貴男の力になってあげますから、全部自分に素直に話してください。同じ会社の同僚じゃ有りませんか」
 伊土は号泣した。そして泣きながら話し始めた。
「ウウッ、ごめんなさい。そんな気は無かったんです。魔が差したんです。たまたま自分が長尾さんの捜索に向かったばっかりに・・・
 あの時、長尾さんを発見した時に、彼の財布が尻のポケットから半分出ていました。落ちてはいけないと思い、それを手に取った時に幾らか札が見えて、中を開けたら郵便局と都市銀行のカードが何枚か有りました。自分が郵便局のカードを手に取って見ていると、長尾さんが急に自分の喉元を掴んで〈返せ!〉と言いました。自分は、その時カードに大金が入っているのかな? と思いました。それで、長尾さんにカードの暗証番号をを聞いたところ〈テメェなんかに、その金をくれてなるもんか〉と言って自分を殴ろうとしました。自分は、その手を振り払って、反射的に長尾さんを押したら、彼の頭が階段にぶつかりました。そしたら、長尾さんは親切にカードの暗証番号を自分に教えてくれたんです。自分は、彼に〈教えてくれて有り難うございます〉と丁寧にお礼を言いました。そして、必ず貴男を助けますから心配しないで下さい。と言いました」
 伊土の供述を聞いていた洋祐は、怒りを顕にして言った。
「長尾が階段にぶつかったんじゃ無くて、アンタが長尾の頭を階段に叩き付けて脅迫したんじゃないのか? 暗証番号を言え! と。そして長尾から暗証番号を聞き出した後、心臓マッサージを長尾にやったんだな? すると彼は、脳に流入した大量の血液で即死した。脳内出血をしていたんだよ。脳組織に取って血液は最大の毒だからな」
「うう、本当に知らなかったんです。ごめんなさい・・・ 助けてあげるって、長尾さんと約束したんです。暗証番号は彼が教えてくれたんです」
 洋祐は声を震わせながら、伊土にその言葉を吐き捨てた。
「お前が長尾を殺したんだ!」
 その時、島野が伊土の肩に手を置いて言った。
「伊土さん、その後貴男は自分の郵便貯金口座に1,000万円を入金したんだね?」
「はい・・・ 金が必要だったんです。だから1,000万円を自分の口座に入金しました。職業柄言い難くて今迄黙っていましたが、自分は借金が600万円程有ったんです。それで・・・」
 伊土の話を聞いていた島野は、深いため息を吐くとまた伊土に問いかけた。

ー続きますー

「伊土さん、貴男はギャンブルでもやるの? オレにはそうは見えないんだけどね。一体何の借金だったの?」
「はい、実はこのアパートに越す以前は隣町に居たんですが、そこで女と同棲していました。でも、この女が金の掛かる女だったんです。食事は作らないので毎回外食していました。共稼ぎでしたし、仕方なく。買い物も派手で、私のクレジットカードを渡してたら、あっと言う間に支払い限度額に達していました。それで、別のカードを作って渡したら、一年も経たない間にまた限度額一杯になってしまって。その度に叱っていたんですが、何しろ彼女とは年齢が10歳以上離れていましたから、そうも冷たく出来なかったんです。それから、金利とか色々と付いてしまって。すみません」
 島野が、洋祐の耳元で囁いた。
「洋祐、我々じゃ、その裏を取るなんて事は出来ないな。警備員には権限が無いんだよ。社員の住民票一通取るにしたって、一々弁護士を使わないと出来ないし、それを本社がレスポンス良くやってくれるとは思えない。〈今ちょっと忙しいから・・・〉なんて言われたら捜査にならないからな」
 島野は洋祐にそう話すと、また伊土に向いて言った。
「伊土さん、金の使い道に関しては、また詳しく話を聞きますからね。今日は一旦引き上げます」
 伊土は、常軌を逸したように泣き崩れた。
「島野さん、どうします? お金の事は皆に説明して毎月返金出来ても、彼の行った救命活動はどう言った扱いになるのですか? 奴は心臓マッサージをやれば長尾が死ぬって初めから・・・」
「洋祐、善意の救命活動はな、その結果がどうあれ、今の所殺人罪にはならないんだ。階段の角に故意に頭をぶつけて、カードの暗証番号を奪ったと言うのは、強盗罪になるかも知れん。察じゃ一応終わった事件だが、我々警備には報告の義務が有るからな。殺人罪は免れる分けだから、それ位は仕方無いだろうな。金の所有者も167人の隊員達だが、五年も経てばこれも不確定だし、まぁ執行猶予も付くだろう。洋祐、伊土を落としたな。良くやった」
 初めて捜査を行った洋祐は、その苦労が実って満足そうに答えた。
「はい、有り難うございます」
 島野に褒められた洋祐は、暫し有頂天になった。
「しかし、全額返すにしても・・・ 察への報告はちょっと遅らせるか。佐久も絡んでいるからな」

 隊費事件は一応の解決を見た。島野と洋祐は、巡回の先々で持て囃された。徴収された金が戻って来たこともあるが、警備員としての誇りを島野と共有できた事が何よりも嬉しかったのだ。

 島野課長と洋祐の活躍で各派遣隊が湧き立っていた頃、島野課長に大阪支社配属の辞令が出た。部長待遇であった。大阪支社では、大阪、京都の警備を行っていたが、既存会社からスピンアウトした粗雑な社員も多く、大阪支社としての纏まりが無かった。これを島野の求心力で何とか教育を施し、一つに纏めて欲しいと言うのが会社の狙いだった。だが、島野は不服だった。
「何で、このオレが大阪支社に配属なんだ?」
 洋祐も、島野と同じ思いで言った。
「社長がこんなことを考え付くとも思えないですね」
 洋祐は、懐疑的な顔をしてそう言った。
「そこは分からんが洋祐、一応会社が決めたことだからオレは辞令に従うが、これからお前一人じゃ大変だな。部下を一人付けるか」
「大丈夫です。自分は一人になっても頑張りますよ。何か有ったら、メールしますから、その時は色々教えて下さい」
「そうか、大阪は一年で纏めて帰って来るからな。暫くの辛抱だ、洋祐」
 数日後、島野課長は部長として大阪支社に向かった。

 ルージュ

 四月、日菜乃は中央線の国分寺駅に程近い版画プロ養成所に居た。二年の浪人生活に自ら折り合いを付け、この養成所で版画を始めることにした。それまで特に版画が好きな分けでも無かったが、タブロウに余り興味が持てなかった日菜乃は、予備校のプロ養成所に特設された版画科に興味を持つ様になったのは、自然の成り行きでもあった。
 版画科のアトリエは、常時学生が来て制作をしている分けでも無かったので、何となく殺風景に感じられ、また甘美な学園生活も無かった。殆どの学生達は、版画の技法の講習会や批評会の日に一斉にやって来て、一応のポイントを押さえると、また次の講習会までアトリエに来なかった。版画と言うものは、道具が無いと刷る事が出来ない。銅版画や石版は鉄の重いプレス機、木版画は高価なバレンや刷毛類。シルクスクリーンは真空密着露光機と、是等の機材は学内のアトリエに設置されていたので、学生達は、絵のアイデアや素描等の制作に関しては自宅で行い、機材が必要な時だけ養成所に行って作業をしたのである。養成所では、どうやれば上手く絵が描けるのか、そんな事を教えてはくれない。作家に必要な一番大事なその所は、やはり自分で悪戦苦闘して掴まなければ表現者としての自立は出来ないのだ。これは、どこの美大を卒業しても皆共通したことで、作家としての資質は、全て自分の技量で伸ばして行くしか無いのである。養成所で得られるものは、技法と、切っ掛けと刺激だけで、自分自身の資質の育成は全て自分に掛かっているのである。
 最終的に、美大に行けなかった者達が、仕方無く入学した感じも否めないこの養成所では、アトリエで学生達が顔を合わせても、何か負け犬同士が慰め合う様な錯覚に囚われて、素直に友達になれていなかった。グループを組んでお喋りに興じている光景も見られたが、それは同じ予備校出身者であるとか、入学以前からの知り合いと言ったところであった。
 やる気の感じられない学生達が多い中、日菜乃は山内との関係や母親に掛かって来た債務など一切の柵を、ここで心底忘れたかった。そして前向きに版画に没頭した。
 養成所の地下一階には、版画制作の為の機材が設置されており、この日此処で日菜乃は木版を制作していた。
「頑張るわね、日菜乃」
 同じ教室の麻里が声を掛けて来た。
「私、これをやっていると、色々なことを全部忘れられるのよ」
「ふうん、そうなんだ。色々あるわよね、人間20年もやっていると」
 麻里は、暫く日菜乃に声を掛けるのを控え、静かに彼女の仕事を眺めていたが、暫くして日菜乃に尋ねた。
「ねぇ、今彫っているその丸い大きな物って何なの?」
「えっ? これはね、地球なのよ。でも木版画でこの表現はちょっと難しいのよね」
 この時日菜乃は、暗く計り知れなく混沌とした宇宙の中に浮かぶ地球と、地球と同じ位に大きく表現された鳥をシナベニヤに彫り込んでいた。何を表現したかったのか、しかし、何となく自分は自由になりたいと言う意識が感じ取れる木版であった。木版画は、版木刀と言う彫刻刀に似た様な刀で彫って行く。日菜乃は、その研ぎ澄まされた版木刀を片手に持った時、何故かその銀色に輝く刀の刃先部分を凝視したまま、暫く視線を外す事が無かった。
「ねぇ日菜乃、大丈夫なの? 没頭が足りないよ」
 麻里は軽く笑いながら言った。軽く笑うしか無かった。日菜乃に何が有ったのか、敢えて麻里は聞かなかったが、その日菜乃が刀を凝視している姿は、簡単に首を突っ込めない、いや関わり合いを持たない方が良い。と麻里はは刹那にそう判断して言ったのだ。それは、麻里も見たことの無い様な深い暗さと、その中に少し妙な感じがしたのであるが、煌めきに似た様なものも垣間見た気がした。
「あっ、ごめんなさい。ちょっと他のことに没頭していたみたい。ねぇ、麻里ちゃん変なこと聞く様だけど、あなた水商売とか経験あるの? 良いわよね聞いても。もうお互い20歳過ぎなのだし。こうやって養成所で煙草なんかも吸える分けだし」
 麻里がホステスをやっていることは、誰にも秘密だったのだが、日菜乃の尋常では無い暗さと煌めきに、何か手を貸してあげたくなった様だった。
「お水か、実はね、私立川にアパート借りていてね、実家の仕送りだけじゃ生活がカツカツなんで、近くでちょっとやっていたりしてるんだ」
「えっ、本当? ねぇ麻里ちゃん、私もそこでやりたいな。今度紹介して下さらない?」
「えっ、でもクラブとかじゃ無いよ。普通のパブだよ」
「ふーん、違いが有るのね、飲み屋さんにも」
「日菜乃ちゃんは、何かこう銀座のクラブで優雅に働いた方が似合っている様な感じなのよね」
 麻里は週に三日、立川駅南口は某ビルの五階に有る「ルージュ」と言うナイトパブでホステスをやっていた。麻里は日菜乃の懇願に押し切られ、夜の仕事を紹介することになった。

ー続きますー

 ルージュは20時が口開けだが、この日店に着いたのは19時少し前であった。一応ママには、仕事をしたい娘がいるので連れて行く旨を伝えてあった。麻里はマスターに日菜乃を紹介すると、奥のロッカー室に日菜乃を連れて行き、自分は慣れた手付きで衣装に着替え始めた。
「日菜乃ちゃん、このお衣装ね、お店で業者を紹介してくれるのよ。とても安くしてくれるのよ。あなたも気に入ったものが見つかると良いわね」
 水商売で使う衣装は、パブ位だと自前で揃えるのが普通であるが、ルージュではママが業者と以前から付き合いがあったので、此処でも贔屓にしていたのだ。店の女の娘に衣装を任せると、恐らくパンツや短パンで店にでる娘もあったであろうが、ママには「女」を売る為の哲学らしきものが有って、まず客の前ではスカートで出る。と言うのを基本としていた。
「ねぇ、ママって何時頃来るのかなぁ?」
 日菜乃は自分を待っていてくれないママの対応に些か不満だった。
「来ている分け無いっしょ。まだ開店前だもの。いつもは9時頃かな、でも今日は日菜乃ちゃんの面接があるから、そろそろ来ると思うよ」
 面接する側が自分より遅く来る。日菜乃は自分の価値観が全く認められていない事に多少の不満を覚えた。
 暫くすると、ママがやって来て日菜乃の面接となった。ちょっと小太りで、取り分け美人でも無いが、側にいると何でもやってくれそうな安心感があり、色白で大きく開いた胸の深い谷間は、未知の動物の神秘的な道具に見えた。ママの名前はゆかりと言った。本名らしい。日菜乃より二周りくらい年上で、若い時に鹿児島から上京して、立川に落ち着いたのが八年前だと言う。麻里の話では、どうやら男と駆け落ちして、その後色々有って別れた後、お水の世界に飛び込んだらしいが、日菜乃にはまるで興味の無い話であった。
「日菜乃ちゃんって言うのね、貴女ちょっと立ってみて」
 日菜乃は戸惑った様子で、ママの言う事に従った。
「はい、はい。じゃ、ちょっと歩いてみて。そうそう、ありがとうもう良いわよ。それじゃ日菜乃ちゃん、麻里ちゃんから衣装を借りて着替えてね」
 日菜乃は焦った様子でママに言った。
「えっ、今日からお店に出るのですか? 面接はもう終わったのですか?」
 ゆかりママの人の見方は独特であった。適当に人を動かしているようだが、この時に女の娘の性格や、品性を見抜くと言う。
「日菜乃ちゃん、貴女は良いものを持っているわ。気品が有るのよね。後の細かな事は麻里ちゃんから教われば良いけど、お客様が来たら一番大事なのが会話なのよ。沈黙が続くような普通のプライベートな会話は駄目よ。お客様はね、わざわざお金を払って飲みに来て下さるのだから、一夜だけの特別な世界を体験したいのよ。それを手伝ってあげるのがホステスの仕事なのよ。分かる? だから話のネタは日頃から、TVや雑誌を気にしながら頭に入れて置かないとね。お客様のテーブルでシーンとしちゃったら、だんだん来てくれなくなるでしょ。そんなのを続けて入れば、結局来てくれるお客は貴女の身体目当ての客しか残らなくなるわよ。これって大変なのよ。ぱっと見ね、お客様が沢山付いて仕事ができている感が有るけどさ、相手は全部貴女の身体目当てだから、その内身体がボロボロになっちゃうわよ。うちは儲かれば何でも良いけどさ、でもそれじゃ貴女の気品が台無しになっちゃうし、第一未だ若いからさ、今のうちにしっかり下地を作っておかないとね。ふふ、頑張ってね」
 ゆかりママは、これだけ言うと煙草に火を点けた。日菜乃がどうしてホステスになりたいのか、聞くことをしなかった。日菜乃にはお金が必要であったが、大抵の場合、色々なことが有ってこの業界に辿り着く女が殆どのなので、そこの所を聞き出すことは全くしなかった。逆に聞き出せば、彼女たちの抱えている悩みを一気に背負うことにもなりかねないので、ここは敢えて良き理解者として聞かないことを選択しているのであった。
 日菜乃は、麻里のヘルプに付くようにゆかりママから指示されたが、客が来るまでの間、店の厨房で洗ったお絞りを巻いておくように言われた。お絞りはスーパーの買い物カゴに二杯ほど有ったが、初日のお勤めとあって、緊張を解すには格好の仕事であった。

「麻里さん、お願いします」
 この日10時くらいに麻里に指名が入り、ボーイが麻里を案内した。
「日菜乃ちゃん、指名が入ったみたい、行きましょうか」
 フリー客に付いていた麻里が日菜乃を呼びにやって来た。
 お客は35歳前後で、橋川と言う名のサラリーマンだった。
「私がお客様の右側に座るから、日菜乃ちゃんは反対側に座ってヘルプしてね。私が目で合図するまでお客様とは話をしないでね」
 日菜乃は、麻里から出た意外な言葉に躊躇したが、お客様と話してはいけない理由を聞かずにはいられなかった。
「私、貴女のヘルプでしょ? どうしてお客様とお話してはいけないの?」
 麻里は、かつて自分が先輩のヘルプに付いた時に言われた言葉を、日菜乃にも教えないといけないと思った。
「貴女が一生懸命、私のお客様とお話をしたとして、私のお客様が貴女のことを気に入ったら、私はどうなるの?」
 日菜乃は押し黙った。
「そうでしょ。この世界、人のお客を取るのはタブー。だから考えながらお話してね」
 麻里に悪気は無かったが、この店での掟はしっかり教えなくてはいけないと思った。
「日菜乃ちゃん、水割りを作ってね」
 麻里が日菜乃に指図した。日菜乃は軽く返事を返して、テーブルの端に置かれていたタンブラーを三つ、上に返して氷を入れ始めた。そこにお客の橋川が笑いながら言った。
「おいおい、飲み会をやっているんじゃ無いよ。
 麻里は慌てて日菜乃に言った。
「日菜乃ちゃん、お客様の分だけで良いのよ」
「えっ、あっ、ごめんなさい」
「良いよ、良いよ、じゃぁさ、君たちも何か飲むか? ビールにするか。良しそれじゃ、生ビール二つね」
 この席で日菜乃は麻里に気遣いながら、少しずつ会話の勉強を始めて行った。人は何のために会話をするのか。自分の意志だけを相手に伝えればそれで良いのか。特別な時にする会話とは。全てを忘れさせてあげる会話とは。相手の気を引く会話とは。相手をやる気にさせる会話とは。反対に相手を立ち上げれなくする会話とは。相手の機嫌が良くなるのであれば、虚構でも良いのか。会話で伝えられない時は行動で示さないといけないのか。行動とは何か。行動する会話とは。日菜乃は様々なパターンを想定しながら、水割りのグラスに着いた霜をお絞りで丁寧に拭くと、左手に持ち替えて橋川に差し出した。
「君さ、さっきから何をブツブツ言いながら水割りを作っているの?」
「あっ、すみません。ちょっと考え事を・・・」
 日菜乃は営業的な商業に着いたことが無かった。どちらかと言うと、人にはっきりと物を言うのが自分のアイデンティティだと思い込んでいたし、仮に今お客さんと対面していて、ただ閃いた事を伝えるためだけの会話をしても良いのか。それが漠然と浮かんだ日菜乃の疑問であった。これをやると今迄は、潮が引いたように友人が一人減り、二人減って行ったものだった。そんな会話をお客様としたら、多分明日からお店に来てくれなくなるであろう事も容易に想像がついた。
「どうしようか。どんな風に話せば良いのかな」

 翌日日菜乃は、養成所にほど近い書店で会話に付いての参考本を探した。人に、必要な事を伝えれば用が足りてしまうことが、会話と言えるのだろうか。尊敬して貰える上司になる為の会話では無く、あっと言う間の一夜限りの時間。面白ければ何でも良いトークでも無く、会話を通して相手のモチベーションを上げて、またお店に来てくれるような、そんな内容の本を探していた。小一時間探しても見つける事が出来なかったので、そろそろ本屋を出ようと思った時、別の棚にセールスについてのトーク本が目に止まった。日菜乃はその本を手に取り何頁か眼を通してみた。
 商品を売る為のトーク。お客もセールスマンが商品を買って欲しいがために、自分と会話をしている事をちゃんと理解している。そして、ここが肝心な所なのだが、お客がセールスマンを認めた時に、初めて商品の話を聞く気持ちを持って貰えるのだ。中には、ただ値段が他より安ければ、セールスマンの良し悪しは関係ない。と言う人もいるが、そんな人は別にして、やっと商品の説明を聞いて貰えて、ここでお客の満足のいく商品を、上手く出す事が出来れば買って貰えるのだ。しかし大抵の場合は思っていたものと違うとか、お客の持っているイメージとの現物のギャップに悩まされる事になるのだ。そのあと、お客の購買意欲を損なわないで、そのギャップを如何に縮める事ができるか。この営業トークこそ、全ての人が赤ん坊の時代、その泣き方によって、母乳に有り付けたり、放って置かれたりした、そんな昔から我々が無意識のうちに使っている営業スタイルの一つなのである。
 日菜乃は、その営業トークに関する本を買い求めた。自分に合うかどうか分からなかったが、姫育ちの他人に気を遣わぬ物言いを、何とかしたいと密かに思っていたのだ。これも山内と言わず、何処かで思わず出てしまう、自己の業の深さを省みた初めての行動であった。

ー続きますー

 夜の務めも三ヶ月を過ぎ、日菜乃もルージュの仕事に慣れて来た頃、店に40歳代後半の新規客がやって来た。先月名古屋から転勤になって、会社の帰りに飲める店を探していたらしい。中肉中背で容姿も並だが、刈り上げたヘヤースタイルの脂ぎった首の後下に、赤く腫れたニキビが出来ており、妙な話だが日菜乃は、それを見て僅かに母性本能を擽られた。男の名前は澤村と言い、店に来る時は大抵黒のスーツを着ていた。遊び慣れた感じもしたが、日菜乃には、その遊び慣れた感じが全く分からなかった。新規の時は、和美や利江が着いていたが、気に入らないのか澤村は滅多に笑うことをしなかった。或る夜、ゆかりママが澤村の席に日菜乃を連れて行った。
「澤村ちゃん、日菜乃ちゃんよ。可愛いでしょ」
 ゆかりママは、考えが有ってなのか一度も澤村の席に日菜乃を着かせていなかったのだが、この夜は違った。日菜乃を一眼見て喜んだ澤村が言った。
「貴女日菜乃って言うの。ねぇ、ちょっとそこに立って貰って良いかな」
「ちょっと、澤村ちゃん。日菜乃ちゃんに変なことをさせないでね。じゃ、日菜乃ちゃんお願いね」
 ゆかりママはそう言うと別のお客の席に着いた。後に残った日菜乃は、一瞬不安になったが、仕方無く澤村の言う通りその場に立って見せた。日菜乃は、胸元を大きく開けたグリーンのサテンのドレスにトルコ石のネックレスを着けていた。ボディラインがはっきりと分かる程タイトで、背中も広く取ってあり肩甲骨が見えていた。そこから内側になだらかなS字カーブを描いた曲線は、小振りではあるが豊満で形の良い尻に続いていた。
 澤村は、甲状腺の辺りが熱くなるのを感じた。そして、軽く息を吐くと、日菜乃を席に呼んだ。
 水割りを作る日菜乃の仕草に、澤村は暫し見惚れていた。しなやかな指と透明なマニキュア、真紅のルージュが初々しく澤村を非日常の夜に誘って行った。

「旨い、この水割り旨いじゃない。上手だね、水割り作るの」
「ありがとうございます」
 日菜乃は、微笑みながら軽く会釈をして言った。
「澤村さん、お仕事は何をなさってるのですか?」
 不動産関係であろうと、見当は付いていたが、澤村に着くのが初めての日菜乃は、やはり澤村の口から直に聞きたかった。
「うん、不動産関係よ。注文建築って聞いた事有る?」
 澤村は、日菜乃の漆黒の瞳に視線を奪われ、吸い込まれそうな錯覚を感じながら言った。
「注文建築ですか? まず最初にお客様の家を設計してあげて、その通りに建てるものでしょ?」
「良く知ってるね。此処の娘達は建て売り住宅と全然区別が付かなかったのに。若しかして、お父さんが建築関係だったりして」
「お父さん? お仕事は鉄鋼関係でしたが、もう死んじゃいました」
 何故か、この言葉がぴったりと嵌まるような気がして、日菜乃は澤村の反応を見ながら正直に話した。
「そうなのか。じゃ、お仕事頑張らないと駄目だね。今度から君を本指名にしてあげるからさ、サービスの方もよろしく頼むよ」
 澤村はグラスを一気に空けると、軽く音を立ててテーブルに置いた。
「君も何か飲めば?」
「あの、おビール頂いてよろしいですか?」

日菜乃は酒に強く無かったが、売り上げを伸ばすために、一人のお客から平均二杯のビールを飲んだ。一晩で10杯以上飲むことも有ったが、酔いが深くなって来ると、レストルームへ行き、口に指を咥え、奥深く差し込んで吐くことを躊躇なくやってのけた。便器に顔を突っ込んで嘔吐した後口を濯ぎ鏡の前に立つと、じっと自分を睨んだ。そして、また口を濯ぎ真紅のルージュを引き直すと、軽く微笑みながらレストルームを出るのだった。

 澤村の席で日菜乃は、生ビールが入ったグラスに口を付け少し飲んだ。澤村は乾き物の肴を適当に注文すると、また仕事の話を始めた。
「本社がね、名古屋なんだけど、今度大型プロジェクトが動き始めて東京に進出した分けよ。でも、いきなり東京のど真ん中に事務所作っても大変だからって立川になったんだ。それでオレが、その重要な役割を頼まれて来たって分けよ」
「抜擢されたのですね、凄いわ。でも、知らない土地で新しくお客様を探すのって大変でしょ。頑張ってくださいね」
「いやいや、全然大丈夫。何処でどんな営業をしても、しっかりお客を確保できる実力は持っているつもりだよ」

 澤村は、某建築会社の立川支店を任されていた。彼の本社での身分は課長で有ったが、支店長待遇で栄転していた。成績の良い社員達はむしろ名古屋に残留していて、たまたま本社で浮いていた澤村が立川支店に回されたのだった。成績を上げれば良し、上げられなければ本社に戻され、係長に降格と言う岐路に立たされていた。
「へー、澤村さんって偉いのね。でも建築費用って高いのでしょ?」
「ピンからキリだよ。一棟建てて1,500万円から2億円くらい迄かな大体。まぁ、注文があれば3億円でも5億円でもやるけどね」
「澤村さん、奥様は? こちらへは単身赴任なのですか?
「何を言っているの? オレは未だ独身だよ。忙しくてさ、結婚なんてまだまだ」
 澤村は、実は既婚者だったが、夜のクラブでは、男が独身だと偽るのは通例であった。

 色々な言葉が飛び交う中で、どの言葉が信用できるのか、そこを見極めるのは大変なのだが、それが出来なければ、ホステスは必ず後で後悔して泣く羽目に追いやられるのだ。姫育ちの日菜乃は、未だその所の見極めが甘かった。それは幼年時代に育った環境では無理もなく、周りの人たちの間では殆どリアルな表現しかされていなかったし、ましてや詐欺まがいの人間に接したことなど一度も無かった。金を稼ぐ為にこの仕事を選んで始めた女達も、毎日がストレスの連続で、疲れ果て心の拠り所を無くす時もまま有るのだ。そんな時に既婚者と分かってはいても、優しくされるとつい心が傾いてしまう。そんな事は年に何度も無い現象なのだが、この心に隙間が開く一瞬を、毎日それとなく狙っている詐欺師も大勢存在するのだ。

「独身なのですか。落ち着いていらっしゃるので、私はてっきり。じゃ、家のことは何も考えなくて済みますでしょ。お仕事にどっぷり浸れますね」
 日菜乃は、澤村の独身話を信じなかったが、何故か自分を誤魔化すように多弁になっていた。
「君こそ、彼氏いるんでしょ? 一緒に住んでいたりして」
 日菜乃は急いで否定しなかった。何となく彼氏がいて、モテ感が有った方が輝いて見えると思ったからだ。そこは、グレイにして置いて、澤村の仕事の話をまた聞いてみた。
「その建築の営業って大変そうですね。ノルマとか有るのですか?」
「立川店は、事務の女の子を入れて五人でやっているけど、月に10本くらいの契約は取っているから余裕だよ。それも、オレ一人でね」
「まぁ、澤村さんって注文建築のスペシャリストなのですね。凄いわ」
 日菜乃は、澤村にのめり込もうと思った。取り立てて面白い男でも無かったが、日菜乃的には随分興味深い話であった。この男がどれくらい稼ぐのか、それを査定する必要もあった。話半分で考えても将来的には有望に思えた。
「今度、お食事にでも誘ってくださいね」
「良いね、明後日なら仕事が早く終わりそうだから、そうするか」
 これは、ルージュに同伴で行きましょう。と誘っている話なのだが、一緒に食事をする事で、澤村の食べ物の好みを知ることができるし、その食べ方を見るだけでも幼少期に育った環境を垣間見る事が出来ると日菜乃は思った。
 日菜乃は、版画のPRO養成所から、直接ルージュに来ていたので、粧し込まなくてはならない同伴出勤は少し重荷だった。学校では、ほぼ毎日がジーンズにTシャツと簡単な服装が多かったが、同伴出勤になればスカートにブラウス、ハイヒールとハンドバッグに化粧道具一式、それにネックレス、銅板を拭くガソリンの匂いを消すスプレーにコロンと、とてもでは無いが、こんなに多くの物を家から学校まで持ち運べそうに無かった。
 仕方が無いので、日菜乃は通学で着ているジーンズ姿で澤村と会うことにした。それを澤村に知らせると、自分も若い頃穿いていたジーンズが有るので、それを穿いて行くと返して来た。
 翌夕の6時半、立川駅南口の信号の待ち合わせポイントに日菜乃が姿を見せると、反対の通りに居た澤村が嬉しそうに大きく手を振った。澤村は、会社で使っている虚仮威しの大型ベンツに乗っていた。カラーはミッドナイトブルーで、夜は黒にしか見えない。ベンツにジーンズで乗るギャップ感が良かった。澤村所有のベンツでは無いが、立川支店専用に本社で使っていた中古を回してくれたのだ。ナンバープレートは未だ名古屋のままだった。澤村はベンツの右側に日菜乃を乗せると、国道から脇道に入り、一軒の焼き鳥屋の前で止まった。
「焼き鳥食べよううよ」
 日菜乃はこう言ったB級グルメを一切口にした事が無かった。
 車を駐車場に置き、店内に二人が入って行った。カウンター席に着くと、澤村は慣れた調子で従業員にホッピーを二杯注文した。
「なぁに、ホッピーって?」
「ホッピーかい? 焼酎を麦芽入りの炭酸で割った奴さ。一見ビールだろ、ほら、この泡とこの色なんてさ、ビールと同じだろ。これは名古屋には余り無い飲み物なんだよな」
 日菜乃は東京育ちだったが、余り馴染みの無い話にただ目を丸くして澤村に答えた。
「そうなのですか。こんなへんてこりんな飲み物が東京に有ったのですね」
 澤村は日菜乃と乾杯した後、備長炭で焼いた焼き鳥の肉系をタレで、内臓系を塩で注文した。
「後、ツクネとカシラも2本ずつくれるかな」
 日菜乃は、皿に盛られた焼き鳥の串を掴むと軽快に頬張り、ホッピーも流し込んだ。
「まぁ、美味しいわ」
 それを聞いて、澤村は得意になって喜んだ。
「だから言ったでしょ、旨いよって。ねぇ大将、鳥わさもくれるかな」
 澤村は次に鳥の刺身を注文した。
「えっ、鳥の刺身なんて初めてよ。怖いわ」
「平気平気、生姜で食べればあっさりしていて、これが結構旨いからさ」
 出された鳥わさに、日菜乃は恐る恐る箸を付けた。
「美味しい。でも何か良いなぁ、こう言うの。どうして今まで焼き鳥屋さんに行かなかったのかな」
「ははは、だろB級グルメ最高!」
 澤村は、日菜乃を満足させる事が出来て上機嫌だった。そして、彼が文字盤の黒いロレックスの腕時計を確かめると、既に8時を回っていた。
「日菜乃ちゃん、そろそろお店に行こうか」
 澤村は、日菜乃を乗せて立川駅方面にステアリングを切った。信号を三つほど越えるとルージュの入ったビルが見えて来た。脇の路地からビルのパーキングに車を入れると、二人はエレベーターに乗り込み店に入った。

ー続きますー

 11時頃、日菜乃がルージュで澤村の相手をしている頃、店に1本の電話が入った。
「日菜乃ちゃん、お電話よ」
 麻里が日菜乃の耳元で囁いた。
 彼女がフロントに行くと「山内さんて言う方から」と告げられた。日菜乃は一瞬戸惑った。このアルバイトのことは、山内には教えていなかったのだ。
「どうして分かったのかな」
 日菜乃は軽い調子で呟いた。
「もしもし、山内さん、私よ。どうしてここが」
「お姉さんに聞いたんや。お母さんが教えてくれへんさかい」
 山内と日菜乃が付き合っっている事は、日菜乃の家族公認であった。しかし、毎年受験に失敗している山内とは早く別れて欲しいと、母紀子は口には出さないがそんな気持ちを持っていた。だが、姉の貴子は、父親の運転手と結婚していたこともあって、日菜乃付き合う相手の学歴に意見を言える立場では無かった。山内は、貴子の家まで押し掛けて、日菜乃のアルバイト先を聞き出したのだった。山内は、色々な男性客の訪れるナイトクラブの仕事に猛反対した。しかし、電話口での講義は届かなかった。
「今ね、お店ちょっと混んでいて忙しいの。後でまた電話するからね」
 日菜乃はそう言うと、電話を一方的に切ってしまった。
 山内は、ただ無性に寂しかったのだ。一人で高円寺のアパートに居ると、この部屋で日菜乃と無邪気に愛し合っていた頃の思い出が、今尚進行形の恋愛が、最早過去の思い出のように感じられた。それが、泣きたいほど悲しかった。大学受験が達成されない、心の拠り所であった恋愛が遠退いて行く。山内は酒を飲んだ。そして酒に溺れて行った。酔って気を紛らわせたかった分けでは無かった。どうにかしてこの寂しさを忘れたかった。どれくらい酒を飲めば忘れられるのだろう。飲むほどにアルコールが身体を巡り、頭痛や吐き気を催してくる。畳に置かれた炬燵テーブルにに突っ伏して、暫く闇を彷徨うが、やがて気を取り戻すと、寂しさがまた込み上げて来る。身も心も冷え切っていた。酒は、喉を熱く胸の辺りを一瞬暖めてくれる、この一瞬の暖かさを、山内は泣きながら求めた。
「おれには、こんなな温もりしか無いのや」
 その時、突然山内の部屋に電話が鳴り響いた。夕方前から飲んでいた山内は、TVだけ付けてその明かりで飲んでいた。
「うっ、日菜乃か?」
 彼は立ち上がり蛍光灯を点けると7、8回コールを待って受話器を掴んだ。
「山内さん、私、日菜乃よ。ごめんなさい。バイトのことを言っていなくて、でも言うと貴男が反対すると思って」
 若しかしたら日菜乃がお客と・・・ 山内は、そんな事を考えると居た堪れず猛烈に嫉妬した。電話口で、ルージュを辞めるように腹の底から怒鳴り付けてしまった。
「いつもの貴男らしく無いわ。私を信じられないのね」
〈私をこんなお店で働かせたく無いのなら、貴男も受験なんて諦めて、何処かで稼いで来てください〉
 日菜乃は真実そう思ったが、言葉に出来なかった。彼女は、もう山内に期待していなかった。仮に山内が、日菜乃の言う通り会社に勤めて給料を持って帰って来ても、何か今の恋愛を続ける気にはなれない。そう確信出来たからだ。気持ちの中では、日菜乃は既に山内に見切りを付けていた。あとは、どう別れ話を切り出すか。お互いが傷付かないで円満に別れられるか、それだけを考えていた。だが、山内の顔が見えないのを良い事に、遂に魔が刺したのか、一言一句、言葉を確認するように微笑みながら言ってしまった。
「貴男は良いわね、そうやってお家でお酒が飲めるのですもの。私は、お客様にお上手言ってお酒を飲んで貰って居るのよ」
 山内は、その言葉に絶句した。
「ほな、勝手にせいや! オレは奈良の土に帰るワ」
 怒鳴り声とも泣き声とも付かない声だった。山内は受話器が壊れる程の音を立てて電話を切った。しかし、日菜乃は、微かな満足感を感じていた。それは、山内に電話をする約束を守った事。これを機会に暫く山内と距離を置ける事。それに、新しい自分に出会えた事であった。
「でも、奈良の土って一体何だろう? 何度か聞いているわ」
 日菜乃が呟いていると、横から声が聞こえて来た。
「日菜乃ちゃんの大事な人? やだなぁ、焼けちゃうなぁ」
「澤村さん、聞いていたの? ちょっと予備校で一緒だった人よ。まだ浪人生なのだけれど嫉妬深くて、このお仕事を猛烈に反対しているの」
「そうなのか、まぁ、分かるような気もするけどね」
 澤村は、電話が置いてあるレジ横でトイレを装って日菜乃の電話を立ち聞きしていた。
「日菜乃ちゃん、もう別れちゃえば。そんなお荷物の彼氏なんてさ。オレが相談に乗るよ。彼氏働いて無いのだろ。手切れ金でも渡してさ」
 澤村が、日菜乃の漆黒の瞳を覗き込むように言うと、日菜乃は暫く俯いて黙ってしまった。
 澤村は、50万円の小切手をカウンターで素早く切ると、日菜乃の胸の前に差し出した。すると、日菜乃は、反射的に胸をかばうように小切手を掴み、それを受け取ってしまった。
 そこで安堵した澤村は、ゆっくりと日菜乃の官能的に括れた腰に手を廻した。日菜乃は全く動けなかった。自分が終わらせたいと思っていた恋愛を、男から金を貰って終わらせる事が出来るなんて想像もしていなかった事だった。一瞬〈50万円を貰って山内には渡さず別れる事が出来れば、50万円全部頂ける〉日菜乃の脳裏にそんな考えが浮かんで消えた。
「澤村さん、ありがとう。彼も学費が出来て、親御さんも喜ぶと思います」
 澤村は、日菜乃のそんな言葉に有頂天になった。
「これで日菜乃はオレのものだ、頂きだ」
 金の力の揺るぎない効力を感じた澤村は大胆になった。日菜乃を引き寄せると、腰から手を滑らせ、形の良い尻の辺りを撫でた。サテンの上からの日菜乃の感触は素晴らしかった。薄いレースの下着の一織一織が手に取るように分かった。澤村は息を詰まらせた。日菜乃は、思わず声を漏らしたが「澤村さんったら」と言いながら、彼の手を掴み身体から離すと、手を取り合ってテーブルの席に一緒に戻って行った。
 恋愛で深く愛しあい、お互いを求めあう。そんな事は人並みに体験していた日菜乃も、我が策略の為に自らの身体を利用する。そんな行為の中に、訳の分からない奇妙な快感めいたものを感じていた。その非日常性と不自然さ。日菜乃の心が俄かに揺れて、漆黒の瞳の中の得体の知れないものが更に輝いた。

 山内の旅立ち

 ルージュでの仕事が更に数ヶ月過ぎた或る日、奈良から日菜乃宅に一通の手紙が郵送されて来た。送り主は山内きぬ江とあった。彼の母親からだった。
 思えば、山内からルージュに電話があり、日菜乃の仕事に反対してから半年が経とうとしていた。それまで彼から連絡が来ないことを幸いに、学校とルージュの間を行き交う毎日は充実していた。店では、澤村の他にも何人か日菜乃にお客が付くようになっていた。彼女の稼ぎは次第に良くなり、日菜乃のお客からはチップや飲み代の上乗せ分もあって収入は増えて行った。
 一ヶ月が驚く程早く過ぎて行った。その間、山内の事は日菜乃の脳裏から消え掛かっていた。しかし、何故山内の母親から手紙が来たのだろう。日菜乃は白い封筒を紅いネイルエナメルの爪で開封すると、手紙を読み始めた。
「その内容は、山内は過度の飲酒の為、十二指腸潰瘍と肝硬変を患い、一時奈良の実家に帰省していたが、市内の某大学病院で精密検査をしたところ、十二指腸に悪性の小指大の腫瘍が有ると分かった。それに精神疾患の疑いも有ると言うことで、ドクターの勧める通り東病棟の五階に入院したとのこと。三日後、十二指腸の腫瘍の手術を行って、術後の経過は良好で有ったが、精神的に酷く病んでいたようだ。彼は、かなり投げやりになっていた。そして、何か良く分からないことを口にしていたと言う。病院の天井付近に目を遣りながら「帰りたい、帰りたい」と、気が抜けたように呟いていた。母親が、心配して「あんたはな、もうこっちへ帰って来とるんよ」と言うと、山内は「土や、土や」と言ったそうだ。「何や、訳の分からん事を言うてるわ」と母親は、理解出来ないまま山内を病室に残して、その日は帰宅した。そして、次の日の早朝だった。山内は、病室から廊下の西側の外階段に抜け出て、足を滑らせたのかその辺りは不明なのらしいが、芝生の上に転落してしまい、亡くなったと書かれていた。
 山内が転落したその場所は、表面が柔らかな土の上に深緑の芝生が厚く敷かれて有った。他の場所は全てコンクリート造りになっており、大地の香りのする土の有る場所と言えば、ここ一箇所だけだったらしい。
 日菜乃は、自分の身体から一気に血の気が引いて行くのを感じた。
「あの人が言っていた奈良の土って・・・ そんな事って」
 最期は、綺麗な表情で、全てを忘れて安らかに眠っているようだった。と母親はそう綴っていた。そして最後に「今まで息子がお世話になりました。ごめんなさいね、こんな息子で。もう受験せんでも良えから、この子もゆっくり出来ます。ありがとうございました」とあった。
 日菜乃は泣いた。純粋に愛し合った頃の山内の笑顔。その肌の温もりと感触と匂い。夜明けまで芸術論を争った忘れられない日々、共に通った銭湯。思い出す度に涙が込み上げ溢れ出した。それは、やがて号泣に変わった。
「えっ、もしかしたら私が救えたのかも知れない・・・」
 日菜乃が初めてそんな言葉を口にした。日菜乃に初めて自虐の念が湧いた。そして一度は、自分が原因でこう言う結末になった。と思えた所で自然と涙が止まった。
「私には、まだ良心が残っているのだわ」
 日菜乃は、ほっと安堵した面持ちで姿見を見た。泣き濡れた目元辺りの化粧が剥がれ、鼻も少し紅くなっている。乱れた前髪の奥から充血した瞳を覗き込んだ。そして、日菜乃は自分にこう言って聞かせた。
「私は負けない。必ず乗り越えて見せるわ」

ー続きますー

 澤村と日菜乃が親密な関係を続けている中、前田も日菜乃の大事な客になっていた。
 前田は、立川駅前商店街にある貴金属店の若社長だった。団塊の世代が結婚適齢期に入り、前田の店も繁盛していた。
 日菜乃に、前田と澤村の指名が同時に入ると、二人は上得意を競った。高級なブランディーやワインをボトルキープしたり、一皿1万円のフルーツを注文したり、日菜乃は15分置きにお客のテーブルを梯子するようになった。
 日菜乃は、澤村に最後の一線迄は許さなかった。それは一度許したが最後、男は狙った女が自分のものになったと思い込み、その途端に女に対する興味が失せてしまいお店には来なくなる。それをかおりママからきつく言われていたし、日菜乃自身もはっきり自覚出来たからであった。しかし、人前で身体を触る行為に関して日菜乃は実に寛大であった。或る夜、前田の見ている席で、澤村が日菜乃の見事なバストを触った時も、日菜乃は取り立てて嫌がりもせず笑いながらあしらった。
 それを見ていた前田は激しく嫉妬したようだった。彼は、すぐさま日菜乃を呼んで、暫く会話をしていたかと思うと、いきなり「オレも良いよな」と言って日菜乃のバストに手を宛てがうと、日菜乃はゆっくり上半身を躱した。
「今日の前田さんどうかしているわ」
「澤村の奴もやっていたじゃない。オレはダメなのか」
「ごめんなさい、私あの人に借りがあってね。ちょっと怒れなかっただけなのよ」
「借りって何?」
「この間お友達が亡くなってね、その時、落ち込んでいた私を励ましてくれたって言うか、その・・・」
 前田はそれ以上追求しなかったが、心配の余り二日と空けずルージュに通うようになって行った。日菜乃の誕生日には、プレゼントを持った客が何人かブッキングすることもあった。日菜乃に中々手の届かない客たちは、徐々に顔見知りになって、やがて一緒に飲み出す客も出てきた。そして彼等は、日菜乃ファンクラブなるものを勝手に作って、カラオケを流しながら共に歌って共に騒いだ。
 カラオケは八トラックのテープで、モニターも無く、歌い出しのポイントが非常に難しかった。しかし、客たちは皆、日菜乃が側に居てくれるだけで良かった。曲の途中で、甘い歌詞の時には日菜乃の肩を抱き寄せる事が出来たし、ふざけて頬にキスする事や、ボディータッチも出来たのだ。皆で大騒ぎをして、皆で大きな団子になって楽しんだ。
 日菜乃は、勉強した会話をこの店で駆使した分けでも無かったが、相手を怒らせてしまう可能性のある会話は最小限に留め、むしろボディラングウェッジを多用した。その所為か色々と誤解されることも多かったが、この誤解が周りの客たちの競争心を煽って、日菜乃はルージュのナンバーワンになって行った。

 施餓鬼専務の企み

 九月、星山事業本部長が定年退職になった。
 星山事業本部長の送別会は、新宿の某焼肉店でとり行われた。参加者は事業本部から十名と本社から五名、それぞれの課の責任者と女性事務員たちであった。
 施餓鬼専務は、彼の功績を讃えて祝杯の音頭を取り、全員で乾杯した。そして終始その場を盛り上げることに専念した。
「星山さん、長い間本当にご苦労様でした。星山さんが退職したら、我が社は大きな痛手ですよ。まっ、一杯どうぞ〈これで邪魔者が居なくなる。これからはオレの時代だ〉」
 施餓鬼専務は、笑みを浮かべて星山にビールの酌をした。

 翌週の月曜日に全体朝礼が有った。
 施餓鬼専務が上機嫌で、皆の前に立って演説を始めた。
「皆さんお早うございます。これから、セキュリティ本社の閣議での決定事項を皆様に発表致します」
 一瞬、社員たちに緊張感が走った。本社の閣議決定などと言う言葉を、彼等は一度も聞いた事が無かったのだ。
「我が社は、来月の一日より独立採算制を導入することになりました。セーフティガードの経営母体はセキュリティです。これは変わりませんが、仕事の流れや、諸々の決定方法が変わります。分かり易く説明しますと。今まではセキュリティから仕事を頂いていました。人事もセキュリティから言われた通りにやって来ました。我が社が赤字に転落した時には、セキュリティが補填してくれることになっていました。しかし、これからは自分達で営業努力をして仕事を請負い、完璧な業務を遂行して利益を出して行く。また、人事もそうです。会社の為に尽力してくれた人を、我が社は昇級、或いは昇格と言う形で報いたいと思います。今まで、各所に派遣隊が既存として有りますが、それ等の派遣隊は現行通り引継ぎます。また、利益が出ない! 採算が赤字になった! その時は、この施餓鬼が身命を賭して、皆様の生活をお守り致します。皆様方にお給料をお渡し致します。その為に私が専務でおります。私が専務で居ります限り、皆様に不安な思いは一切させません。ですから皆様も頑張ってください。それからね、今まで事業部はセキュリティの指示通りにやって来ましたが、これからは何でもセーフティガードで決定しなくてはなりません。これはね、専務である施餓鬼が全部面倒をみます。本隊セキュリティの常務にも〈施餓鬼さん、よろしくお願いしますよ〉と言われて来ました、ですから皆さん、これからは、社長と私施餓鬼を含めまして、全社一丸となって我社の為に頑張っって参りましょう!」
 施餓鬼専務は、朝礼でこう力説した。
 そして、業務における決定事項、営業、人事等全てがマンダリン・セーフティガードで独立独歩、進めて行く事になった。これ迄の、役所的な考え方から抜け出して、一企業として企業努力を行いl、営業利益を上げて行く。この当たり前の企業にやっとなれたのであった。暫くして、創業社長が存在しないこの会社は、苦労知らずの派遣社長と天下り専務を迎え、盲目的な追従型社員に取っても非常に不安な警備会社となって、これが大海に船出したのである。鋼鉄船に高性能レーダー、高出力エンジン等を戦艦に積み、昨日までロープで引っ張って貰っていた木造船が、初めて焼玉エンジンを自ら始動、舵取りを始めた瞬間だった。
 時を空けず、施餓鬼専務は自身の歪んだ欲求を満足させる為に、組織改革に着手した。社員たちには企業努力に見えたのだが・・・
「まず、島野の一枚岩やら、各派遣隊隊長と隊員との結束とやらを何とかしないとね。それも改革と称して新しいやり方でな」
 施餓鬼専務にいち早く尻尾を振って来た佐藤正高が、施餓鬼の側近となって傍にいた。佐藤が施餓鬼に言った。
「派遣隊の隊員にに取って隊長と言うのは絶対ですからね。一つの会社の社長みたいなものです。逆らえないんですよ」
 施餓鬼が佐藤の顔を一瞥して言った。
「隊長は一つの会社の社長と同じか? その社長が入社間も無い新人に諂ったら、隊員達の眼にはどう映る? 社長の威厳はどうなる? ふふ、面白い事になるよね。じゃ、その社長達に、新人から教育を受けると言う屈辱を味わって貰いましょうか? だが、その社長教育は既存隊員では皆納得しないだろうな」
「島野課長の一枚岩をバラバラにする為の第一歩ですね。それは良い考えでございますね。ホホッ」
「佐藤、そのホホッを止めろ! 気持ちが悪い。それから、業務をスムースに遂行する為に犬がいるな。佐藤、お前はオレの犬になれ」
「犬ですか? 何か別の言い方でお願いできませんか」
「何、オレの言い方が気に入らないのか。お前には、良く分かって貰う必要があるな」
「と、申されますと?」
 佐藤は怪訝な顔つきで聞いた。
「お前には、これからオレの為にしっかりと働いて貰わないとならん。その為には教育が必要だ。佐藤! お前の家に家庭訪問に行くから、ご家族の方をオレに紹介してくれないか?」
「そんな事ならお易い御用です。いついらっしゃいますか?」
「今夜の19時にしよう。皆さん揃っているんだろうな?」
「えっ? 早くないですか? ・・・ 分かりました。会社が終わりましたら、私がご案内致します」

ー続きますー

 調教

佐藤正高は、施餓鬼専務に言われるまま、彼を越谷の自宅マンションへ案内した。60戸ほどの小さなマンションだった。
「いやぁ、こんな狭い所にお出で頂いてすみません」
「佐藤がメインエントランスで施餓鬼にそう言ったが、施餓鬼は無言だった。二人はエレベーターで三階へ行き、玄関のインターホンを佐藤が押した。
 間も無く、奥から佐藤の女房が出て来てドアを開けた。
「あっ、施餓鬼専務さんですね。遠い所を恐れ入ります。佐藤の妻の聡子です。いつもお世話様でございます。どうぞお上がりください」
 聡子は、挨拶もそこそこに客用のスリッパを隅から取り出して施餓鬼に勧めた。
「恐縮です。佐藤さん、奥様は綺麗な方ですね。こんな綺麗な奥さんと結婚できて貴男は幸せな人だ。羨ましいな、私と替わって下さいよ」
 聡子は顔を紅く染めて照れながら言った。
「まぁ、専務さんったら、お上手なんですね」
「私は本当の事しか言いませんよ。貴女はお美しい」
 施餓鬼はそう言いながらスリッパを履くと、リビンングに入って行った。
 リビングには、佐藤の家族が全員揃っていた。
「皆様お揃いで、夜分申し訳ありません。私はセーフティガードの専務で施餓鬼と申します」
 佐藤家の家族は神妙な面持ちで頭を下げた。そして、佐藤正高が家族の紹介をした。
 家族は、正高の母親の寿子、女房の聡子、長男の高信、それに長女の千恵子と三LDKの賃貸マンションに家族五人が住んでいた。
 佐藤夫妻に、長男と姑が其々個室を持っていた。長女の部屋はリビングの壁側のコーナーにカーテンで仕切った空間があり、そこに小さなソファーベッドと机が置いてあった。
「今日ね、こちらにお邪魔させて貰いましたのは、お父さんの佐藤さんに私の側近になって頂こうと思っているんですよ。ご家族の方々の了解を頂ければ、佐藤さんにお願いしようと思いましてね。今度事業部の部長に昇格して貰おうかと考えております。専務付きになりますとね、私の言う事を良く理解して頂かないとなりません。如何せん、忙しい時には自宅に戻れない時も出て来ます。皆様方には、この辺りのことをご説明致しまして、どうかご理解して頂きたいと思います。それで、どうでしょうか、佐藤正高さんに事業部長になって貰って宜しいでしょうか?」
 家族は全員笑顔でこの話を喜んだ。事業部長に昇進すると年収も現在の倍額になるのである。
 長女の千恵子が嬉しそうに言った。
「これで、新築のマンションが買えるね。お父さん」
 正高の母親は、少ない年金に併せて病院通いが始まっていて、格別に喜んでいた。
「ここより広い所に住めるのね。良かったね、正高」
 家族の希望に燃える笑顔を楽し気に見ていた施餓鬼は、次にこう言った。
「これから、社内改革をやろうかと思っています。今よりもっと良い会社に自分がしてみせます。皆様も正高さんも付いて来て下さい。正高さんには私施餓鬼がおります。どうぞご安心下さい」
 長男の高信が小声で言った。
「親父、良かったじゃん」
 それを聞き、微笑みながら施餓鬼は千恵子を見た。
「お嬢さんは年頃なのかな? お綺麗ですね」
 千恵子は、はにかむようにして俯いた。千恵子は高校三年生で来年受験を控えている。長男の高信は千恵子の二歳年上で、大学生である。彼も喜んでいたが、千恵子ほどには言葉に出すことが出来ないようだった。
「佐藤さん、良いご家族を持たれて、貴男は幸せ者ですね」
「いやぁ、どうも有難うございます。これで遠慮なく家に帰らないで済みますワ」
「何を言ってるのお父さん! 仕事の時だけよ。専務さん、良く見ておいて下さいね」
 女房の聡子が言うと、一同大爆笑になった。皆がお互いの顔を見渡すように笑い合った。
 ダイニングでは、専務が急遽家庭訪問すると言うので、聡子は面倒と思いながらも夕食を増やしてテーブルにセットしていた。
「さぁ、専務さん夕食を召し上がって行って下さいな。皆も支度できたわよ」
 テーブルには、揚げたての牡蠣フライがサラダと一緒にセットされ、味噌汁と一緒に並べられていた。
「あっ、これはどうも有難う。こんな時間にお邪魔しましたが、何しろ佐藤さんのこれからを左右する一大事ですのでね、時間を考える余裕がありませんでした」
「いいえ、こんな手料理で申し訳ございません」
 聡子は忙しそうに、キッチンを向きながら笑顔で受け答えをした。
「それでは、佐藤さんの事業部長昇進の前祝いをしましょうか。私が、今夜は皆様に奢りますので、佐藤さん、ビールでも買って来てよ」
「あっ、自分が買って来ますよ」
 長男の高信が言った。
「いやぁ、高信くん悪いね。酒屋に言って冷えた瓶の奴を1ケース、配達させてよ。しかし良い男だね。君、大学出たらうちの会社に来るかい? 時期社長だよ」
 皆が大笑いの中、施餓鬼が1万円を渡して高信はビールを買いに出掛けた。

 終始和やかな雰囲気の中、自由にビールを飲みながらの食事が終わり、皆で本格的に飲む事になった。子供達は自室に戻りたかったようだが、施餓鬼は無理強いをした。
「今日だけだからさ、付き合ってよ。お父さんの昇進祝いだからさ」
 兄妹は渋々席についた。それから一時間くらい酒宴が続いた。家族五人は、普段飲むことも少なかったのでかなり酔っていた。長女の千恵子がトイレで嘔吐し始めた頃、施餓鬼が切り出したt。
「佐藤さん、自分はね、もっと皆さん一人一人に、会社に於ける佐藤さんの立場をご説明したいんだよ。良いかな佐藤事業部長」
「はい、勿論ですとも。お願い致します」
 佐藤は敬礼しながら、戯けたように言った。
「じゃぁ、これから面接会をしますので、和室の方に一人ずつ来て下さい」
 佐藤が不思議そうな顔で施餓鬼に聞いた。
「面接会? 何ですかそれ?」
「ご家族の方々、一人一人に事業本部長の仕事内容の説明をして、充分納得して欲しいんだ」
 施餓鬼がそう言うと、佐藤はそれ以上施餓鬼に聞き返すことを躊躇った。
 施餓鬼は間を空けず、部屋の中央に座卓が置いてある六畳ほどの和室に入った。
「そうだな、この部屋で良いかな、ねぇ佐藤さん」
 佐藤が、曖昧な返事をしていると、施餓鬼が一人目を呼んだ。

ー続きますー

 聡子は不機嫌な面持ちで正高を見た。そして諦めたように、聡子が施餓鬼の待っている和室へ入って座卓に座った。
「奥様、やっぱりこれは、会社としても非常に重要な決定事項なんでね、ご家族の方々一人一人に分かって貰わないといけないんですよ」
 そして、お座なりの説明もそこそこに、施餓鬼は正高を褒め称え始めたた。
「私は、あんな完璧な人を見たことが無いですよ。貴女は彼と結婚が出来て実に幸せな人だ。貴女は、いや聡子さんは、正高さんと結婚出来た事をもっと誇りに思ってください。あの人は裏表が無くて、仕事も最後迄必ずやり遂げる。何でもできるし、部下にも慕われている有能な人だ。家でもそうでしょ? 何でも進んでやってくれるでしょ?」
 聡子は、初めは口数少なく施餓鬼の話を黙って聞いていたが、時間の経過と共に酒を飲んで緊張感が薄らいでしまい、つい本音を口にした。
「家ではそんなにやってくれないんですよ。靴下一つ自分で探せないんです。亭主関白ですよ。どちらかと言うと」
 施餓鬼は言葉を待っていたかのように言った。
「どう言う事ですか? ちょっと自分に詳しく話してください。私が聡子さんの代わりに、彼のそう言う所を叱ってあげます。家庭をもっと良くしてあげますよ」
 施餓鬼は、素早く聡子の手を握って言った。聡子は、手を取られて驚いたが、やがて神妙な顔つきになり、ぽつりぽつりと話し始めた。
 施餓鬼は、聡子のグラスにビールを注ぎながら話を聞いた。
 聡子は夫の正高が、妊娠中も家事の手伝いを一切しなかったこと、子供達の教育に無関心だった事、夫婦の会話が少ない事、金銭感覚が無い事、女性関係にだらしが無い事などを施餓鬼に愚痴った。家族の誰にも話せなかった事だった。姑にも子供達にも愚痴れなかった事だった。聡子は、施餓鬼に愚痴を聞いて貰って長年胸に閊えたものが取れた思いだった。
 聡子さん、私が正高さんの気持ちを変えて、必ず良い家庭にして見せますからね。そうだ、女性関係って、何か辛いことが有ったんですね。自分が必ず更生させますから話してください。聡子さんの気持ちをちょっとでも和らげてあげられたら、自分も嬉しいです」
 施餓鬼は、聡子にもっと強い酒を飲ませようと思ったが、手元にはビールしかなかった。彼は、襖を少し開けて佐藤を呼んだ。
 佐藤が和室の入り口にやって来ると、 施餓鬼が言った。
「あのさ、日本酒って置いて有る?」
 佐藤は得意げに言った。
 「うちは、何だって有りますよ。ブランディーでも焼酎でも」
「ブランディーに焼酎ね? じゃさ、ブランディーをロックで二つ持って来てよ。奥さん飲み足りないみたいだからさ」
 佐藤は、キッチンで作ったブランディーのロックを二つ、両手で持って行った。ボトルも必要かと考えたが、施餓鬼と二人で酒宴になることは避けたかったので、それは止めた。施餓鬼は、ブランディーを聡子に勧めた。
「さぁ、乾杯しましょう。佐藤家の明日のために」
 聡子は、グラスの酒を半分程飲んで、テーブルに置いた。そして、暫くすると又ぽつりと話し始めた。
 夫婦で、2DKの公営団地に住んでいた時の事だった。聡子が初産の時、大きなお腹を抱えて家事をしなくてはならなかった。しかし、正高は家事を一切手伝わなかったと言うのだ。洗濯物は毎日溜まるもの、食事の支度もやらない分けには行かない。掃除をしないと家中が汚くなってしまう。これを正高が少しでも手伝ってくれたら、こんなに助かる事は無いのだが、正高は何もやらなかった。彼女の実家は山形県で、高校卒業後、聡子は東京の花柳界に憧れその道に進みたかったのだが、親の猛反対に合い家出同然に東京へ出て来たのだった。東京に来てからは、赤坂や向島の置屋に入れて貰ったのだが、不器用なのか厳しい稽古について行けず、結局自分の力不足を認識させられる結果となってしまった。親に半ば勘当された状態は、実家に戻った時にも母親との関係が修復出来ていなかった。そんな或る日、母親の口がつい滑ってしまったのだった。
「そんなに何でも自分の決めた事だけやるのだったら、子供が出来ても自分で何とかしてよ」
 佐藤と結婚して、すぐに妊娠したが実家に報告するのが何か怖くなってしまい、出産後の事後報告になってしまった。そのあと、なんども里帰りをしたいと思ったのだが、母親に意地を張ってしまい、10年ほどは帰れなかったのだと聡子は話した。
 妊娠中、正高は毎晩深夜に帰宅するようになった。挙げ句の果てに、スーツの肩辺りに口紅を付けて帰って来たり、もう頭に血が昇ってしまいどうしようも無い時が有った。しかし、実家には帰れないし、身重な身体で無理して頑張っていたのに・・・ でも、ここで正高を責めて反対に逆ギレされたら帰る所は無い、と思い直して、ただ我慢するしかなかった。「自分の妊娠中に、主人は絶対浮気をしていたと思います」と聡子は、悔しそうに語った。
「聡子さん、妊娠中は大変だったね。辛い思いをしたんだね。可哀想に」
 施餓鬼は、聡子の側に回ると両肩に手を当てて、優しく言った。聡子の眼は紅く濡れていた。施餓鬼は聡子の手を優しく取って立ち上がらせるとダイニングに帰した。
 次に長女の千恵子が呼ばれた。

ー続きますー

 施餓鬼は和テーブルの前に千恵子を座らせた。
「千恵ちゃんにも分かって欲しいんだ。家族の関係が上手く行っていないとお父さんが外で充分に力を発揮できないんだよ。会社ってところはシビアな世界でね。ちょっとしたミスでも周りから言われちゃうんだよ。だから何の心配も無く働ける環境を、ご家族の方が作ってあげないとね」
 千恵子は「分かりました」と言って頷いた。
「千恵ちゃん、お兄さんとは上手く言っているの? 見た感じは仲が良さそうだよね」
 施餓鬼が千恵子に聞くと、彼女はこう答えた。
「仲は悪くないけど、でも男と女だから、一緒に遊んだりはしないかな」
「そうだよね、オレも姉がいるんだけど、子供の頃に遊んだのは近所の悪ガキばかりだったな。でも、何か有ったら高信さんが飛んで来てくれるんだろうな。お兄ちゃんは頼りになるし大好きだろ? その方が良いんだよ兄妹って。千恵ちゃんはさ、リビングで寝ているじゃない? あれって嫌じゃないの? お兄ちゃんと同じ部屋で寝れば良いのに。兄妹なんだしさ」
「えぇっ、まさか? 二人共もう年頃なんですよ。そうだ、子供の時はね、お兄ちゃんと同じ部屋だったんだけど、お兄ちゃん部屋の中でおならばかりするんですよ。だから文句を言ったら、お前が出れば良いじゃん! って言われて、それからリビング生活なんですよ」
「あはは、おならかよ。笑っちゃうな。で、お父さんとはどうなの? これが一番聞きたいことなんだ。お父さんの事は大好きなんだろう? まだ一緒にお風呂に入ったりしてるの?」
「まさか! 私はもう高校三年生ですよ。一緒に入っていたら変態でしょ。でも、小学五年生までは一緒だったかな」
「女性は、その頃は整理が始まったり、体つきが変わったり色々あるからな」
 千恵子は、良く知らない大人の男から生理とか体つきの言葉を聞かされて戸惑ったが、風呂の話で思い付いたことを話し始めた。
「六年生になって、お風呂も別々に入るようになってから、お父さんは、お風呂のドアを開けて時々私を覗いたりするんです。専務さんから言って、止めさせて貰えませんか? お母さんに言ってもピンと来ないみたいで、急にお風呂に一緒に入らなくなったからじゃない? って感じなんですよ。私、本当に嫌なんです」
「分かった、オレから注意しておくよ。いやごめんごめん、千恵ちゃん、もう良いよ。お兄ちゃんと替わってくれるかな」
 施餓鬼は、この情報を聞いて喜んだ。暫くすると高信が入って来た。

「高信くんは、大学二年生なんだよね。進学の時なんかどうだったの? 勉強とか塾とかさ、ご家族の方は協力してくれたんだよね」
「はい、協力してくれました。でも入学金の高い所はダメなんで、安いとこにしました。家が貧乏なんで」
「じゃ、何? 今行ってる大学は第一志望じゃないの? そうかぁ、ま、大学に入れただけでも良かったじゃない」
「でも、あの大学じゃないとダメなんですよ。家が貧乏と言えばそれ迄だけど、教育ローンの利用とかも有った筈なんですよ」
「えっ、第一志望の大学のかい? 君もその年齢で悩みを抱えているんだな。でもさ、世の中見ている人は見ているからさ、今の大学で頑張ってみれば? 必ず報われる時が来るよ」
 高信は少し狼狽た。
「あっ、こんなこと誰にも言ったこと無かったのに」
「いやいや、オレに話してくれて嬉しいよ。お父さんが昇進すれば給料も上がるからね、大学も頑張れば第一志望校に編入できるようになるよ。じゃ、向こうに戻ろうか」
 施餓鬼は、正高に対するそれぞれの思いを聞き出し満足気にニヤ付いた。そして、最後に残った姑の聡子が和室に入って来た。
「寿子さん、ご家族皆と一緒に住めて貴女は幸せ者ですね。家族と一緒に住めないお年寄りも世の中には大勢いますから、息子さんに感謝ですね。お嫁さんも良い人で良かったですね。これで正高さんも事業部長になれたらもう言うこと有りませんね」
 施餓鬼は、嫁の聡子を褒めた。
「聡子さんは、お婆ちゃんの面倒を良く見てくれるんでしょうね。食事なんかも硬い物はできるだけ小さくして出したり、気を遣って料理をしてくれるんでしょう? 良いなそう言う優しさ」
 寿子は、年齢を重ねている事も有ってか、嫁のことをさっき会ったばかりの人に言う気は無いようだった。酒も余り飲んでいる様子では無かった。
「聡子さんは良くしてくれますよ。家族も増えて、私は聡子さんに感謝していますよ。無くしちゃったけど。あっ、余計な事を言っちゃった」
 施餓鬼は、不思議そうに頭を傾けながら寿子に聞いた。
「無くしたって? 誰かお亡くなりになったのですか?」
「いいえ、誰も死んではいませんよ。無くしたのは形見なんですよ。お爺ちゃんがいつも使っていたパジャマ。それをね、聡子さんがもう使わないからって捨てちゃったの」
 寿子は、自分が寂しい思いをした。とその時の事を言ったのだが、施餓鬼には都合よく聞こえた。
「お婆ちゃん、お爺ちゃんの形見を聡子さんに捨てられちゃったの? 可哀想に。その事は聡子さんに言ったのですか?」
「未だ話していないのよ。関係がギクシャクしても嫌だから」
「そうですか。でも悪気は無かったんだと思いますよ。あの人は良い人だから」
「悪気が無いって言うのが一番始末が悪いのよ。悪気が無かったら何をされても我慢するしか無いんですか?」
 施餓鬼は、興奮する寿子を慰めると、二人でリビングに戻った。

ー続きますー

 施餓鬼は、リビングに入ると同時に佐藤に言った。
「佐藤さん、良いご家族じゃないの、奥さんは尽くすタイプだよね。嫌な事も顔に出さないで、佐藤さんの帰りをずっと待ってくれているんでしょ? うちの女房とは全然違うな。羨ましいよ美人だしさ」
 佐藤が微笑みながら、腰を少し曲げて言った。
「こりゃ、お褒めに預かりまして恐縮です」
 施餓鬼は怪しい顔つきになり、佐藤に小声で聞いた。
「でさ、どうなのよ本当の所は? 奥さんと子供達と、上手くやって行けてるの? 皆から大体の所は聞いたよ、大体は。しかし、ちょっと気になる事がなぁ」
 すると佐藤は、慌てたように顎の辺りに手を当てて言った。
「えっ、誰か何か言ったんですか? 誰だよオレの悪口を言ったのは?」
「佐藤さん、そんな事言ってないで、皆と楽しくやりましょうよ。ほら、飲み直しだ」
 正高は、家族の誰かが自分の悪口を専務に話したことに腹を立てたが、施餓鬼は、正高から視線を外すと皆を向いて明るく言った。
「さぁ、皆さん飲みましょうか。高信くんと千恵ちゃん、もうちょっとだけ付き合ってね」
 施餓鬼の強引な酒宴が、更に二時間ほど過ぎて、佐藤家の全員の疲れもピークに達したが、施餓鬼は反対に調子を上げて行った。
「今度さ、佐藤さんが事業部長になったらもっと大きなマンションに住めるね。一人一室ゲット出来て、そうだ客間もいるね。じゃぁ、今度は150平米くらいで六室くらいあるマンションが良いね。千恵ちゃんは、もうリビングで寝ないで良いんだよ。佐藤部長、今度のは一億円くらいのマンションが良いんじゃない?」
「専務、一億円なんてそんな夢みたいなこと」
「何を言っているの佐藤さん。今度は事業部長だよ。今までの課長補佐とは違うんだよ。それくらいの所に住んでくれないと、我社の大切なお客様も招待できないじゃないですか。家も昇格しないとね。大丈夫、貴男の後ろには専務の私がいるんだから、安心してローンを組んでください。あと車もどう? 黒か白の外車が良いね。ベンツなんか良いんじゃない?」
「ベンツなんて、とてもとても」
「佐藤さんは、有能な人材なんだ。会社はね、貴男に期待しているんだから、貴男も私の期待に答えてくださいよ。それはそうと佐藤さん、貴男は聡子さんを愛していますか?」
 施餓鬼に、いきなり女房への愛情を問われて、正高の心がつんのめった。家族全員の前でそんな事を言えるかと思ったが、専務の手前軽く往なそうと切り替えた。
「えっ、唐突に。そりゃぁ、まぁ愛していますよ」
「聡子さんもね、貴男の事は誰より愛していますよ。でも一つだけ貴男に謝って欲しいことがあるんですよ」
 施餓鬼が家長である自分を差し置いて、家族の代表のように振る舞っているのが癪に触ったが、正高は逆らえなかった。専務に対する怒りは聡子に向けられた。
「えっ、聡子が専務に何か言ったんですか? 聡子お前!」
 佐藤が聡子を睨むと、彼女は俯いてしまった。
「まぁまぁ、軽く行こうよ、軽くね。今ざっくばらんにお話をしているんだからさ。良い機会だから、ここでお互いの気持ちを楽にして、家族の絆をもっと深いものにして欲しいんだ。そして家庭のことは安心して奥さんに任せて、佐藤部長には全力で会社の為に働いて欲しいんだよ」
 施餓鬼は、聡子の妊娠中に佐藤が協力的では無かったことに触れた。正高は怒ったが、専務の手前落ち着いているかのように振る舞った。施餓鬼が自分の年収を倍増してくれる。その年収のお陰で家族はもっと豊かになれる。億ションも買える。新車も買える。全ての夢はこの施餓鬼が齎してくれるんだ。そう考えると佐藤は施餓鬼の要求を迂闊には断れないと思った。
 施餓鬼は、佐藤を聡子の横に座らせた。
「そんな昔のことで、お互いが不仲だと子供さんや姑さんにも悪い影響が出るでしょう? 仕事にも全力が出せない。そうなると我社も困る。佐藤さん、ここは一つ大人になって、聡子さんに謝ってください」
 正高は、ここはプライドを捨てるしかないと思った。屈辱的な顔で暫く聡子を睨んでいたが小さな声で謝った。
「どうも、あの時はごめんね」
 聡子は黙ったまま動かなかった。何か未だ蟠りがあるようだった。
「聡子さん、未だ心に何か残っていますね。それをここで全部吐き出してください。ダメなら佐藤さんの頭を軽くグーで叩いてあげてください。彼もすっきりできればその方が良いに決まっていますから。ねぇ佐藤さん、そうですよね?」
 佐藤は俄かに声高になりながら、頷いて言った。
「はい、まぁそれで忘れてくれれば良いですよ」
 聡子は、専務の言葉に励まされて、正高を見た。そして立ち上がると拳骨で彼の頭を上から殴りつけた。
 正高は、頭を抱えて下を見たまま暫く動かなかった。痛かったと言うより、情けなかったのだ。
「うん、それで良い。高信くんも、もっと良い大学に進学したかったんだよね。良い機会だ、君もお父さんに軽くさ、コツンとして良いよ。ねぇ、佐藤さん」
 佐藤は、ここは抗わないで一つのイベントとして軽く流した方が良いと思った。そして高信を笑って見上げながら頭を向けた。高信は、父親の前に立つと母親がやったようにガツンと父親の頭を殴りつけた。正高は、強張った顔の唇を震わせて言った。
「千恵子、お前も何か有るんだろ? 良いからやれよ。ほらっ」
 千恵子は、何かに付けて「もう年頃なんだからちゃんとしなさい」とか、千恵子の帰宅時間や服装にまで、何かと小言が多かったので、父親とここ二年ほど疎遠な関係になっていた。そして、母親と兄がやっていたのと同じように父親の頭をガツンと殴った。これで、家族は一体になれる。もう蟠りは一切無くなったと全員が思っていた。しかし、正高一人だけは違っていた。

ー続きますー

 正高は悔しかった。一家の大黒柱が、多少外で羽目を外しても許されると思っていた。それが日本の父親だと思っていた。自分が定年退職した頃に、心から謝れば良いかと考えていた。嫁と愛する子供にまで殴られて彼は悔しかった。皆の手前、涙は見せられなかった。
「あんなに苦労して育てた子供たちにまで殴られて、悔しい、惨めだ」
 正高の考えていた、家長としての在り方は脆くも崩れ去ってしまった。
 施餓鬼専務は、正高に優しく手を貸して彼を立たせて言った。
「さぁ、これでこの家族の絆も完璧に強くなった。あっ、それからさ、正高さんも娘さんがお風呂に入っている時は覗いちゃダメだよ。これは、娘さんに頼まれたことだから注意してあげてね。年頃の娘は傷つき易いんだから」
 施餓鬼が、千恵子の風呂場を覗いた話をした途端、正高は千恵子を睨んで激昂した。彼は、この時間に溜まった鬱憤を一気に吐き出した。
「お前はそんな事まで専務に話していたのか? この馬鹿野郎!」
 正高の言う馬鹿野郎は、半分施餓鬼にも向けられていたので、正高の心は少しバランスが取れたようだった。
「まぁまぁ、佐藤さん、そんなに千恵ちゃんを責めたら彼女が可哀想だよ。じゃさ、この際だからお兄ちゃんにも注意しておくね」
 施餓鬼の意外な展開に、高信は並んでいる家族を見た。
「お兄ちゃんは、なぜ千恵ちゃんがリビングで一人寂しそうに寝ているか知ってた?」
 高信は、突然自分に向けられた矛先に動揺した。〈何でそんな事を自分に言うのかな、この人は〉彼は暫く考えたが、施餓鬼と家族全員が高信を凝視しているのを確認すると、何か寒気がして来た。しかし、皆の前で言わないと許されない気持ちが少しずつ湧いて来た。
「あの、もう大分前の話なんで良く覚えていません」
 高信がやっとそう言うと、施餓鬼が微笑みながら言った。
「言えば思い出すと思うけどさ、狭い部屋でお兄ちゃんがおならばかりするから千恵ちゃんは嫌になったんだって。ははは、笑っちゃうねこれ。女の子もさ、小学校高学年にもなると色々と敏感になって来るんだからさ、お兄ちゃんももっと気を利かせてあげないとダメだよ」
 何時もの家族間での会話なら笑い話になった筈のことが、この緊迫した状況の中ではそうはならなかった。高信は千恵子を睨み付けて大声で言った。
「千恵子! そんな事、その時に言えば良いだろ? 何でこの人に言ったんだよ。ふざけんなよ!」
 高信は、そう言うと父親にやったように千恵子の頭を殴った。千恵子は、泣きながら母親の聡子に抱きついてせがんだ。
「お兄ちゃんが私の頭を思いっきり殴ったのよ。ママ、お兄ちゃんをどうにかして。私はもう六年間もリビングで寝ているのよ。あの、暴力男の所為で」
 しかし、聡子は為す術も無く立ち竦んでいたが、千恵子を優しく抱いていた。
「もう嫌、こんな家族、普段思っていることは何も言わないで、今日初めて来た人にペラペラ喋るんだから、もう誰も信用出来ないわよ。私、これから友達の所へ行って来る」
 千恵子は、カジュアルな洋服に着替えると、ショルダーバッグに軽いものを詰め込んで出かけてしまった。玄関の扉の閉まる大きな音が聞こえた。
 施餓鬼は、残った家族を励ますと玄関に向かった。
「佐藤さん、新築マンションと車のパンフレットさ、適当に集めておくから、今度一緒に決めようか」
 施餓鬼は、佐藤にそう言うと鼻歌を歌いながら帰って行った。
「お前等! 専務が言ったからって、一家の大黒柱の頭を殴ってそれで済むと思っているのか?」
 正高は、家族の前で崩れたプライドの修復に懸命だった。悔しさと悲しさから目に涙を浮かべ怒鳴り散らした。そして、母親の寿子を横目に聡子、高信の頭を平手で叩いた。高信は怒って怒鳴りながら自室に閉じ籠ってしまった。聡子は俯いて何も言えなかった。
「馬鹿野郎! オレを何だと思っているんだ。今日初めて会った人間にオレの悪口を言うなんて、お前等は、もう誰も信用出来ん。出掛ける! 飲み直しだ」

 正高が帰宅したのは午前三時だった。玄関の鍵は掛けられていた。玄関で正高は、扉の鍵を開けようとポケットに手を突っ込んだが、鍵は無かった。彼は、玄関キーを持たないで出掛けたことに気付くと、インターホンを何度も鳴らしたが、誰も出て来なかった。すると正高は、酔った勢いの大声で、玄関ドアを激しく叩いて叫んだ。
「開けろーっ、事業部長様のご帰還だぞ、開けろーっ、コラー!」
 間も無く、聡子が玄関ドアを開けて正高を中へ入れたが、正高は聡子と口も利かずに玄関で倒れ込み、そのまま寝込んでしまった。翌日マンションの管理事務所には、近隣からこのことでクレームが数件入っていたようだった。

 プリンの炎

 父親が残した借金の返済を終えた頃、日菜乃は三十路を数年越していた。これまでルージュで様々なことが起きた。お客との出会いの中で貴重な経験もさせて頂いた。
 平素は、紳士面した男の顔も本当の姿が見えるようになった。人間が、とことん追い詰められるとどうなるか、大凡の見当も付くようになった。お客が、何を期待してお店に通って来てくださるのか分かって来た。男が女に何を求めているのか、何となく見えて来た。好きになった相手には、思って貰えないことも多かったように感じた。
 物憂げな表情で、そんな事を回想しながらお客の来店を待っていた頃、マスターが、時を待っていたかの如く日菜乃に近付きそして言った。
「日菜乃ちゃん、良く頑張ったね」
 日菜乃は、いきなりマスターに言われた言葉に戸惑った。毎日が、頑張ることのその多大さに心当たりが多過ぎたからだった。
「終わったのだろ、借金」
 不思議そうにマスターを見上げる日菜乃に彼がそう言った。
「嫌だ、マスター。借金のこと知っていたのですか」
「うん、君のさ、職場を見学に来た債権者が何年か前にいてね。ちょっと話を立ち聞いてしまったよ。でも、君の働きぶりを見て感心しながら帰って行ったのを覚えているよ。君は不思議な娘だな。債権者をもファンにしてしまう、何か得体の知れない良いものを持っているよ」

ー続きますー

 日菜乃はマスターに褒められたが、嬉しい実感が伴わなかった。何か、身体の力が抜けたような、背筋の心棒が抜けてしまったような気持ちだった。その夜、お客の接待は、経験だけでオートマティックにやれたが、話の切り返しや会話の方法、それに話題への集中力にも精彩をさを欠き、心此処に在らずだった。

 収入は増えもしたが、目標を失って中途半端な毎日に我を振り返る日々が続いた。自分を取り戻すべく、銅版画を始めてみたが没頭出来なかった。料理学校へも通ったが、講師に言われた通りに手を動かすのが精一杯だったし、帰りにお茶を共にするような友も出来なかった。定石のやり方を、一度自分の中に真摯に取り込み整理する。そして自分に取っての最良の表現方法を確立して実践して行く。その歩み方も忘れ、日菜乃は、路の案内板も探し出せない程の深い霧の中で、思考を停止した年端も行かない女の子のようになってしまった。

 りん りん りん、 りん りん りん、日菜乃ちゃんは居るのかな?
 遠くで電話の鳴る音が、そんなファンタジーの中の出来事のように聞こえ、夢とも現実とも付かないイメージの狭間の中、気付くと日菜乃は自室のベッドに横たわっていた。時計を見ると確かに秒針が時を刻み、シャワールームから湯気と共に暖かなオレンジ色の光が部屋に回り込んでいた。日菜乃は、素裸のままベッドに横たわり、そのままうたた寝をしていたのだった。彼女は、立川駅近くのマンションに一人で住んでいた。
 自分が素裸のままうたた寝をしていたことに気付くと、若干の抵抗感を気にしながらシーツを羽織り受話器を取った。
「もしもし・・・」
「オレ、誰だか分かる?」
 久々だった。10年以上も前に、予備校でいつも一緒にいた、あのプリンからの電話だった。
「まぁ、当たり前じゃないプリンでしょ? でもどうしたの突然。あぁ、やっぱり嬉しいわ凄く、だって久し振りだもの」
「そうだよね、いつも連絡しようって思っていたのだけど、中々忙しくってさぁ、あっ、そうだオレ今度ボーナス貰ったのだけど、良かったら食事にでも行かないか、御馳走するよ」
 プリンは、一浪した後八王子の某美大に進学した。そしてエディトリアルデザイン科を卒業して大手広告代理店に就職していた。しかし、恋愛には恵まれず、社内恋愛を何度かしてはみたものの、付き合っては別れ、結婚にまで発展するような関係を築けなかった。そんな時に思い出したのが、予備校時代にいつも一緒にいた日菜乃のことだった。当時、プリン自身が日菜乃に恋心を持っていたのか、本人も確信が持てなかったが、30歳を越え客観的に考えると、確かに、あの頃日菜乃が付き合っていた洋祐に嫉妬していた自分を、はっきりと確認出来たのだった。その後、山内と恋愛をしていた時期も電話をする切っ掛けを阻んだ。失った時間はもう帰って来ない。そう思ったが、もし日菜乃が今なお独身であったなら、あの時告白できなかった事を詫びて、今本当の自分を彼女に曝け出してみたい。プリンは本気でそう思った。あの時、何故洋祐に日菜乃を渡してしまったのか。今更悔やんでも、自分の未熟さに自責の念が募るだけだった。とにかく、今日菜乃がフリーでいてくれるのかどうなのか。それだけが知りたいと切実に思った。彼女がフリーでいてくれるのなら嬉しいが、そうでは無く、もし子供でも産んでいたなら、それはシビアに祝ってあげる準備もした。一度電話を試みて様子を探ってみよう。電話で結婚の話題を出すことはしないで、食事の約束だけは取り付けよう。プリンは、様々なシチュエーションを想定して、その返しの言葉を考えては反芻した。そして、俄かに人生の鉄人に変身して、果たして日菜乃に電話を掛けたのだった。
 電話を貰った日菜乃は大いに感激した。当時のアトリエの風景や皆の声、油絵のテレピンオイルの匂い等がフォトショーのように、遠い彼方から何枚も列を成して近付いて来て、一枚一枚が目の前で大きく鮮明に映っては、また遠くに消えて行った。
〈なんて懐かしいのだろう〉日菜乃は思い出に耽って涙ぐんでしまった。
「今、私が無くしてしまったもの。それをプリンと会うことで取り戻せるのなら、是非プリンと会いたい」
 日菜乃はそう思った。プリンは、日菜乃と会う約束を取り付ける事が出来た。プリンも嬉しかった。社内で二、三度恋愛を重ねた事で評判になり、新しい社内恋愛にも中々進めなくなっていた。歓楽街や飲み屋でナンパが出来るほどの砕けたタイプでも無かった。当時、ナンパと言う言葉も市民権を与えられていなくて、一部の不良が軽い気持ちで女に近づく行為であると言う認識であった。プリンは生来生真面目な性格で、都心の真ん中で育ったからか、どことなくお坊ちゃん風で優しさと思いやりを感じるタイプではあったが、思ったことをはっきりと相手に伝えることや、激しく吹き出してくる情熱や憤怒を表現することに不慣れだった。であるから、彼と毎日一緒に居て、ストレスこそ感じることは滅多に無かったが、多くの刺激やより向上を求める友達は、プリンとせっかく知り合っても、気付くと何処かに起き忘れて、何かもの寂しい気持ちだけが残った。

 日菜乃は、渋谷でプリンと再会した。新宿はプリンの家に近かったが、その街は、酒と新しい刺激と暴力と学生運動の街だったし、若者の街であったことは認めるが、そんな街で会う事を考える以前に、日菜乃は渋谷の上品さが好きだった。
 日菜乃とプリンは、渋谷駅ビルのステーキハウスで食事をすることにした。二人はビールをジョッキで飲んだ。浪人時代の話に華が咲き、ビールも進んだ。二人が共有出来るもの。それは、あの時代に起きた美しく輝く淡い思い出の全てだった。
 プリンは、日菜乃から山内が亡くなった事を聞かせれた。彼が亡くなったことは悲しくもあったが、山内と別れた事の方がむしろ嬉しかった。日菜乃は、山内の死に自分が関わっていた事を、本当は感じていたのかも知れないが、言葉に出して表現をしなかった。


 日菜乃は、プリンとの会話の途中、洋祐と山内の二人を追い風に乗せてあげられなかった、むしろ自分が歩みを止めてしまった。その事にふと気付いた。気付くと急に悔恨の想いが強くなって来て、レストランの大きな窓から見える渋谷の夜景の中に、瞳の焦点を投げてしまった。瞳からは、プリンの手前我慢はしたものの、一筋の涙が流れていた。
「私、何だか寂しくなって来ちゃった」
 日菜乃がぽつりと言った。
「えっ?」プリンは久し振りに会った自分を前にして、思い掛けない言葉を口にした日菜乃に驚いた様子で言った。日菜乃が再びプリンに焦点を戻すと、あの頃の思い出が未だ自分には一つ残っていた事に嬉しく思えた。
「ちょっと、飲みに行こうか。場所を変えようよ」
 プリンは日菜乃の沈んだ顔を見て、今の自分が日菜乃への想いを告白するのに相応しい場所、また会話の中でそれが冗談で流されても、平静を装える場所へと日菜乃を誘った。
 道玄坂を上がり、円山町付近でパブのネオン管が見えて来た。赤とマリンブルーのネオン管が器用に曲げられて、店の名前の文字になっている。そして、それが二人の持つ共通の懐かしさをくすぐった。
「此処に寄って行こうか?」

ー続きますー

 プリンがそう言うと、日菜乃は微笑みながら頷いた。
 店の中は、カウンターと四人掛けのテーブル席が五卓あって、半分程度客で埋まっていた。二人は奥のテーブルに腰掛けると、小さな黒のエプロンを掛けてやって来た男に、水割りと柑橘系のカクテル、それに肉系とポテトの肴を注文した。
 懐かしくも悲しい、普段滅多に遭遇しない妙な感情が入り混じっていた。初めて二人で飲む男性となら、懐疑的にもなって警戒心も湧いてくるのだが、相手が十年以上も前から知っているプリンだけに、その紳士的な内面も熟知していたので、日菜乃は、自分の適量を弁えず飲んでしまった。仕事の席でお客の酒を飲むのと違って、この夜は前向きに酔ってしまった。プリンに甘えていたのかも知れなかった。酔えば酔ったで、タクシーで家まで送ってくれるに違いない。大体そう言う男だと思って飲んだ。
 プリンは、日菜乃との会話で、今は誰とも付き合っていない確信を掴んだ。段々酔い潰れて行く日菜乃が愛おしくも可愛く見えた反面、沸々と湧いて来る下心に、これ以上酔う事に抑制の気落ちが強く働いて来た。
「日菜乃、平気? 少し酔ったのじゃない? 店を出て風に当たった方が良いよ」
 日菜乃は、随分酔った感覚があったが、そこは現役のホステスで意識はハッキリ持っていた。喉に指を突っ込んで嘔吐することも辞さない強い女であったが、今夜はプリンの前で、未だ初心だった時代に知り合った頃の日菜乃でいたかった。自ら嘔吐することよりプリンに頼ることを選択した。プリンは、フラフラと歩く日菜乃の腕を支えながら辺りを見回すと、ホテルが密集している場所を確認して、歩行者専用の信号の釦を押した。日菜乃の顔を覗き込むと日菜乃は眼を閉じて、顔色は紅みを差した感じから碧冷めた表情になっていた。
「平気かな、日菜乃?」
「えっ、うん」信号が青に変わるとプリンはそのホテル地帯に進入して、彼女に何も告げず一軒の落ち着いた佇まいのホテルに日菜乃を引き込んだ。
 暫くして日菜乃が気付くと、ブラウスとスカート姿でベッドに横になっていた。ブラウスは三つ目まで釦がが外されて、額には、ホテルのハンドタオルが冷やされて乗せられていた。
「ごめんなさいプリン。こんなことになっちゃって」
「良いから、良いから」
 日菜乃は、そんな積もりでプリンと会った分けでは無かったが、皆が輝いていたあの頃の、たった一つ残された思い出の証人を大事にしたかっただけなのだった。プリンと居て、既に結婚十年目を迎えた夫婦のような、刺激こそ無いが安心と生活の安定感も感じられて、それが心の安らぎに繋がって行った。ルージュで十年間頑張って来たが、借金を完済した途端に身体の力が抜けてしまった日菜乃。彼女は、今自分の心に空いた虚しい穴を埋めてくれるのは、この安らぎであるのかも知れない。そう感じてしまった。プリンを心から好きと、肌で感じたことなど一度も無かった日菜乃であったが、プリンを大切にすることで若く蒼く輝いていた、あの忘れられない時代を二人で共有出来るのかも、いや、共有したい。日菜乃は、そう心に決めると、再びプリンに全てを託すかのように、静かに眼を閉じて襲う睡魔に身を委ねた。

 どれくらい時が経ったのだろう。窓の覆われたこの部屋は、外からの干渉が全く無くて、時間が読めなかった。日菜乃が目覚めると、横でプリンが心配そうに日菜乃の顔を見ていた。そして、冷たさを感じない掌で、髪を撫であげるように日菜乃の額を擦った。
「大丈夫かい?」
 何が大丈夫なのか、日菜乃は暫く黙ったが、肌の感触がシーツを直に感じた。手を腹の辺りに伸ばすと何も着けていなかった。日菜乃は、こうなる事は分かっていたが、若干の加害者意識をプリンに植え付ける事を忘れなかった。この意識をプリンに埋め込むことが絶対に必要だと日菜乃は感じていた。
「貴男が、私の知らないうちに勝手に・・・」

 この日から、埋め込まれた加害者意識が功を奏したのか、プリンは、大好きな日菜乃を今以上に大切にして、家族を増やし良い家庭を築きたい。それが男の責任だ。そんな考えを持つようになった。それから半年余り、二人は友人から恋人へのスライドを成功させ、その付き合い方も深くなって行き、横浜の或る教会で結婚式を挙げた。
 二人は横浜で新居を持ち、日菜乃は35歳で長男を、二年後に次男を出産して幸せな四人家族となった。プリンも幸せ一杯で、仕事にも打ち込んだ。会社で仕事を買って出ては残業を繰り返す毎日だった。休日出勤も厭わなかった。子供達は、多少の病気や学校での生活も乗り越えて、プリン夫婦の期待通りに育って行った。

 一枚岩の崩壊

 事業部では、新たに地域担当者と、チェンジリーダーが社内外から集められた。入社間も無い平社員からいきなり選出されたチェンジリーダーと、人格形成に無知な地域担当者は、眼を輝かせて意気揚々としていた。自分のやる気と可能性が此処で試されると思った。そして彼等の上に立つ者があの佐藤正高であった。無知な人間の集合体は独裁者施餓鬼に取って都合が良かった。ポル・ポト然りである。
 出勤日初日、新人の地域担当者とチェンジリーダー達は、会議室に集められて、佐藤営業部長代理がこう言った。
「各派遣隊の隊長達は、長い者になると十年以上隊長をやっている者もいる。この隊長達の中には、今では全く現場に出ないで防災センターで踏ん反り返っている者が大勢いる。現場に出ないから、仕事のやり方も忘れているのが現状だ。これが今会社で非常に問題になっている。この隊長達に活を入れて業務内容の再確認を徹底させる。そして業務の指示や実行が素早く出来るようにさせる。それが君達の仕事だ。何しろこの指導業務は、優秀な君達でないと到底出来ないからな。これが君達に託された業務だ、頑張ってくれ。以上だ」

 各派遣隊に存在していた隊長達は、殆どが島野課長が育て上げた者達だった。島野課長と各派遣隊の隊長達の硬い絆は、施餓鬼専務の支配欲に毒され、また盲目的に雇用されただけの犬社員達によって、静かに解体されようとしていた。

 この警備会社が言う所の地域担当者とは、警備を受け持った会社のある地域に存在している、各派遣隊の管理業務がその主な仕事である。ユーザーと派遣隊と会社の三つの関係性の中で、業務の円滑推進のアシストが目的となっている。また、現場隊員からの会社への要求も上手く伝え実行しなければならない。警備経験も若干必要ではあるのだが。
 また「チェンジリーダー」であるが、何と悍しいネーミングであろうか。今存在しているリーダーを、やる気が有るだけで殆ど未経験の新人とチェンジしようと言うネーミングなのである。
 これは、派遣隊の現リーダーである隊長達に成り代り、隊長を含めた全ての隊員達の育成、及び基本動作や様々な訓練を指導する者の呼称であるが、彼等の殆どは、熟練の社員を指導出来るほどのスキルも人格も持ち合わせていなかった。

ー続きますー

 だが施餓鬼はこれ等の重要な業務を、指導に経験と説得力の有る幹部社員では無く、明らかに経験の乏しいと分かる薄弱な平社員にやらせた。その思惑は、島派の重鎮たちの混乱と動揺、そしてその他の社員には会社への服従を教え込む為だった。
 この、会社のやり方に反発は起こらなかった。それは、直接自分たちの給料に影響することでも無く、彼等は誰に指導されても全て同じ、と言うような低意識無関心から来た反応だった。彼等一般隊員は、本来は正当な業務に於ける会社の理念である「否定の精神」を「隊長否定の精神」に、会社が「正しい」として行う恐ろしい社内改革を「正しさの追求の精神」と「現状打破の精神」に器用に置き替え、自らの不安な気持ちに折り合いを着けていた。そして、大農場で犬が吠え誘導される羊の群の如く、集団で忌まわしい方向に寄せられて行ったのだった。

 いきなり湧いて来たような、新人地域担当者とチェンジリーダー達は、各派遣隊に一人で出向く前に、その存在を彼等に知らしめる必要があった。佐藤事業部長代行は、新人の地域担当者を連れて各派遣隊の巡察を日々行った。巡察先の派遣隊で、佐藤は大きな態度で振る舞った。側に付いている地域担当者も同じような態度であったが、隊長達からは抗議が出なかった。やがて、新人の地域担当者が一人で派遣隊に訪れても、隊長達はこの無知な巡察者に何を見たのか、上司に対する新人のように接し諂った。そして隊長の威厳も日毎に落ちて行き、派遣隊業務及び勤怠面に於いて支障が出るようになった。
 個人の自由度が増したと言えば聞こえは良いが、業務の至る所で口を挟む人間が増えて来た。指示、命令と言ったものは、必ずしもそれが正解では決して無いのである。その場に於いて、責任者が的確な判断をしているとは限らないのだ。全く別の角度から見れば、違う判断も出て来る可能性を孕んでいる。一旦無線で出した本部指示を、現場の隊員が「それはこうやった方が良いのじゃ無いですか?」と行動にすら移らないで、無線で返して来る。数秒でも早い行動が求められている時に、こう言った返しをする人間が増えて来たのであった。また、無線交信中に横から口を挟む隊員も増えた。自分は正しい事を伝えていると言う「正しさの追求の精神」から行った行動であろうが、指示、命令に於いては、指示者を優先させないと事は進まないのである。隊長と言うものは指示ミスに於いては、常に腹を切る覚悟で指示を出しているのである。責任の取れない軽い気持ちで指示に反抗する人間は、縦社会である制服組から今すぐにでも辞表を提出し撤退した方が良いのだ。警察、消防、陸、海、空自衛隊他、民主的な制服組は一切存在しないのである。それは、派遣隊に於ける指示とは何か? 命令とは何か? を問われることに繋がり、隊長達は反発できないまま事業部不信、隊員不信に陥った。その後過半数の隊員達は、自己の正当性の確認を、何と地域担当者に求める様になって行き、島野課長の築いた一枚岩に亀裂が出来始めていた。

ー続きますー

 パートナー

 島野が大阪に赴任になって一ヶ月程経過した或る日の午後、洋祐は、中央銀行派遣隊の巡察を行っていたが、彼に新人の補佐役が来たと言う知らせを受け本社に向かった。そしてセキュリティビルに到着。専用のガレージに車を入れて五階に上がった。マンダリンセキュリティビルの五階にセーフティガードが間借りしているのだ。
 そして五階に着いた洋祐は、奇妙な光景を見た。事業部隣室の本社では、全社員が一様に椅子に浅く腰掛け、腰は直角に保ち背筋を伸ばして業務を行っていた。猫背で仕事をしている社員や立ち話をしている社員が一人も居ないのだ。洋祐は、こんな状態で仕事をしている他の会社を見たことが一度も無かった。誰一人としてお喋りをしている者は居ないし、お茶を飲んでいる社員も皆無だった。整然とロボットの様に仕事をしている社員の上座の机には、ただ俯いている雇用社長、そしてその隣に、あの施餓鬼専務が笑みを浮かべて座って居た。

 セーフティガードの本社と事業部は、エレベーター側の入り口は同じだが、入ると15平米位の共有スペースがあり、その先から奥まで厚いビルの構造壁で仕切られている。洋祐は、左側に有る事業部へ入って行った。馴染みの事務員の寄川女史が洋祐に言った。
「喜多川さん、こちら新しいパートナーですよ。セキュリティ本社から来られた平泉羊子さん」
 平泉隊員は、スリムで身長が165cm位あり、美貌の持ち主であった。洋祐は喜んだが、顔はポーカーフェイスを崩さなかった。
「自分が喜多川です。島野課長が大阪に栄転したんで相棒を探していたんですよ」
「初めまして、平泉羊子と申します。お話は島野課長、いえ島野部長から聞いております。ここでは、地域担当者として一から教えて頂くことになっておりますので、どうぞ宜しくお願い致します」
 二人のこの出会いは、気持ちの良い清々しいものであった。洋祐は、予備校時代に初めて日菜乃と出会った時、その時感じたあの感覚を思い出していた。
 洋祐は、平泉を連れて早速巡察に出掛けた。そして、彼の運転する車の中で、霞ヶ関派遣隊で起きた隊費事件、長尾の巡回中での死亡事件等をざっくりと説明した。
「そうですか、伊土様が隊費を横領、いえ長尾様から強奪したのですか。カード一枚ですものね、誰も見ていない所で密かに自分の口座に入金すれば、私も分からないと思います」
「まぁね、1,000万円のうち、600万円は別れた愛人が作った借金に使ったと言うんだけど、自分達は警察じゃないから、捜査にも限界があってさ、でも、毎月返すと言う言葉を今は信用するしか無いんだよね」
「でも、何か裏がありそうな感じもしますね」
「裏? それからさ、最近妙なことが一杯起きているんだよね」
「私は大変な時にこの会社に来たのですね。それで、妙な事とは一体何事でございますか?」
「実はね、この会社にはスターと呼ばれている人が何人か居るんだけどね。皆現場の責任者なんだ。この人たちも島野部長と同じ様に求心力が有って、他の隊員達が憧れている存在なんだよね。みんなしっかりしているし、どちらかと言えば武闘派の様な感じもまま有るかな。それで最近だけど、その人達がもう何人も現場から外されているんだよ。セーフティガードってさ、島野部長とそのスター達で今まで持っていた会社なんだよ、それを現場から外すなんて、オレには考えられないよ。これって本当会社による粛清だよね。組織が弱体化するだけじゃないか。会社は一体何を考えているんだろ?」
「何か有りそうですね。若し良かったら私にそのスター達のお名前を教えて頂けませんか? 私のお時間が空いた時にお会いしたいと思います」
「そうですか、では後でプリントしますよ。それからね、国際空港でうちのセーフティガードが警備をやっているターミナルがあるんですよ。そこの司令をやっている鈴本と言う人なんだけど、この前異動が有ってさ今はマネージャーになっているんだ」
「マネージャーですか? 警備にはそんなお仕事が有るのですか?」
「国際空港だからね、隊員達も100名以上いるし、この隊員達のケアとユーザーとの交渉が主な仕事だと思うんだが、一ヶ月の売り上げでも大変な金額になるしね。でさ、鈴本さんって未だ40歳前後で若いんだよ。何かもう引退している人のポストだよね。マネージャーってさ、身体が動けたらそれだけで出来る仕事なんだからさ。40歳の警備員のポストじゃ無い。勿体無いよ。
 あと、事務職と営業の両方をやっていた亀谷さんって人なんだけどさ、国際空港の仕事を取って来た凄腕の営業マンなんだ。その人は現場教育の教官とかもやっていて、みんなから亀さんと呼ばれて親しみ易い人だったんだ、それがさ、いつの間にか事業部に出社しなくなってさ、ずっと気にしていたんだよみんな。いつ出社して来て、いつ活躍してくれるのか? 全社員の気掛かりだったんだ。それなのに会社は〈彼は病欠です〉とか、ずっとそう言っていたんだけどさ、この間かな〈亀谷さんは病死しました〉なんて突然会社から言って来たんだよ。これって本当? って話でしょ?」
「何かミステリアスなお話になって来ましたね。喜多川さんは亀谷様の死亡証明書を見たのですか?」
「うちは警察じゃ無いから、そこ迄詮索出来ないんだ。それから、某TV局の派遣隊にも強面の司令がいたんだよ。宅配便の元トラック運転手で籾皮って人。この人は訓練をしている最中、他所見している隊員に警棒を投げ付けたりするんで、急に有名になった人なんだ。勿論当たらない様に投げるんだけど。この人には少数の熱狂的な支持者が居たんだな。でもさ、その人課長待遇、地域担当者と言うことで事業部から引っ張られて、急に現場から居なくなったんだ。あと、某省庁の隊長だった人。体つきは大した事無いんだけど、口がね、凄いんだよ。俳優の相川翔さんが痩せた様な顔立ちでさ、性格は全然違うけど、とにかく色んな隊員に突っ掛かるんだ。みんな嫌がっていたな。この人も東京から北関東営業所に飛ばされただよ」
 この話を聞いていた平泉が、神妙な顔つきで言った。
「そうですか、大分酷いことになっていますね。かなり重症ですよねこれは。一つの会社でこんなに色々な事が起きているなんて。私には信じられません」
 洋祐は、平泉から視線を外し両肩を一度上下に動かして言った。
「うん、誰が何の目的でやっているのか? 自分には、今こんな奇妙な事が起きているんだって事しか分からないんだ」
「私にも分からないですが、喜多川さんが言うのだから、そうなのでしょうね」
 洋祐と平泉は、そんな会話を交わしながら城南各地の派遣隊を巡察して行った。

ー続きますー

 奥方連続自殺事件

 翌日、洋祐と平泉が大田区の製薬会社の巡察を終了して車に戻った時だった。事務職の寄川女史から洋祐の携帯に連絡が入った。内容は、汐留派遣隊は江田隊長の奥さんが首を吊って自殺したと言う訃報だった。
「平泉さん、汐留の江田隊長の奥さんが首を吊ったらしい。今連絡が有った。どう言う事何だ一体? 平泉さん、これから急遽江田邸に行くよ」
「あ、はい畏まりました。色々な事が一度に起こるものなのですね?」
 平泉が独り言を言ったが、洋祐の運転するワゴン車は、急遽江田邸に向かった。
「江田隊長の奥さんが自殺したなんて、そう言えばこの間江田隊長が本社に呼ばれてたなぁ。あれとは直接的な関係は無いんだろうな?」
 洋祐が独り言を言った時、平泉が難しい顔で洋祐に訴えた。
「あの、すみません、一つお願いが有るのですが」
「何かな? トイレだったら近くのコンビニに寄ってあげても良いよ」
「そんな事では有りません。私、この話し方では捜査のスピードに追い付いていけませんので、もっとリアルな話し方に変更してもよろしいでしょうか?」
「はぁ、何でも結構ですよ。早く話せる様になるのだったらね」
「押忍、ありがとね。じゃ、もたもたしていないで右側の追い越し車線に入って、もっとスピードを上げて行きましょうか」
「押忍だって? やっぱ島野さんの門下生だったんだぁ。ああ、今迄清々しかったのになぁ。やっぱ、武闘派は強いワ」
 洋祐は、俄かに汗を掻きながら右にウインカを出した。

 江田の家は八王子に有った。日本がバブル景気で湧き立っていた頃に、東京は江東区の家を高値で売り払い、未だ安値だった八王子で家を購入したと言う。
 洋祐は、寄川女史から江田の住所を聞き出し、ナビゲーションにインプットすると、近くの首都高速から中央高速道路に向かった。
「なぁ平泉、可笑しいだろこの会社。ちょっと前迄は島野課長の一枚岩で統率の取れてた素晴らしい会社が、今じゃみんなバラバラだ。隊員達の統制も無くなって来ている。オレはその原因を絶対解明して、島野部長が戻って来る前に、以前の様な一枚岩に復活させたいんだ」
「そうですよね、頑張りましょう」
 平泉が右の拳を前に出して言うと、洋祐は平泉の顔をチラ見しながらニヤっと笑った。
 一時間後、洋祐と平泉は江田邸に到着したが、誰もいなかった。
「平泉、式場へ行ってみようか。場所を聞いてくれ」
 平泉は、近所の家から葬儀場の場所を聞いて来た。市営の葬儀場だった。洋祐は、葬儀場に向けて車を走らせると20分ほどで着いた。
「ここだ、平泉、お焼香をさせて頂こうか」
 葬儀場の売店で洋祐は黒の腕章を一つ買って、左腕に巻きながら「平泉は黒の上下だからそのままで良いな」と言った。
 中へ入ってみるとセーフティガードの事務員が一人受付に居た。洋祐が事務員に挨拶をして場内に入ると、江田が奥で肩を落として座っていた。洋祐が江田に声を掛けたあと、二人はお焼香を済ませた。
 二時間ほど経過して火葬が終わり、家族と親戚でのお骨拾いが終了した。そして、江田の家族と一緒に洋祐も葬儀場から出て来た。正面玄関に差し掛かったところで、洋祐が江田に聞いた。
「江田さん、この度は残念なことに奥様が、お気の毒です」
 江田は、立ち止まると洋祐に向き直し、腰を屈める様にして言った。
「お忙しい中をありがとうございます。何で女房がこんなことに、首を吊るなんて・・・」
「将来を悲観していたとお聞きしましたが、奥様は病気だったのですか?」
「いやー、そんな事じゃ有りません。実は、自分は潔白なんですが、受付の女性と妙な噂が立ってしまいまして。既婚の警備員が、別会社の未婚女性を軟派して交際していると言われたんですよ。日勤の帰り時間が彼女と同じだったもので。何回か一緒になりましてね。一度だけ勤務日程のシフトを女房が間違えて、その日の夕食が用意されていない時が有ったんです。それで、帰る時に彼女と一緒になって〈今日は家で晩ご飯が用意されていないから、食事でも一緒にどうですか?〉と言ったんです。そのあと新宿駅で降りて、レストランを適当に探していたんですよ。そしたら、ユーザーの課長に見られていて、うちの会社の方へ通報が入ったんです。何しろ大口のユーザーですからね。会社は大慌てで、翌朝防災センターに佐藤代行と新米の工藤地域担当者がやって来ましたよ。佐藤は自分を見るなり〈何をやっているんだ、お前は!〉と怒鳴ると、自分はそのまま本社に引っ張って行かれました。その後、朝から晩まで会社の奥で軟禁状態で、八時間も絞られました。自分は数人の地域担当者や佐藤代行の長時間の追い込みに疲れてしまって〈こんな馬鹿共がトップにいる様な会社にはもう居たく無い〉と思う様になったんです。それからは佐藤代行の話も耳に入らなくなって、曖昧な返事をしているうちに、最終的に解雇に決まったんです。退職願もこれと同じに書け、とメモ紙を渡され、仕方無く同じ文面で書きました。有給が40日ほど有りましたから、今は有給消化中です」
 洋祐は、眉を寄せて悔しそうな表情で江田に言った。
「会社も厳しい事を言ったんですね。別に付き合って居た訳じゃ無いんでしょ?」
「はい、自分もそこの所はきっちり主張したんですが、佐藤代行は、二人が一緒に新宿を歩いていた。その時点でもうコンプライアンス違反だと言うんです。付き合っている、いないは全然関係無いと言っていました。そこをユーザーに見られて、クレームが出た。お前はどう責任を取るんだ? と責任追求をされました」

ー続きますー

 暫く江田の話を聞いていた平泉が、申し訳無さそうに言った。
「あの、すみません。今度セーフティガードでお世話になっています者で平泉羊子と申します。ところで、会社は江田さんを異動で済まそうとか、そう言ったお話は出なかったのですか?」
「どうも、よろしくお願いします。異動の話ですか? それは出ませんでした。不埒な者は去れ! と佐藤代行に朝礼で言われましたよ。それに自分ももう50歳ですので、後進に道をを譲れ! とも言われました。救済処置も一切出ませんでした。ついこの間入社して来た若い地域担当者、石井主任とか言ったな。奴にもボロクソ言われましたよ。〈良いオヤジが何をやっているの? 会社に迷惑掛けて、未だ会社にいたいんですか?〉なんてね。あんな何も知らない口先だけの人間に言われて、心底腹が立ちましたよ」
 江田の気持ちを察して平泉が洋祐に聞いた。
「喜多川さん、それだけの事で救済処置が一切無いなんてどう言う事何でしょうね。やはり会社に創業者が居ないから、社員に愛情を持てないのですかね?」
 平泉も洋祐と同じ考えを持っていた事に洋祐は驚いたが、彼は更に語った。
「会社を自ら立ち上げて、苦労した経験が無いから社員を可愛がれないのだろうな。今の上層部は、みんな本社から回された人間ばかりでしょ。会社に愛情を持っている役員が皆無だって事だよ。だから一般社員に対しても冷徹になれるんだよ。怖いなこの会社。良い所は給料が他の警備会社よりちょっと良いってことだけだよ」
 平泉は同意の表情を浮かべた後、江田に気になる事を聞いた。
「江田さん、どうして奥様が自殺なんかしたんですか?」
 その言葉は、平泉が質問をしたのと同時に江田が急ぐ様に言った言葉で打ち消された。
「あっ、これから挨拶やら色々と手続きが有りますので、自分はこれで失礼します。お聞きになりたいことが有ったら、また連絡をください」
 江田は、そう言い残して礼服の集団の中に戻って行った。

 翌日の朝礼の時であった。何時もの様に施餓鬼専務が司会を進めて行く中で、重要な発表が有った。
「現在我社は、首都圏で150の派遣隊を越えました。これを一つの事業部、一人の事業部長で面倒を見ることが些か困難になって来ましたので、事業本部を第一事業部と第二事業部と二つに分けます。星山事業本部長が定年退職されたんでね、この辺で心機一転頑張りましょう。で、第一事業部々長を末永さんにやって頂いて、第二事業部長を佐藤さんにやって貰うことになりました。お互い切磋琢磨して、競い合って頑張って行きましょう」
 新しい事業部々長が選任されて、事業部の雰囲気は俄かに明るくなった。皆彼等に拍手を送った。しかし、この中の何人が現在水面下で行われている事を感じているのだろうか? 洋祐は不安だった。
 その時、洋祐が社内を見渡すと、事務員の寄川女子が居なくなっていることに気付いた。他の社員に聞いた所、寄川女子は「会社が変わってしまったた」と、毎日事業部に居るマネージャーの鈴本を尻目に、辞表を提出したらしい。洋祐の知る島野時代の精鋭たちは、月日を重ねる事に少なくなって行った。
 島野課長が築き上げた一枚岩は、二枚に、その二枚は更に新人の地域担当者と経験の浅いチェンジリーダー達の手に寄ってバラバラにされてしまった事を、洋祐は感じないではいられなかった。
「オレの知っているセーフティガードは、一体何処へ行ったんだ」
 洋祐は、心の中でどう叫んだ。
 数日後、寄川女子の替わりに黒砂と言う30歳代の主婦が他の派遣隊から事業部に異動して来た。旧姓を佐木と言ったが、結婚して二人の子供を抱えていた。彼女は非常にしたたかであった。自分の素直な意見、感情と言うものが全く無かった。唯一判断の基準となるものは「自分の利益になる方に付く」と性格であった。此処にある有るのは「正義とか悪」の考え方では無く、常に自分の得になる事が基準であった。そんな女性が、施餓鬼専務、佐藤の下に着いた。
 黒砂は、親しかった隊長や隊員の処分(島野派の解雇)にも積極的に関わった。退職理由の草案を、自ら考えて知り合いである筈の退職者にそれを見せ「この様に書きなさい」と冷淡に迫る事を前向きに行った。
 その話はすぐ社内で噂になり、洋祐の知る所となった。
「新聞のニュースやTVでは知っていたが、実際うちの会社のレベルにもこんな腹黒い女が存在していたのか」洋祐は驚きを隠せなかった。

ー続きますー

 警備員は、日常の業務から派生した自分の感情を、素直に外に表せない職業である。感じていて出さないのか、或は全く感じていないのか? このところは人に寄って大きな違いが有ると思われるが、洋祐は、少なくともこの会社に於いて現在密かに行われている改革を、何も感じていない社員が99%では無いかと思った。
 第一事業部に、霞ヶ関派遣隊で副隊長だった清本が地域担当の課長で居た。彼は剣道の有段者で、学生時代にセーフティガードでアルバイトをやった経験が有り、卒業後に引き続き正社員になった人だった。彼は若年ながらも正義感が強く一徹なところがあった。洋祐は彼のそんなところが気に入っていたが、やはり「長い物には巻かれろの精神」が正義感を上回っていた。施餓鬼専務と佐藤正高に媚を売る様な堕落した姿を見て、洋祐は非常に落胆した。
「島野さんが築き上げたセーフティガードは・・・」
 清本を見ながら、洋祐は何故か悲しさを覚えたのだった。

 或る社長不在の日、佐藤が施餓鬼専務に呼ばれた。
「佐藤第二事業部々長、就任おめでとう。これで年収が倍になったね。良かったね、所でどうかな家庭の様子は?」
「はい、専務のお陰様で事業部々長になれました。有難うございます。家の方はもうダメですね。家に帰っても、誰も視線を合わせてくれませんし、話も聞いてくれません。生活費は自分が稼いでいるので、女房も食事は簡単なものですが作っておりますが、手抜きが多いです。惣菜屋で買って来たようなものが殆どですね」
「そうですか、所でね、約束のパンフレット貰って来たから。これがBMWとベンツ、こっちが億ションのパンフレットね。近い内に決めてよ。はいこれ」
 施餓鬼がパンフレット数枚を床に放り投げると、結構な音がした。
「分かりました。有難うございます」
 佐藤は、床に跪いてそれを素直に拾った。
「あっ、収入証明とかはこっちで幾らでも作るから安心してよ」
「はい、有難うございます」
 佐藤正高は施餓鬼に殆ど抵抗しなくなり、従順になっていたが、日常に伴う表情の一切が消えていた。
 施餓鬼専務と佐藤第二事業部々長のこのやり取りは、本社側の社員全員が目の当りにしたのだった。社員達の背筋に寒い緊張感が走った。

 警備会社では、現認者教育と言うのを定期的に行っている。それは、現場での仕事の他に警備業法で定められた時間外の教育の事で、セーフティガードでは、100人単位で会場を借り切って特別講習が行われていた。半期に基本教育三時間と業務別教育が五時間の計八時間の教育を受ける必要がある。机上の教育が主だが、セーフティガードでは、基本動作なるものを売りにしている都合上、これの訓練と火災訓練も合わせて行った。基本動作とは、号令に合わせて全ての動作を行う事である。まず、気を付け!の姿勢で直立する。そして右を向き、左を向く、また、回れ右をする。そして敬礼をする。誰でも学生時代に経験したような事を正しい姿勢と正しい形、それに正しいスピードで姿勢を乱さずに行う事である。号令者は緊張感を伴った大きく通る声、100人全体に響き渡る声を要求された。
 このセーフティガードの基本動作は、見せる警備に於いて実に重要な訓練であった。しかし、その重要な訓練に入社間もない、社歴が無いに等しい隊員に任せるような事が現実に起きたのだった。
 チェンジリーダーと言う役職は、警備業界に長く居る者はやらなかった。警備員の悲哀を知り尽くしている者には出来ない職務だった。それより彼等は、警備員達を励ます方を選択し、当該現場での実地訓練を優先した。だが、入社間もない人間は、右も左も分からないが、やる気だけは有るので〈ここで一発、自分の存在を会社全体に認めさせてやろう〉と言った山師心が出るのである。チェンジリーダーは殆どが新人の若い隊員であった。会社は、この若年チェンジリーダーを派遣隊の隊長以上に優遇したのだった。10年以上も警備員をやっているベテラン警備員に向かって浅はかな激を飛ばし、敬礼をするその姿勢に叱咤して、誰でも知っているような未熟な指導を行いながら一人一人回った。全員が〈誰がこんな奴に!〉と思ったであろうが、誰も抗う隊員は出て来なかった。
「隊長がこんな若造に叱られて諂っている。そんな情けない隊長を尊敬していたオレ達は、一体何だったんだ!」
 一般隊員達は皆そう思ったであろう。そしてまた各派遣隊の、尊敬に値した隊長と隊員の堅い結束力、延いては島野課長の一枚岩が罅割れて、正に崩れ去った瞬間であった。

ー続きますー

 洋祐と平泉が巡察を続けている時だった。今度は渋谷の某女子大派遣隊々員田所氏の奥さんが投身自殺をしたと言う訃報が入って来た。これで隊員の奥さんの自殺は二人になった。
「こんな事が・・・ 二人目じゃないか。それもどうして自殺なんだよ。他殺なら犯人を捕まえれば良いけど、自殺って、自分で自分をって事だろ? 警察だって自殺の動機しか調べないじゃないか。可哀想過ぎるよ本当に」
 洋祐はやり切れない思いを平泉の前で見せた。
「喜多さん、田所さんの家に行くの?」
「いや、今はご家族が大変な時だから、ちょっと落ち着いてからにしようか。それもだけど、江田さんの方も気になるな。田所さん家が落ち着くまで江田さんの聞き込みをしようか。平泉! 八王子だ」
「押忍、行きましょう」
 二人は、首都高速道路から中央高速道路に向かって、鉛色のワゴン車を飛ばした。
 枝は、他の警備会社に再就職が内定していた。今日は一日中家に居ると車内から掛けた電話連絡で確認が取れていたが、家に居ると気が滅入ってしまうので、気分を変えたいからと近くのコーヒー店を指定して来た。
 中央高速道路八王子インターを出て、15分ほど走ると約束のコーヒー店が見えて来た。洋祐と平泉は、ワゴン車を時間払いのパーキングに格納して店へ入った。
 江田は、約束のコーヒー店に30分前から来ていたようだった。カップのコーヒーが底の辺りまで無くなっていたのを確認した洋祐はそう思った。
「江田さん、調子はどうですか? 再就職内定されたそうですね。良かった」
「どうも、その節はお世話になりまして。再就職は内定しましたが、給料がセーフティーガードより大分下がりましてね。あの会社の良い所は、ただ給料が他社より良いことだけでしたが、でも、収入が減るのも大変ですよ。10年ちょっとあの会社にいましたが、退職金は企業年金を解約した掛け金だけでしょう。30万円ちょっとしか有りませんでした。自分は、企業年金は退職後の楽しみとして受け取りたかったんですよ」
 洋祐は、驚いた様子で江田に話した。
「えっ、退職金が30万円ちょっとですか? この間、国内ナンバー2の警備会社を退職した方に聞きましたよ。定年前の退職で18年ほどの在籍でしたが、貰った額が600万円って言っていましたよ。勿論常駐で、見た感じもパッとしない方でしたがね。片方の聴覚も無かったし、これじゃセーフティガードに居ても将来が見えて来ないな。最近特にそう思うようになりましたよ」
 江田は、洋祐の話を静かに聞いていたが、解雇された者には、大幅な収入ダウンは身に堪えるようで、洋祐の話に頷くことはあったが、共感は出来ていなかった。さらに洋祐が言った。
「江田さん、この間大変な事がまた起きたんですよ。渋谷の某女子大の田所隊員の奥さんが、投身自殺を遂げたんですよ。もう分けが分からなくなって来ましたよ」
「田所隊員の奥さんが自殺? 本当ですか?」
 江田は、同じ境遇の隊員が他にいたことに驚いた。
 平泉は二人の話を聞いていたが、静かに口を挟んだ。
「江田さん、解雇についてなんですが、懲戒解雇でしたか、それとも普通解雇でしたか? 聞かせて貰えませんか?」
「はい、あの時は会社の事務所で八時間も軟禁状態で絞られました。相手は、今の第二事業部々長の佐藤です。佐藤は初めから自分を首にする腹積もりだったと思います。自分は、他社である受付の女性と帰りが同じになって、新宿で降りて食事でもしませんかと、一緒に歌舞伎町を歩いていただけじゃないですか。それ位のことだと、普通は上司と面談、コンプライアンスの再徹底をして、その後に異動措置を取る。その流れでしょ? 佐藤は社員を何だと思っているんですかね。彼は社員が可愛いとか、頑張っている社員を自分が指導してやると言った気概、やる気、懐の深さが一切感じられないんですよ。あの人は感情を持った人間なんですか?」
 平泉は、口角を上げて静かに言った。
「ごめんなさい、一応上司なんでそこ迄言えません。ただ、最近犬になったようです。それから江田さん、奥様の自殺理由は一体何だったのですか?」
 江田は、暫く考え込んでしまった。
「平泉さん、家内が自殺した理由なんですが、自分が再就職しても収入が大幅に減るじゃないですか。それに、新宿で歩いていた他社の事務員と何か有ったのかと勘繰って、その辺で将来を悲観したのかなと思いますが、実際の所は良く分かりません」
 平泉は、納得の行かない様子で「そうですか」と返事をした。すると、江田がまた言った。
「貴女の言う犬の意味、自分は何となく分かって来ましたよ。佐藤は誰かに餌を貰っているんですね。そいつが、飼い主で、佐藤は飼い主の命令に従っているだけなのですね。犬のように忠実に、しかも盲目的に。その飼い主とは、施餓鬼専務ですか?」
 いきなり施餓鬼専務まで話が進んだ事に、洋祐は戸惑いながら言った。
「まぁまぁ、早い話がそうなんですが・・・ 個人名が、それも会社の役員の名前が出るとちょっとね」
「喜多川さん、これではっきりして来ましたよ。自分は10年ちょっとセーフティーガードに居たじゃないですか、もちろん島野派ですよ。それも上の方だから、施餓鬼専務は自分を解雇に持って行きたかったんですよ。奴には自分を解雇する良い理由が出来たんだ」
 平泉は、解雇の種類について江田に質問した。

ー続きますー

「佐藤第二事業部々長によるパワハラで、貴男に退職を強要したのですね。八時間も軟禁されたと言っていましたが、何処かの一室でしたか?」
「いえ、事務所にパーテーションで仕切られた一角が有るんです。出入口は開いていましたが、とても出られるような雰囲気では無かったですよ」
 江田が思い出しながらそう言うと、平泉が続けて言った。
「これは一応パワハラです。裁判が出来ますが、貴男は会社を訴えますか? それで、一番問題なのが証拠なんですよ。言った、言わない、の言葉だけの世界だから、状況証拠だけじゃ少しきついかも。解雇って仰いましたが、有給消化と退職金が有ったんですよね。これは、会社が狙ったと思いますが、普通の解雇では無いですね。二人で新宿を歩いたくらいでは、会社の解雇規定のガイドラインに触れていない筈なんですよ。ですから、会社は貴男を普通解雇にも出来なかった。そこで貴男を軟禁状態にして弱らせて、自主退職に追い込んだ。綺麗な言葉で言うと、退職の勧奨と言うものです。貴男に退職を勧めたら、貴男は納得してそれを受け入れた。と言う具合です。もしかして、退職時に何か書かされませんでしたか?」
 江田が、また思い出したように話し始めた。
「あぁ、あれがそうだったんだ! 書かされましたよ。黒砂女子がB5版の半分くらいの紙を持ってやって来て、ここに退職理由を書けと言いました。その内容も〈私江田は某社の受付嬢と二人で新宿を歩いているところを、ユーザーの役員に認められ、後日これはコンプライアンス違反ではないか? と大きなクレームになった。この事件によって私江田は、会社に多大な迷惑を掛けたので、その責任をとり辞職します〉こう書けと黒砂は自分に強要しました」
 この話を聞いていた洋祐は、眉間に皺を寄せて言った。
「汚いな、黒砂女史! やっぱあの女は鬼畜だ、施餓鬼専務の犬畜生だワ。島野課長時代には江田さんに散々お世話になっておきながら、状況が変わった時の変わり身の早さ! 腐った餌でも平気で食べる女だ。腐った女は金になれば何でも良いんだ」
 洋祐は、悪態を吐いた。
 平泉は洋祐の言葉に頷きながら、付け加えるように江田に言った。
「江田さん、あれ書いちゃったら、具体的な証拠はあの紙だけになっちゃいましたね」
「良いですよ、あんな腐れ上司しか居ない会社に戻りたいなんて、あの軟禁状態の中でも思えなかったし、今も全然思えませんよ」
 洋祐が江田に同情するかの様に言った。
「会社の創業者や、会社を愛する人が存在していればね、もっと社員を叱咤激励しながら運営出来たと思いますがね」
 すると、江田が妙な事を話し始めた。
「あの時施餓鬼専務がね、自分は頼みもしないのに、女房に会いたいと言ったんだよ。女房に会って自分が解雇になった理由を説明するから、それで納得して欲しい。そう言ったんだ。初めは断ったんだが、施餓鬼がしつこく熱心に説明したいって言うものだから。
 自分は、うちの女房に施餓鬼が会って説明しているうちに、もしかすると気が変わって会社に残れるかも知れない。そんな考えに段々変わって行きました。こんな会社にはもう戻りたく無いと思っていましたが、家内の事を考えると、安易で楽な選択をしてしまったんです」
「それで、江田さんは、施餓鬼専務が奥様に会う事を承諾されたんですね」
 平泉が江田に確認を取ると、平泉がまた慌てて話した。
「嫌だ、その三日後じゃないですか。奥様が自殺なさったのは。施餓鬼が唆したのかしら?」
 洋祐が不思議そうに江田に聞いた。
「江田さん、施餓鬼専務と奥さんは何処で出会ったんですか? その時江田さんも一緒だったのですか?」
 江田は、眉尻を下げて悲しげに話した。
「八王子の駅前の喫茶店で女房と施餓鬼の二人きりで会いました。自分は、家で女房の携帯連絡を待っていました。今思うと二人きりで会わせた方が、自分が会社に残れる確率が高くなるかも知れない、と女房をちょっと利用した様な気まずい後悔も出て来ました」
「そうですか、それでは二人の会話の内容を江田さんは知らないのですね? 施餓鬼は奥さんに一体何をしたんだ・・・」
 洋祐はやり切れない思いだった。
「江田さん、今日はご協力有難うございました。今度の会社、頑張ってくださいね」
 洋祐は、そう言うと先頭でレジに向い、三人分のチェックを済ませた。喫茶店を出て江田に挨拶をした後、洋祐と平泉は駐車場に向かった。そして八王子インターに向かう車中、平泉は無念そうに語った。
「やはり奥様の自殺に、施餓鬼が大きく関わっている様な気がしますね。でも、何も証拠が無いなんて、警察じゃ既に将来を悲観した自殺と結論が出ているし、喜多さん、某女子大隊員の奥様の投身自殺も、もしかしたら施餓鬼専務が関わっていたのかしら?」
「恐らくそうかも知れないな。葬儀が終わった頃に田所さん家に行ってみよう」

 同時刻、佐藤第二事業部々長は、壁一枚で仕切られた本社の施餓鬼専務の机に、表情の無い顔で向かった。
「施餓鬼専務、パンフレットに掲載されておりました車とマンションですが、決めましたので、今日は専務のお許しを頂こうと思いまして」
 佐藤が施餓鬼の前で、口角だけを吊り上げた微笑みで言った。
「おぉ、佐藤くん、どれどれ車は何にしたのかな? パンフレットを見せてくれ」
「個人的にはこのベンツのGクラスが好みなのですが、会社用としてはちょっと難がありますかね?」
「これは、ジープの様な形をしているぞ。馬鹿! 会社でも使うのならセダンは鉄板だろ?」
「分かりました、ではこちらのEクラスは如何でしょうか?」
「Eクラス? エンジンが国産の5ナンバークラスじゃないか。君は第二事業部々長だぞ、もっと上のクラスにしたまえよ。どれ、このSクラスの白いセダンが良いのじゃないか?」
「Sクラスですか・・・ では、そうさせて頂きます。それから、マンションですが、江東区に有ります花菱地所の53階建てタワーマンションで、三階の北向きのこれで宜しいでしょうか?」
「53階建てのタワーマンションの三階の北向き? お前は第二事業部々長だぞ。お客様を自宅に招待する時も有るだろう。タワーマンションなのに、そんなに低くて北向きの所じゃお客に舐められるだろ。じゃ、オレが決めてやろう・・・ これだ、この最上階の南向きが良いのじゃないのか? これにしなさい」

ー続きますー

「はい、ありがとうございます。では明日申し込んで来ます」
 佐藤正高は、家と車のローンを最小限に留めたかったが、施餓鬼専務の言葉に従った。金額は、マンションと車の両方で実に一億円を越えていた。この額のローンを抱えていては、転職した場合に多額のローンを返済することが最早困難であった。自分が有事の時には、マンションと車を売れば最悪の事態の回避が出来るとも思ったが、家族を喜ばせて、以前と変わらぬ暖かい家庭を夢見ていた佐藤には、自己犠牲を否定的には考えられなかった。ただ施餓鬼専務に従う事しか出来なかった。
「ところで佐藤君、大阪に飛ばしたあの島野は今どうしているのかな? 未だあっちで生きているのか?」
「島野部長ですか? 難しいみたいですよ。大阪支社長からちょっと聞いた話ですが、隊員達の輪の中に上手く入って行けてないみたいです」
「どう言う事だ? 説明しなさい」
「支社長の話では、大阪人には特有の気質が有って、上から目線でいきなり指導しても、彼等の耳には全く入って行かないだろうと言っていました」
「上から目線で? 島野は本社から配属された部長だぞ、上から目線は当然じゃないのか?」
「はい、大阪が難しいのはそこの所なんですが、東京人を羨望意識で見る反面、少なからず反発心も同時に発生するようです。
 豊臣秀吉の頃からだと思いますが、元は大阪だと、東京は家康が野原を埋めて作った近々の街だ、偉そうにするな。こんな気質が有るようです」
「秀吉? 家康? もう良い、事業部に戻れ!」

 某女子大派遣隊々員田所氏の奥さんが投身自殺を遂げ、葬儀が終わった頃、洋祐と平泉は彼の家に向かう車中でこんな会話を交わしていた。
「喜多さん、投身自殺って飛び降りたの?」
「ご夫婦はこれから行く川崎のマンションの12階に住んでいるのだけど、奥さんが自宅のベランダから・・・ ご主人が明け番で帰宅する一寸前だったらしいよ」
「明け番でご主人の帰宅が嬉しい反面、合わせる顔が無かったのね。ご主人を愛していたんだわ。きっと」
「合わせる顔が無いなんて、未だ何も分かっていないのだから。考えてみれば、江田隊長、それに田所隊員と、三ヶ月も経たない間に隊員の奥さんが二人も自殺してしまうなんて、これは絶対何か有るのに決まっているよ」
 洋祐と平泉は、田所隊員の住むマンションに到着した。事前連絡をしていたので、メインエントランスのオートロックもすぐに解除されて、12階の田所宅玄関到着迄それほどの時間は掛からなかった。平泉が玄関のインターホンを押すと、田所隊員が扉を開けて出迎えてくれた・
「どうも、散らかしていますがご遠慮なく、どうぞどうぞ」
 洋祐が半歩進み、腰を屈めて言った。
「田所さん、この度は急な事で謹んでお悔やみ申し上げます。ちょっと御焼香させてください」
「はい、有難うございます」二人は、ダイニングに面した和室に通され焼香を済ませた。
「早速ですが、警察は何と言っていましたか?」
 洋祐が田所を向いて正座のまま聞いた。
「はい、ちょっとこちらへどうぞ」
 田所は二人を誘い、奥さんが飛び降りたと言うベランダへ向かった。そして、カーテンを開け部屋の窓を大きく開けた。
「奈美恵はここに椅子を置いて、手摺りを越え前に立って。そしてジャンプしたんです。自分が帰宅する一時間ほど前でした。会社の管制から電話が有って知りました。奈美恵には、毎日仕事尽くめで、自分は夫らしい事を何もしてやれませんでした。それが申し訳無くって」
 田所隊員は、突如こみ上げてきたものを抑え切れず、嗚咽を漏らしながら両瞼に手を当てた。そして涙を拭うと、奈美恵さんが飛び降りた一点を手摺り越しに覗き込んだ。
「お気の毒に・・・」
 平泉羊子が涙を誘われ、堪らずにそう言った。
 洋祐は、話の本題を切り出した。
「田所さん、今度退職されるとお聞きしましたが、どんな経緯だったんですか? 自分に詳しく教えて貰えませんか?」
「勿論です」そう言って田所は話し始めた。
「セーフティガードは、社員が可愛くは無いんですかね? あんな事で自分が退職になるなんて。可笑しいですよ。社員を守ろうとは一切しないし、佐藤は若い地域担当者の石井ともう一人を使って、自分を寄って集って非難するんですよ。この女子大派遣隊は契約解除になる、もう終わりだどうしてくれるんだってね。でもあの松岡さんは何ヶ月も前に教授を退職している人なんだ、そんな人が学長に告げ口する分け無いんだ。自分の非難は良いとしても、その後のフォローも何も無い。叱って諭す心が感じられないんですよ」
 洋祐は、松岡教授の退職後の立ち位置が理解できず、田所に聞いた。
「あの松岡さんて女子大の教授の事ですね。確か真夜中のキャンパスで揉めたって聞いていますが、何か有ったのですか? 詳しくお聞かせ願えませんか?」
「良いですよ、貴方がたは佐藤の手先では無さそうだし・・・ あれは、半月前の深夜23時を回った頃でした。一人で裏門の立哨をしていると、ジープの様な形をした車が入って来ました。しかもヘッドライトを4灯上向きに点灯させたまま。こちらから見るとそれは眩しくて運転手の顔も確認できませんでした。
 自分が車を停止させると、ウインドを下げて助手席に乗っていた若い女性がこちらを向いて笑っていました。すると、その反対側にいたドライバーがこちらを見て〈新しい人かな? ヨロシクね、ヨロシク・・・ ヨロシクね〉ってとにかくヨロシクを数回鼻に掛かった声で連呼していました。ウザイ感じでした。その時、まさかこんな深夜に女性同伴で教授が来るなんて思いもしませんでした。自分は、悪気は無かったのですが、爺さんの鼻に掛かったヨロシクの声と、少女連れが何か不審に感じてしまったんです。でも、やり取りをしているうちに、この人たちは大学の関係者かも知れない。と思い始めていました。それで返事を返さないで誘導棒で前方を指し、通行の許可を示唆しました。車はパジェロでした。パジェロは一旦目的地まで行った後、すぐこちらに戻って来て、同じドライバーが私に〈さっきの態度は何だ!〉と言って来ました。自分は、車のライトが4灯上向きに点灯していて、眩しくて運転手と同乗者の確認ができませんでした。と自分の取った態度を車のライトの所為にしてしまったんです。すると〈そんなのはオレの勝手だろう〉と急に起こり出して〈責任者を出せ!〉と凄い剣幕で迫って来ました。

ー続きますー

 自分は〈隊長は今仮眠中ですから話は自分がお聞きしますので〉と言ったんですが、松岡さんは、急に警備室に駆け寄って、怒鳴りながら玄関の引き戸を思いっきり開けたんです。扉は柱で凄い音を立てて止まり、衝撃で格子に嵌っていたガラスが破れんばかりでした。昔の民家の様な造作でしたから。それから彼は仮眠中の隊長を叩き起こして外に引きずり出し、私のことを責めました。隊長はステテコとシャツ一枚の哀れな姿でただ平謝りをしていました。後で知ったんですよ、このドライバーは松岡元教授で、バスケットボール部の顧問を未だ続けていたと言うことを。それで当日の夜は、体育館で女性部員十数名と合宿をしていたそうなんです。そのことを本日の注意事項として引継ぎがされていなかったんです。後で隊長を恨みましたけどね」
 洋祐は田所の話を、眼を瞑り相槌を打ちながら聞いていたが、話が終わると、また目を開けて話し始めた。
「そうですか、自分は佐藤派では無く島野派なので、田所さんが退職される話を断片的にしか聞かされていませんでした。そんな事が有ったのですか?
お話の内容からは、田所さんがちょっと迂闊だったかも知れませんね。と言うのは、ユーザー側の人間が100%悪いとしても、また、それが例え正当な理由でも、受け入れて貰えない事が多いのも現実なんですよね」
 洋祐の話を聞いた田所は、怪訝な顔つきで言った。
「そんな事は承知していますよ。ただ、石井主任が話を捏造して迄自分を追い込んで来るので、腹が立って仕方無かったんです。私は、松岡元教授にその時に言ったんですよ。〈これから学長の所へ二人で行きましょう。そしてどちらに非が有るか聞いて貰いましょう〉とね。そしたら、松岡元教授は黙ってしまいました。あの方は既に定年退職されていて、あの人に取ってみれば、警備の方が大学側の範疇に入るんですよ。虫の良い考え方ですが、それを、さも松岡元教授が学長にあの事実を報告した様なでっち上げを平気で言うものだから。石井はね、自分にこう言ったんですですよ。〈大学にアンタのやった事で謝りに行ったら、警備会社を変えようかと言われた。どうやって責任を取るつもりだ?〉とね」
 洋祐は、田所隊員の話に嘘は無いと思ったが、暫く沈黙した。
 例え警備会社と言えども、そこには倫理に乗っ取った正義は無く、全ての決定事項は雇い主であるユーザーによって決定付けられることの再確認と、確認の取れない、石井主任による捏造話が洋祐に苛立ちを感じさせた。
 更に平泉が田所に質問した。
「田所さん、本社で退職手続きの他に何か有りませんでしたか?」
「何かって? 本社の、特にあの佐藤部長には参りましたよ。普通の会社なのに、あの人は毎日警察の捜査みたいな事をやっているんです。現場の社員の生活の事なんか全然考えていない。お前のやった事は警備員に有るまじき行為だ。派遣隊の秩序を乱すような人間は去れ! 社員は募集を掛ければ幾らだって来るんだ。と、こんな事を表情の無い顔で言うんですよ。確かに松岡元教授を怒らせたのは失敗でしたが、あんなに大騒ぎをして、一の失敗を百の失敗かのように仕立て上げるのも何か可笑しいでしょう? 佐藤は社員教育も何も出来ない唯のオヤジじゃないですか。社員の首を切る事が、自分の仕事だと思っているんだ。あんなのがセーフティガードの事業部々長だなんて、本当に会社のスーツ組の連中って、どんな資質を問われて入社しているんですかね? 馬鹿でも良いから、上から言われたことだけ黙ってやれる人間ってことでしょうね。親会社のセキュリティの社長に、セーフティガードは腐った会社に成り下がっている。と報告してやりたいですよ。こんな時に島野さんが居てくれたらな」
 田所は悔しそうに平泉を見た。平泉は、口角を少し上げて田所を慰めるように優しく見つめていた。そして、洋祐を向くと彼に声を掛けた。
「喜多さん、田所さんも江田さんも、何か同じような感じで解雇されたように思いませんか?」
「そうだな、仕事の過ちは誰にでも起きる事なんだ、これは、大工が寸法を間違えたとか、コックが料理を焦した。これと同じ事なんだよね。大事な客が怒ってしまった。なんて話は必ず商売、営業をしていれば起きる事なんだ。上司の大切な使命は、このところを如何に好転して行くかだと思うけどな。コックなら、料理を焦した人を首にするのじゃ無くて、焦がさない方法を教えるとか、もっと腕が上がるように指導して行く。そしたら、そこをターニングポイントにして評判の良い料理人が生まれるかも知れない。それが全く無いんだよな、あの佐藤部長には」
 平泉と洋祐は、どうしようも無い脱力感に苛まれた。そして平泉は気掛かりだった事を田所に聞いた。
「田所さん、奥様は将来を悲観なされてここから身投げされたのですか? 私には同じ女として、そこ迄出来ないように思えてならないのですが」
 田所は、宙に眼を移して徐に言った。
「新しい警備会社に再就職しようと思いますが、給料が大分減るじゃないですか。家や車のローンとかその他にも月の支払いが結構有るんですよ。それと、後で分かった事なんですが、妻が自分には内緒で少し借金をしていて、それも有ったのかなぁなんて今思っています。
 佐藤が部長になってからのセーフティガードは、嫌な会社に堕落して、良い会社が有れば何時でも転職したかったのですが、取り柄と言えば、給料が良いだけの会社でしたからね。会社には色々と要求したい事や言いたい事も沢山有りました。でもそれは全て愛社精神から来た事です。社員の為に会社を良くしたかったんです。しかし、あの佐藤とか石井とかの情けない人間が上に居るような会社に未練は有りません」

ー続きますー

 平泉は、眉間を少し寄せて田所を見ながら優しく聞いた。
「分かります。それから田所さんに内緒で、奥様に借金が有ったのですね?」
「奈美恵はブランド品が好きで、浪費癖が少し有ったんです。いえ、買うと言っても、大した事は無いんですが。サラ金から来る請求書に、自分が気付いてさえいれば奈美恵は・・・」
 平泉は、奈美恵の闇の部分を垣間見たような気持ちになった。そこに、田所が施餓鬼の名前を口にした。
「でも本社で落胆している自分に、あの時の施餓専務は妙に優しかったな」
 それを聞いた洋祐が、驚いてポケットから手を出し田所に聞いた。
「田所さん、施餓鬼専務が貴男の解雇の時に出てきたのですか? 会社のやり口は、懲戒解雇や普通解雇のガイドラインに沿わない事案は、被疑者を追い込んで自主退職に持って行くやり方なんですよ。証拠が残らないような追い込みを被疑者に掛けてね。同じ会社の社員として、田所さんには本当に申し訳ないし恥ずかしいです」
 田所は、俄かに険しい顔つきになったが、また下を向いて静かに話し始めた。
「あの日、朝から軟禁状態で佐藤や石井に追い込みを掛けられて失望している時に、施餓鬼専務がやって来ました。
〈どうしたの? 私は現場の事は良く分からないけど、顔面蒼白だよ、大丈夫?〉と声を掛けて来たんです。自分は、施餓鬼専務のような優しい人も会社に居るんだなと思いました。それで、解雇に至る経緯を施餓鬼専務に全てお話ししました。専務は親身になって聞いてくれましたが、結局現場の責任者が決めた人事に関しては、現場の最高責任者に一任してあるから、専務職の私にはどうにもならないと言いました。でも、他の会社を紹介する事はできるから、その辺で貴男の力になってあげます。と、こう言ってくれたんです。自分は、嬉しく思いました。そしてこう言う事は、家族で話し合わないといけないから私を奥さんに会わせてください。と言いました」
 洋祐は、不思議そうに聞いた。
「そうすると、三人で会ったのですか?」
「はい、駅前の喫茶店で専務と女房と三人で会いました。最初は三人で話していましたが、10分位して〈私が奥さんにも納得して貰えるように良く話しますから、田所さんは先に帰っていて下さい。再就職の話もしておきます。すぐに終わりますよ〉施餓鬼専務は自分にこう言いました」
「それで、施餓鬼と奥さんを二人きりにしたんですね。それで奥さんはどれくらい施餓鬼といたのですか?」
 田所は、悲しそうに言った。
「三時間近く一緒だったと思います。でも、奈美恵は帰宅して自分に嬉しそうに言ったんですよ。〈施餓鬼専務は、貴男が会社に残れるように佐藤に頼んでみるよって言っていた〉と、なのに・・・」
 洋祐は「田所が会社に残れるよう佐藤に頼んでみる」と言う施餓鬼の言葉を聞いて驚くように言った。だが、最後の言葉は田所の手前尻蕾になってしまった。
「施餓鬼はそんな人情味の有る男じゃ無い、奈美恵さんと何か取引をしたのじゃ・・・」
 洋祐は、はたと行き詰まるこの共通した状況に考え込んでしまった。彼は平泉にこう言った。
「江田さんと言い、田所さんと言い、施餓鬼専務が奥さんと話し合いの場を持った事は共通しているな」
 平泉は、洋祐の話に共感したように言った。
「私もそう思いますが、警察では、将来の悲観と言う事で操作が打ち切りになっているだけに厄介ですね」
 洋祐は、同感したように頷いた後、田所に言った。
「田所さん、お話は大体分かりました。この件は警察では既に操作が終わっっているので自分達で独自の捜査を続けて行きます。また、お聞きしたい事が出たらご協力をお願いします」
「はい、自分も積極的に協力しますので何時でも結構です、連絡下さい」
 田所はそう言うと、二人を玄関まで案内して見送った。
 洋祐と平泉は田所の家を出て車に向かった。

 島野部長の帰還

 洋祐と平泉の乗った車が本社に到着して、エントランスに入った時であった。大阪で活躍中の島野部長から洋祐に一通のメールが届いた。
「おっ、平泉、島野部長からメールが来てるよ」
 洋祐は、久しぶりの島野の連絡に喜んでメールを開けた。
「洋祐、頑張っているか? 大阪は大体纏めておいた。一年掛かると思ったが、半年で終わったよ。大阪の人間は東京と全然違うな。最初は戸惑ったが、要領を掴んだらどうって事無かったよ。要は、先にこっちのケツの毛迄見せないと彼等は腹の中を見せてくれないと言う事だ。普通の会話だけをしていたのじゃ気持ちが通じないんだな。洋祐も勉強になったな。すぐに帰るから待っていてくれ」
 メールに目を通した洋祐は嬉しそうに平泉に話した。
「平泉、島野部長のご帰還だぞ。島野さんは、僅か半年で大阪を纏めたそうだ。すぐに帰るってさ。やっぱさ、島野さんが居てこそのセーフティガードだよな」
「本当ですか? 良かったですね。でも島野部長が帰って来るのが嬉しい反面悲しいみたいな」
「島野部長が帰って来て、何か悲しい事でも有るの?」
「私は島野部長の代わりにここに来たんですよ。途中でこの捜査を、もしかしたら止めないといけなくなるんですよ。でも、これは乗り掛かった船です。最後まで私は頑張ります。島野部長にも良く言っておいて下さい」
「そうかい、分かったよ。島野さんには良く言っておくから、そんなに目を吊り上げなくても良いんじゃない」

ー続きますー

 だが、本社施餓鬼専務の了解を得ないで、独断で東京に戻って来た島野部長に対して、本社は彼を冷遇した。島野部長は事業部から本社に異動、課長に降格された。そして施餓鬼の居る本社の末席に机を与えられたが、仕事は全く与えられなかった。これが、事業本部であれば、次の打つ手が分かっているので問題は無かったのだが、彼は本社勤務となった事で一切の活動を制限されてしまった。
 島野課長に仕事が何も与えられず、椅子にただ座って一日中机に向かうだけの日が三週間ほど経過したある日だった。正午になると同時に島野は、席を立つと座っていた椅子を思いっきり蹴り倒した。いきなり発生した大きな音に驚いて、周りの社員達が一斉に島野を向いて騒ついた。それを確認した彼は、次に机に手を掛けて、気合を入れ横倒すとまた派手な音がした。隣室の事業部の社員も何人か様子を見に来た。そして島野は、施餓鬼を一睨みすると床に唾を吐いてそのまま帰宅してしまった。
 当日の夕方、洋祐に自分の行為を恥じたメールが島野から送られて来た。洋祐は、現在社内の水面下で起きている改革を島野に説明した。するとこんな返事が返って来た。
「そうか、俺たちは整理粛清の為の罠に嵌ったのか。しかし洋祐、それは会社に在籍してこそ出来るレジスタンスであるが、自分は、次に身辺警備の会社を立ち上げることに全力を注ぎ込まなければならない。洋祐を助ける事は出来ないが、とにかく頑張ってくれ。幸運を祈る」と返事があった。洋祐は決意を新たにした。

 次の土曜日、自宅にいた洋祐に事業部の管制から連絡が入った。それは、極めてショッキングなものだった。その内容は、佐久の奥さんが飛び込み自殺したと言うものだった。
「なにぃ! どう言う事だ? 佐久さんは察が調べて白じゃ無かったのか? ここに来て何故佐久さんの奥さんが? 三人目じゃないか・・・」
 翌日、洋祐は佐久家に車を飛ばした。そして、遺影の前でお焼香を済ませると、項垂れた佐久に声を掛けた。
「ちょっと、会社の人と話があるから向こうに行ってるね」
 佐久が長男にそう言って、二人で玄関を出た。
 洋祐は、佐久を思い遣るように優しく話し掛けた。
「佐久さん、奥さんが自殺なんて本当にご愁傷様です。それで、所轄はなんて言ってるの? 佐久さんはどうなの? 何か心当たりはあるの? 隊費の事は白だったんでしょ?」
 佐久は、ポケットから煙草を取り出し火を点けると、煙を吐き出しながら静かに語った。
「心当たりなんて有りませんよ。所轄が言うには、家内がノイローゼだったんじゃないかと。何か発作的にやったのじゃないか? と言っています。自分もそう思いますよ。あいつは忍耐強い女でしたが、一度切れると何をするか分からない所が有りましたから。でも、可哀想な女でしたよ。子供時代から親父に暴力を振るわれていたようで、自分と知り合った頃は、話をしている時に急に泣き出したり子供になったり、何か哀れに思えて、それで自分が何とかしてやろうと思ったんですよ」
「そうですか、佐久さんも気を落とさないで頑張って下さい。自分も出来るだけの事はしますから」
 洋祐は、佐久家を出ると平泉に事件の内容を携帯で伝えた。

 佐久は、ある事が頭の中を渦巻いていた。佐久の奥さんの芽衣が、遺書らしき物を残して亡くなっていたのだ。その事を佐久は誰にも話していなかった。

 翌週の月曜日、週一で行う朝礼の日であったが、何時も話が長い施餓鬼専務の姿が無かった。
 洋祐と平泉は顔を見合わせた。そして朝礼で佐藤第二事業部々長が挨拶をした。
「えー、施餓鬼専務はね、暫くの間海外のセキュリティーの勉強をするために、アメリカの方へ出張されました。マンダリンの親会社を設立された上野社長は、アメリカ生まれの方なんでね。そこの伝手で半年程出張する予定です。専務が帰国するまでは、この佐藤と末長第一事業部々長が会社を守って行きますのでね、皆さんも宜しくお願いします」
 洋祐は、首を傾げながら平泉に言った。
「あの施餓鬼専務が、セキュリティーの勉強だなんて100%無いよ。絶対何か有ったんだよきっと」
 平泉も同感したようだった。
 朝礼が終了した時、誰かが一階で私服の刑事を見たと騒いでいた。それを聞いた洋祐と平泉は、この奇妙な出来事に更に考え込んでしまった。
「会社に刑事が来ているなんて、一体何が有ったんだろう?」
 洋祐は、そう言いながらコーヒーメーカーの所へ歩いて行った。

 施餓鬼専務がアメリカに出張したと発表された日の深夜だった。洋祐の携帯に佐久から連絡が入った。佐久は大分酔っているようだった。
「佐久さん、飲んでるの? 何か有りましたか?」
 佐久は、洋祐に話したい事があるので、これから会えないか? と言って来た。洋祐は、葛西に両親と住んでいた。深夜では有ったが、快諾して環状7号線を足立方面へ車を飛ばした。出発して30分ほどで佐久の家に着いた。洋祐の車のエンジン音を部屋で聞いたのか、すぐに玄関の明かりが点灯して中から佐久が出て来た。そして、佐久はそのまま洋祐の車の助手席に乗り込んだ。

ー続きますー

「喜多川さん、ちょっと真直ぐ行って貰えませんか」
「良いですけど、佐久さん、こんな時間に一体どうしたんですか?」
 佐久は、暫く沈黙していたが、深夜の環状7号線を十条方面に走らせて10分ほど経った頃、佐久が呟くような声で話し始めた。
「芽衣が終電に飛び込んですぐ警察が来ましたよ。所轄が一通りの調書を取ってから、隊員の奥さん連続自殺事件と言う事で、本庁の柳沢警部がやって来ました。そこで自分が柳沢さんに話した事を、喜多川さんにもお伝えしておきたかったんですよ。

 「カ・イ・リ」 ス イ ッ チ

 佐久の奥さんは芽衣と言った。芽衣は自殺の前に遺書のような走り書きを残していた。震えるような乱れた文字で書かれたその走り書きは、芽衣の深い悲しみを物語っていた。紙はくしゃくしゃになって、下の隅に薄く血が着いていた。ボールペンで書かれたその文字は、斜めに掠れて悲しく弱々しかった。
「あいつがいけないんだ あいつがあんなことをするから」
 この遺書らしき書き置きは、芽衣が亡くなったあとに彼女の遺留品のバッグの底から佐久が発見したのだった。
 佐久は、初めて芽衣と出会い交際を重ねるうちに、深い悲しみの渦に漂っていた芽衣に手を差し伸べて、生涯を共に生きようと誓ったのだった。
 芽衣の幼少期の話を佐久は語り始めた。
「芽衣は、自分と出会った頃こんな話をしていました。
 芽衣は、父親に溺愛されて育ったの。何処にいても、父親は私を見ると優しく微笑んで、何時も力一杯芽衣を抱きしめてくれたの。夜、会社から父親が帰宅して玄関のドアを開けると、芽衣はいつも玄関まで急いで駆けて行って、大きく両手を広げながら父親に飛びついたわ。それから、思いっきり抱きしめて貰ったの。そうしないと怒られるから。晩ご飯が終わったら、父はいつも芽衣と一緒にお風呂に入った。父は芽衣の身体を隅々まで洗ってくれるの。父が家に居る時は、いつも芽衣と一緒に遊んでくれた。母はそれを見て見ない振りをしていたわ。いつか、母が私に焼きもちを焼いて、芽衣を叩いたことがあったの。母が芽衣を叩いたことを知った父は、すごく怒って話も聞かずに母を殴りつけたの。それ以来、母は父と芽衣の間には立ち入らないようになったわ。それからね、父は芽衣にとても怖い時があるの。何時も優しく芽衣を愛していてくれたけど、一旦怒り出すと芽衣をもの凄くぶつのよ。
 お寝んねになると、父は芽衣のベッドまで来ていつも芽衣と一緒に寝るの。母は一人で下の部屋で寝てた。でも芽衣は、父親と一緒に寝るのがとても嫌だった。父は芽衣にキスをして来るの。それからパジャマの下から手を入れて芽衣の胸を触るのよ。芽衣は身体を反らそうとしたけど、父親の力は芽衣より強くて動けなかったわ。それから、芽衣のパンツの中に手を入れて、私のあそこを弄くり回すのよ。父親はとても芽衣が好きだったみたい。何時も、芽衣は父親のすることで我慢をさせられたわ。心の中で、止めて! 助けて! と何度も叫んだ。でも、父親は芽衣を好きだから止めなかった。芽衣は仕方な無いからその時は、違う自分になろうと思っていたら桃香になったの。そしたら、全然楽になれたわ。芽衣は、直哉に逆らうと怖いからそうしたの。冬の或る深夜、父親に嫌だ、止めて! と言ったら、激しく折檻されたわ。寒いベランダに下着姿で放り出されて鍵を掛けたのよ。芽衣は母に助けを求めたけど、母は見ない振りをしたの。
 明け方だったわ。私がベランダに置いてあった段ボール箱に、身体を丸めて入って震えていたら、突然父親がベランダに来て、とても悲しそうな顔で芽衣に言ったの。
〈芽衣、何故そんな所に居るんだ、凍えちゃうぞ。さぁ、暖かいお風呂に一緒に入ろうか〉
 父親の直哉は、冷え切った芽衣の身体を抱き抱えた。芽衣は、寒くて怖かったから気が遠くなったの。
 直哉と一緒にお風呂場に入って、芽衣は裸のまま暫く立たされた。芽衣は〈お父さんごめんなさい〉って何度も何度も謝ったのに。直哉は、芽衣の身体を確かめるように眺めてた。それからバスタブに芽衣を呼んだ。芽衣はやっと暖かいお湯に浸かる事が出来たの。芽衣は、お父さんにお礼を言ったわ。〈ありがとうございます〉って。直哉はまた芽衣にキスをして抱きしめた。芽衣は友達にはいつもこう言っていたわ。私のお父さんは、芽衣の事がとても好きなの。凄く愛しているのよ。
 芽衣が中学生になっても、父親は芽衣と寝ていたわ。お風呂も一緒に入っっていた。その時芽衣は桃香になるの。いつもの芽衣になった時に、桃香に起きたことを全然覚えていなくて済むから。芽衣は父親が大好きだったけど、桃香は、直哉が大嫌いだったみたい。直哉が無理矢理桃香を好き勝手に扱うから。そんな時桃香は、直哉が死ねば良いと何時も思っていたみたい。前はね、はっきりした自分は何処にも見えなくて、目の前に薄い膜が有って、気持ちの外でみんなが動いているような感じだった。
 芽衣は時々ベッドの中で思い出すの。でも、思い出さない方が好きだった。何もしていない時、芽衣は大きな声で叫んだけど声が出なかったわ。
 いつか、部屋の隅に食べ物の残りかす散らばっていたの。お菓子の袋も何個か有った。芽衣には全然覚えが無かった。でも父親に見つかると酷く怒られるので、芽衣はベッドの下に食べ物の残りかすを手で掃いて寄せて仕舞ったの。ベッドの下には、ゴミが一杯有った。その頃、芽衣は少し太ったみたい。直哉は太った芽衣を見て凄く怒ったわ。直哉は芽衣の部屋を調べ始めた。クローゼットの中も調べた。芽衣の鞄の中も調べた。コンテナの中も調べたけど、何も出て来なかった。父親は芽衣のベッド中も調べた。そしてベッドの下を見てアレが見つかった時、直哉は喜んで〈芽衣、有ったじゃないか〉と言った。直哉は、芽衣の太った身体を調べるために芽衣に裸になるように命令したの。芽衣は震えた。震えが止まらなかったの。〈お父さん止めて〉震えながらやっと言った芽衣の声は直哉に届かなかった。芽衣の腕を掴むと直哉は、風呂場で芽衣を裸のまま立たせたの。そして、直哉が芽衣にこう言ったの〈こんな醜い身体になってオレはお前が嫌いになった〉そう言って、冬の冷たいシャワーを芽衣に掛けたのよ。芽衣は余りの冷たさにその場に蹲ってしまったの。そしたら、直哉は芽衣にまた立つように命令したわ。芽衣は風呂場を逃げ回ったけど、逃げ場が何処にも無くて仕方ないから震えながら立ったの。その震える芽衣の身体にまた冷たい水を掛けたのよ。芽衣は自分から桃香になれないの。どうしようも無い苦痛の時に、いつも桃香が替わりに出てくれるの。桃香は強い人。芽衣は桃香が好きでは無かったけど仕方無かった。桃香はまだ生まれたばかりだし、芽衣が面倒を見てやらないとお腹が減って死んじゃうから。この間、芽衣は初めて桃香が居ることを知ったの。桃香は未だ一歳だった。でも身体は芽衣と同じくらい大きいのよ。
 桃香がね、芽衣のために書き置きをしてくれていたの。最初は誰だか分からなかったけど、直哉のことを詳しく書いて有ったし、芽衣しか知らない内緒のことも知っていたから分かったの。

ー続きますー

 この間の晩、芽衣が寝ていたら直哉が部屋に入って来たの。そして芽衣のベッドに入って来て変なことをするの。直哉が来るのは毎晩のことだったから驚かなかったけど、その晩は特に変なことをするものだから、私はベッドと芽衣の後ろに隠れたの。そしたら桃香が居てくれて芽衣は助かったのよ。良かった。
 最近ね、芽衣は桃香とお手紙でお話が出来るようになったの。だから良く言って聞かせるの。芽衣が嫌な時はお願いしますって。二人いれば平気だよねって。芽衣は傷付くのが嫌だから」
 佐久は芽衣のことを、力無げに伝えた。
「高校を卒業した頃から、芽衣の自傷行為が始まったようです。こんなことを言っていました。
 桃香がレイプされたのよ。男を誘ったからレイプされたのよ。芽衣は桃香が憎かったの。だから芽衣はもう桃香を見たく無くなったの。居なくなって欲しかったの。だから手首を切ったのよ。でもどうしたら桃香が居なくなるのか分からなくて、傷付けたら桃香が居なくなってくれるのかも知れないと思ったの。そうしたら桃香も芽衣に仕返しをしたのよ。腕の内側をナイフで切ったの」

 佐久は、芽衣との出会いを話し始めた。
「20年前、自分と芽衣は、あるメーカーの倉庫で初めて出会いました。芽衣は倉庫で伝票を見ながら商品を整理していました。倉庫なら人間相手に仕事しなくて済むじゃないですか。自分も倉庫でアルバイトをやっていましたから分かるんですが、気が楽なんですよ。
 ある時、自分が芽衣に後ろからそっと近付いたんです。その気配に気付くと、芽衣はハッとして振り返り、急に過呼吸になって立ち竦んでしまいました。他に人は疎らだったので、自分が芽衣に取っては危険な男に映ったのでしょう。何故この女が自分を見て過呼吸になったのか、最初は分かりませんでした。その場は、ただ優しく芽衣に接して、彼女の目を見ながら優しく穏やかに話すようにしました。でも芽衣は、男の優しさを頭から信じていませんでしたから、走ってトイレに隠れてしまいました。芽衣は可愛かったし、そんな変わった所が自分の興味を引いて、自分は倉庫にアルバイトへ行く度に優しく芽衣に接して行くようにしました。彼女と初めて会話が出来たのは、出会ってから二週間ほど経った頃でした。仕事で分からない事が有ったようで、自分が優しく教えてあげました。それから、顔を合わせる度に声を掛けるようにして、それとなく誘ってみたんです。帰りに食事でもって。そしたら喫茶店で少し位ならって返事をくれたんです。芽衣とコーヒーショップでお茶したんですけど、最初は会話の言葉が出なくて、自分が幾ら喋っても彼女は何も話してくれないんです。そのうちその理由がはっきりして来ました。彼女は他人に合わせて話が出来なかったんですよ。自分だけの世界に嵌まったまま、20数年間を生きて来たんですから、仕方の無い事だったんです。自分は、芽衣とデートを重ねて行きました。その内、芽衣は自分が立ち直らせてあげたい。そう思うようになって行きました」
 洋祐は、芽衣の父親に10数年間に及ぶ性的虐待をされた事から来る、彼女の不思議な精神構造が全く理解出来なかった。それどころか、自分の社会経験の希薄さを嘆いたが、佐久に本音を言うことも儘ならず、島野の替わりを努めることに必死だった。
「彼女と父親との関係はどうなりましたか? 未だ続いていたのですか?」
 佐久も、人生経験の浅い洋祐に話して理解できるとも思っていなかったが、ここは、自分の言った話だけでも覚えて貰って、佐久の理解者を一人でも増やしたいと言う気持ちがあった。
 佐久の抑揚のない声が、また聞こえて来た。
「20歳くらい迄続いていたようです。幼少期から20歳まで、父親からずっと性的虐待を受けて育って来たんです。可哀想に、芽衣は桃香が憎かったんだ。あんなことを平気でやってのけるんだから。芽衣は自殺なんて事はこれっぽっちも思っていなかったんですよ。芽衣は桃香に殺意を持ったんだ。桃香を抹殺したかったんだ。それで、電車に飛び込んだんですよ。その引き金になったのが施餓鬼なんだ。あの男だけは許せない。自分が隊費を集めていたのを施餓鬼は知っていたんだ。今になってその責任を追求して来るなんて」
 洋祐は、佐久に何と声を掛ければ良いか分からなかった。佐久を乗せた洋祐の車は、途中から降り始めた小雨の中を静かに迂回して佐久家に向かった。

 長尾の死亡事故の数日前、伊土は本社を訪れていた。彼は、サラ金から数年に及ぶ多額の借金が有った。アパートの家賃も滞納が続いていた。警備会社は金のトラブルには煩いところであった。在職中に金銭トラブルを起こすと、二度と警備の職には着けない。その事が頭に有った伊土は、給料アップで事態を解決しようと本社訪問をしたのであった。
 その時、伊土を応対したのが施餓鬼専務だった。当初施餓鬼には見当の付かない話だったが、伊土は、隊費の中の自分の金を返すように佐久に言って欲しいと、専務に懇願した。施餓鬼専務は伊土の話を興味深く聞いていた。そして伊土には適当な返事で済ませて帰し、いつか隊費を我物にしようとチャンスを狙っていたのだった。

 翌日の火曜日、洋祐は警視庁本庁に呼ばれ、柳沢警部から芽衣の飛び込み事件の内容を聞かされた。柳沢警部は、全く聞いていない隊費が事件の核心に有ったことを憤った。しかし、これは故意に隠したのでは無く、ガードマンの独自捜査に寄る報告の遅延と言う事で本庁強行課と和解、伊土は強盗容疑で書類送検された。

ー続きますー

 芽衣の列車飛び込み事件の三日前、施餓鬼専務は、佐久を本社に呼んで話を切り出した。隊費の徴収は会社では公認していない。金は会社で預かり、社員の為に有効利用する。と言い出したのだ。施餓鬼専務は、金は伊土が長尾から強奪して、伊土の手に渡っていたことを知っていたが、隊費徴収の全ては、隊長である佐久の責任である事から彼を追求した。佐久は施餓鬼の話を黙って聞いていた。
 そこで佐久は、これから自分が社員に返して行くと反論したが、施餓鬼専務は、それを理由に島野派である佐久を懲戒解雇しようとした。そして施餓鬼は、佐久の女房である芽衣にも解雇の理由を詳しく説明して納得させたいと、三人で会う手配を佐久に言いつけたのだ。佐久は、施餓鬼の言葉を少し奇妙に感じたが、藁をもすがる思いで施餓鬼の話を呑んだのだった。

 二日後、大使線西新井駅前のコーヒーショップで、佐久は芽衣と施餓鬼との話し合いの場を設けた。
 当日の19時頃、三人がコーヒーショップに揃った。
 施餓鬼は芽衣に会うなり彼女の美貌を褒め称えた。しかし芽衣は、施餓鬼にあの忌まわしい父親と同じ臭いを感じていた。芽衣は落ち着きを無くし、小刻みに震え出し、この場から逃亡したくなった。だが暫くして、佐久の妻であると言う責任感にやっと辿り着き、施餓鬼にタイミングのずれた微笑みを見せた。
 施餓鬼は佐久が起こした、懲戒解雇にまで至ったあの隊費事件を、芽衣に含ませるように話し始めた。芽衣は下を向いたまま、時々頷きながら施餓鬼の話を聞いていた。それから半刻ほど経つと施餓鬼が本性を現し始めた。
「佐久さん、この話ね、ちょっとデリケートな話だから先に帰っていてくれないかな。奥さんには納得して貰えるように話しておくからね。貴男も未だ解雇が決まった訳じゃないんだ。今度からこう言う事が無いように奥さんにも話しておかないととね。奥さんにも是非協力して欲しいんだ」
 佐久は、解雇の話が保留に出来るチャンスであるかのように喜んで返事をした。
「分かりました、でも芽衣には優しく話してあげてください」
 佐久はそう言い残すと二、三度後ろを振り返りながらコーヒーショップを出た。佐久は、施餓鬼が芽衣に興味を持っているのでは無いかと不安に駆られたが、この場を去るしか無かった。

「奥さん、ご主人のやった事は会社では公認されていない事何ですよ。隊費を五年間も徴収して、隊員達には殆ど何も還元していないなんて、このままじゃ懲戒解雇になっちゃいますが、どうします?」
 芽衣は、施餓鬼の話を俯きながら黙って聞いていた。芽衣は、夫の佐久以外の男と二人きりで会った事が無かった。この時芽衣は、父親の直哉に怒られているような錯覚を持った。
「奥さん、聞いています?」
 施餓鬼は、芽衣がまるで反応しないので、芽衣の顔を覗き込みながら聞いた。
「奥さん、いや芽衣さんで良いですか? 良い名前だ。芽衣さん、うちの会社はね、他の警備会社とは違って、お給料も全然良いでしょ? 年収も他より100万円以上は良いはずですよ。佐久さんが解雇になって、そりゃ他の警備会社も沢山あるでしょうけどね、他社に再就職したら今のような暮らしは出来ませんよ。芽衣さん、佐久さんが解雇になっても良いんですか?」
 芽衣は、やっと頭を上げて施餓鬼に聞いた。
「どう言う事ですか? 私が何をしたら夫が解雇にならなくて済むのですか? 夫がこうなった理由の話だけを私にしたいのならもう結構です。私帰ります」
 芽衣は、施餓鬼と二人きりであるのが怖かった。施餓鬼には、何か独特の威圧感があり、芽衣の父親とイメージが重なるのが耐えられなかった。そして、芽衣次第で夫が解雇にならないで済むかのような施餓鬼の口振りを恐れた。芽衣はまた俯いて黙り込んだ。
「芽衣さん、何をすれば良いかですって? そう来ましたか。なら話は早いですよ。私はこの街が気に入りました。この街でちょっと飲みたくなった。芽衣さん一緒に飲みましょう。佐久さんの事は私に任せてください」
 施餓鬼は、納得の出来ていない芽衣を、夜の西新井界隈に連れ出した。
 佐久がコーヒーショップを出てから、既に二時間は経過していた。芽衣を心配する佐久の元には一本のメール連絡も無かった。居た堪れなくなった佐久は芽衣に電話をしたが、コールはするものの着信音停止になっていたのか彼女は出なかった。コーヒーショップにも連絡をしたが、それらしき二人は一時間前にチェックをしたと言う返事が返って来た。
「どう言う事何だ? もし芽衣に何か有ったら施餓鬼の奴を・・・」
 佐久は右の拳を震わせて言った。

 施餓鬼は、駅に近い居酒屋チェーン店の個室に芽衣と居た。酒が弱い芽衣を、佐久の解雇取り消しを餌に、無理やり誘った居酒屋の個室だった。
「さぁ芽衣さん、まずは貴女と私の出会いに乾杯しましょう」
 二人は、グラスビールで乾杯したが、芽衣はグラスに口に着けただけだった。
「芽衣さん、良いですか? 今日の主役は残念ながら貴女では無い。佐久さんの解雇を取り消すかどうか、この話ですから、主役は僕なんですよ。お分かりですね。お分かりならもっと飲んでくださいよ。僕がお願いしているじゃありませんか」
 施餓鬼は、芽衣にビールを強引に飲ませた。そして、今度はグレープフルーツ果汁を焼酎で割ったものを二杯芽衣に注文させて、乾杯と称して強引に半分ほど飲ませた。それを見た施餓鬼は喜んで、今度は芽衣にビールの酌をさせた。
「近頃は会社も忙しくてね。ほら肩がパンパンだ。腕だって張っちゃって。ほらここの所」
 施餓鬼は芽衣の隣に素早く移動すると、芽衣の手を取って彼の肩を触らせた。
「ね、張っちゃってるでしょう。あっ、芽衣さん、悪いんだけど肩から腕の辺りを、ちょっと揉んでくれないかな? 自分の手じゃ力が入らないんだよ」

ー続きますー

 芽衣は、命令されたような錯覚に陥り、鼓動が激しくなった。断ると、あの父親にされたように折檻されると思った。この時は佐久の女房と言うことも、ここに来た理由さえも芽衣の脳裏から消えかかっていた。
「そうだそうそう、芽衣ちゃんは揉むのが上手いね。誰に教わったの? じゃさ、今度は後ろに回って肩を揉んでくれないかな?」
 暫く肩を揉ませていた施餓鬼は、芽衣を席に戻して、また酒を飲ませた。酎ハイを二杯ほど空けた頃、芽衣の眼は半開きになって、息遣いが荒くなっていた。施餓鬼は携帯を取り出すと廊下へ出て佐久に電話を入れた。そして、奥さんが酒に酔った旨を伝えて、暫くすると電話を切った。芽衣には、佐久が一刻位で迎えに来るからと言う返事を伝えた。芽衣は、ホットしたようだったが、これは施餓鬼の芝居であった。
「さっ、芽衣ちゃん、出ようか。佐久さんには電話しておいたから。待ち合わせの場所に行こうか」
 施餓鬼は、芽衣の肩を抱えながら街を彷徨い、或るビジネスホテルを探し出した。
「おお、ここだ。佐久さんとここで待ち合わせたんだよ。ここはビジネスマンしかいないから大丈夫だよ。芽衣ちゃんが苦しそうなら、ちょっとここで横にさせてやって欲しい、と佐久さんに頼まれちゃってね。さっ、行こうか」

 桃香の死

 施餓鬼は、芽衣を抱えるようにそのビジネスホテルに入った。部屋の中は、シングルベッドが二つとバスルームにトイレだけの簡素な部屋だった。施餓鬼は、壁際のベッドのカバーを一気に下げると、芽衣をそこに寝かせた。
「芽衣ちゃん、大丈夫かな?」
 施餓鬼は、苦しそうに青ざめた芽衣のカーディガンを取って横に置くと、いきなり芽衣の頬に強い往復ビンタをした。驚いて目を覚ました芽衣は、頬に手を当てながら施餓鬼を見ると跳ね起きた。薄笑いを浮かべて、施餓鬼がゆっくりソファに座ると芽衣に言った。
「さぁ、これからが話し合いだ。佐久はダメな奴だ。会社の規則に違反して、金を隊員から五年間も徴収した挙句伊土に持って行かれた。その責任上解雇は必死だけど、それは芽衣ちゃん次第で旦那が今の会社で何とか働けるように、俺がしてやっても良い。まさか居酒屋で酒を飲んだ位で佐久が許されるとは思っていないだろうね? 芽衣ちゃんに何かして欲しいとはオレは思っていない。君は何もしなくて良いんだよ。ただ大人しく、じっとしていれば良い」
 施餓鬼は芽衣にそう言いながら、着衣を取って下着だけになった。
「暑くてね。芽衣ちゃん、いや芽衣、ちょっとこっちに来なさい」
 施餓鬼は、自分の座っているソファの前に芽衣を呼ぶと、芽衣を立たせ、そして正座させた。施餓鬼は大きく両足を広げていた。芽衣は震えた。この怪しい雰囲気に逃げ出したい思いが強くなって来たが芽衣は動けなかった。施餓鬼は、自信を得たかのように高飛車に振る舞った。
「さぁ芽衣、大体こうなったら女が男に何をするのか分かっているな?」
 芽衣は、涙で濡れた顔をゆっくり上げると、施餓鬼を見てこう言った。
「わかりました・・・」
 芽衣は、施餓鬼の前が大きく膨らんだ下履きを両手で静かに下ろした。すると、施餓鬼の両手が芽衣の顔面をそこに押し付けた。その瞬間「ギャーッ!」と言う悲鳴がフロア中に響いた。施餓鬼のあの部分は、芽衣いや桃香に食い千切られ、股間とソファが真っ赤に染まった。桃香は慌ててカーディガンを掴むと、血だらけの顔をそれで拭きながら階段を降り逃走した。施餓鬼は、のた打ち廻りながら、自分で救急車を呼んだ。到着した救急隊員は、この異変に警察に連絡、柳沢警部から佐久に電話が入った。その後、柳沢警部に事情聴取を受けた佐久は、全てを彼に話したが、芽衣は何時になっても帰って来なかった。
 佐久は芽衣の捜索願を出したが、捜索願も虚しく芽衣は、01時過ぎの最終電車に飛び込み、亡くなったと言う一報が入った。
 警察の話では、施餓鬼は隊員の解雇に伴って、幾度となく隊員の奥方に手を出していたそうである。数件の被害届が出ていたが、全て夫側の推測によるもので、奥方からは一件も出ていなかったのである。当の本人の被害届では無いので、警察も動けなかったと言うのが正直なところであった。
 この事件は、一連の「警備員の奥方連続自殺事件」として、所轄から本庁に移され、柳沢警部に託された。

「アメリカに主張だなんて、入院していたんだ。施餓鬼のアソコはもう再起不能だ。これも自業自得と言うものだな」
 洋祐は、事業部で平泉にそう言った。
「卑劣な男。本当に自業自得ですよね」
 二人が話している時に洋祐の携帯電話が鳴った。柳沢警部からであった。ちょっと確認したい事があるので本庁まで来て欲しいと言うのだ。

「警部、施餓鬼が原因なんでしょ、隊員の奥さん達が自殺をしたのは? 一件落着したんですよね。奴は、社会的にも制裁される。それで良いじゃありませんか。他に何か有るのですか?」
 洋祐が少し投げやりな気持ちでそう言うと、柳沢警部が有る物を見せて言った。
「いえね、芽衣さんが亡くなる時にこのパンダのアクセサリーをずっと握っていたんだよ。パンダって女性が好きなものでしょ? 持っていても不思議では無いんだけどね、金具の先が壊れているんですよ。これは、どこかに付いていたものを強引に引き千切ったと考えられますな。何か心当たりは無いかと思って一応聞いたんだけどね。もちろん旦那の佐久さんにも聞いてみましたが、心当たりは無いと言っていましたよ」
 洋祐は、暫く考え込んだ。そして心当たりに気付いたのか、目を丸くして警部に言った。
「あの時だ! 若葉駅で張り込んでいて、伊土が駅から出てきた時だ! あの時伊土のリュックにパンダがぶら下げてありましたよ。澤出も見ていたはずだ」

ー続きますー

 柳沢警部は、早速澤出の証言を取ると、洋祐の証言と一致、伊土の帰宅を待って外山警部補と共に深夜彼の家をガサ入れした。彼は、隊費強盗の件で懲戒解雇され、建築現場で働いていた。捜査令状を持って現れた柳沢警部を見て、伊土は焦った。
「伊土さん、俺たちが深夜に貴男の家へきた分けって、解るよな。亡くなった佐久さんの奥さんが、ずっと持っていたんだよ。アンタのリュックに吊るしてあったパンダの縫いぐるみをね」
 柳沢警部がそう言うと、伊土が反論した。
「そんな縫いぐるみなんて、世の中にはいくらだって出回っているじゃないですか? それが自分のだと言う証拠は有るんですか?」
 柳沢は、笑みを浮かべて言った。
「縫いぐるみの金具が有るでしょ? その金具が壊れていたんですよ。それで、貴男の黒のリュックをちょっと見せて貰えますかね?」
 伊土は、その後リュックを確認していないことにビクッとしたが、平静を装い部屋の隅のリュックを取ると、柳沢警部に手渡した。
 そして柳沢警部は、リュックを手に取ると丁寧に検証を開始した。
「うん? ここのところのチャックね、何かを吊るしてあったのかな? 誰かに強引に引っ張られたのか、生地が5センチほど破れているね? どうしたのこれ? パンダの縫いぐるみが吊るしてあったのじゃないのか?」
 伊土は黙秘した。すると、柳沢がまたリュックの底を見ながら言った。
「底の方に土やら草やらを擦ったような痕跡が随分有るね。これを調べて、芽衣さんが飛び込んだ辺りの土と検証しても良いんだよ。逮捕前の自供なら罪は軽くなる。今のうちにゲロした方が良いんじゃないのか? 伊土さん」
 伊土の抵抗はここ迄だった。そして項垂れた様子で喋り始めた。
「自分は、あの施餓鬼の悪行を暴いて、世間に知らしめてやる積もりだったんですよ。あの時、施餓鬼専務と芽衣さんがビジネスホテルに入って行きました。証拠として写真も撮ってあります。そして、20分ほど経って、芽衣さんがホテルから一人で飛び出して来ました。普通じゃ無かった。顔を服で隠しながら走って行きました。自分は、彼女を全力で追いかけました。そして、線路の付近でやっと追いついたんです。でもその時、彼女の顔を見て驚きました。顔中血だらけだったんです。施餓鬼に何かされたんじゃないかと思い、芽衣さんに聞きましたが、彼女は何も言っってくれませんでした。それで、自分は佐久隊長の部下で、一緒に働いていた事を話しました。芽衣さんは、ようやく落ち着いて大人しくなりましたが、何を聞いても黙ったままでした。仕方なく自分は、芽衣さんの血だらけの顔を写真に撮って彼女に言いました。〈この写真を佐久さんに見せますから、そしたら、芽衣さんに施餓鬼が何をしたか解るでしょう〉こう言うと、芽衣さんは、急に険しい顔付きになって〈写真を返せ!〉と言いました。そこでちょっと揉み合いになりました。自分は、カメラを取られないように、急いでリュックに仕舞いましたが、芽衣さんがそのリュックを激しく引っ張った時に、パンダの縫いぐるみが取れたんだと思います。手を振り払って彼女が歩道に倒れ込むと、芽衣さんはまた何処かに走り去ってしまいました。自分は、証拠写真も撮れたので、そのまま自宅に帰りました」
 柳沢警部と外山警部補は、やり切れない気持ちで伊土の話を聞いていたが、柳沢警部は伊土にこう言った。
「伊土さん、貴男の話は一応聞いておくよ。しかしね、芽衣さんが列車に引かれた理由がはっきりするまで、もう一度本庁でじっくり話を聞かせて貰おうか。いずれにしても、芽衣さんが最期に関わったのは貴男なんでね。しかし、施餓鬼と佐久さん夫婦が会う事を何で貴男が知っていたんだ?」
 柳沢警部の疑問に、伊土は素直に答えた。
「来月から隊費の一部を返そうかと思い、自分が佐久さんにメールをしたんですよ。そしたら、施餓鬼専務と芽衣さんと三人で明日西新井駅で会うことになったから、そのあとでまた連絡する。と返事が返って来ました。この時、施餓鬼が何か企んでいる、とピンと来たんですよ。自分は、カメラを持って17時頃から見張っていました。会う時間は施餓鬼の勤務終了後だから、大体の検討は付いていました」
「なるほどね、でも、君の撮った証拠写真が逆に芽衣さんを追い込んだ可能性も有るんだよ。そこのところ良く考えないとな。それから、芽衣さんが自分で飛び込んだのか、それとも貴男が関わっていたのか、その辺の話も聞きたいんでね、これから一緒に来て貰うよ」
 外山警部補は、伊土が撮ったと言う証拠写真とリュックを物証として押収、そのまま伊土は本庁に連行された。
 後日、芽衣が列車に飛び込む前の01時頃、現場前のビルの駐車場に一人で蹲っている芽衣を、一階のコンビニ店の店員が目撃していたとの証言が得られた。コンビニに深夜働いていたのは中国の留学生で、証言を得るのに時間が掛かったようであった。

 この情報は、僅か半日でマンダリンの関係会社全員の知るところとなった。施餓鬼の処分は、彼が退院するまで延期されたが、今まで解雇を恐れて口を噤んでいた者たち、すなわち自殺した奥さんの夫たち、自殺にまで行かなかったが、同じような境遇を持った夫婦たちは、会合を持って話し合い一斉に訴訟を起こす事となった。後日、この話はニュースで報道され、某週刊誌の一面にも事細かく掲載された。その後、各ユーザーからは、マンダリンセキュリティの契約解除が相次ぎ、東証の株価も大幅にダウンする結果となった。

 洋祐は、島野やスターたちが施餓鬼専務によって粛清された、魅力を失ったマンダリンに辞表を提出した。同時期にマンダリン関連会社の若手社員たちは、ライバル他社に次々と転職してしまった。残っていた年配の隊員たちが、現ユーザー会社の警備に一隊員当たり3日間、何と72時間連続勤務が普通となった頃、労働基準監督署から過剰勤務の疑いでマンダリンに臨検の手が入った。その後は、契約人数の半分も集まらない派遣隊が増え続け、マンダリン・セーフティガード本社では、中小の派遣隊の契約を多額の解約金を支払い解約、以降大派遣隊だけで運営する羽目に陥った。そして噂が噂を呼び、ユーザーの一方的な解約も続いて、マンダリンは、とうとう業界第4位に転落してしまった。

 マンダリン・セキュリティガードには、創業社長と言う者が存在しない。会社を愛する人間が存在していないのだ。五年に一度社長が交替するが、そこには愛社精神と言うものは露ほども無いのが現場である。五年間何事も起こさず退職する。これこそがこの歴代雇われ社長の目指すところなのである。無能な社長に成り代り、会社を支配しようと目論んだのが施餓鬼専務である。警備業界経験ゼロのこの人間は、会えば仕事中に鼻歌を歌いながら歩いている能天気な普通の中年である。全てに於いて「俺が一番」と言う性格と、陰湿な「支配欲」を以って社内改革と称し、優秀な社員を全て粛清して来た男だった。親会社は、子会社の役員を監督する責任を持つべきであろう。この施餓鬼専務に、全社員の人事権を掌握させていた事が悲劇の始まりなのだ。

 近く遠くに見えたもの

 長男が大学を卒業し、次男が大学四年生になった頃、日菜乃は還暦と言う言葉を朧げに感じ始めていた。毎日が同じ生活。それを、そんな倖せを望んでプリント結婚した筈だったが、還暦が見えて来て、何かやり残したような気持ちが、日毎に感じるようになっていた。
「良いのだろうか、このまま終わっても」
 日菜乃は、日中プリンの居ない時、真面目にそんな事を考えるようになっていた。安心安定が数十年も続くと人間はそれに麻痺してしまい、日菜乃もそれが普通になっていた。
「子供たちも成人した事だし、まだ50歳代の今を逃すと再び・・・」
 しかし、この倖せと呼ばれている家庭を、安定した状態を捨てられるのか。日菜乃は、其処まで考えるようになっていた。

ー続きますー

 彼女の思いは、遠い昔、付き合っていた洋祐に向けられていた。
 洋祐は30歳前に新宿でアクセサリー販売のアルバイトをやっていた。靖国通りに面した某ビルの一階には、他にも色々な店が出店していて、そこで洋祐はある女性と知り合い結婚した。一時は千住に所帯を持っていたが、性格の不一致から15年後に離婚していた。子供には恵まれなかった。
 日菜乃には10年くらいに一度、電話を掛けて近況を確認していたが、洋祐が35歳の時、日菜乃からプリンと結婚した事を明かされた。洋祐は絶句したが、10数年来もの点が線に繋がった瞬間でもあった。
「プリンは、やはり日菜乃が好きだったのだ」
 洋祐は椎名町のアパートで、受験勉強と称して写経のように国語の文字を写し取っていたところをプリンに知られ、プリンが内心驚いていたのと同時に、部屋に日菜乃が居ない事を確認したあと、すぐさま愛車のベレットで帰ってしまったその事に想いを馳せていた。
「日菜乃には、国語のあれは言うなよって言ったんだが、やはり言っていたのかも」
 洋祐はそう思った。

 お互いが50歳代中端を迎えた或る日の夜、洋祐の携帯電話に一本の電話が着信した。日菜乃だった。声を聞くのは実に15年振りであった。洋祐は驚いた。日菜乃も、洋祐に電話を掛けたのはこの時が初めてだった。電話の声を聞くと日菜乃であると瞬時に分かった。
「私よ・・・」
「あぁ、オレ。どうしたの?」
「今度ね、グループ展をやることになったのね。それで観に来ないかなって思って。銀座なの」
 日菜乃は、素直に洋祐に逢いたいとは言わなかった。自分が優位な立ち位置を崩す事をしなかった。洋祐は、自信が40歳の時に立ち上げた会社が、時代の流れから止む無く休業に追い込まれて、その時抱えた融資と設備資金の残債を返済して行くのに精一杯な時代が長く続いていた。そして、自分のやりたい平面の表現がこの年迄ずっと出来ないでいた。洋祐は必ず自分の、自分なりの表現を残したい。常日頃そう思っていた。そんな中での日菜乃の電話に懐かしさが込み上げて来た。
 洋祐には、日菜乃は、家庭生活の中で子供達が成人して「私は本当にこのままで良いのかしら」と実感して、止むに止まれず洋祐に電話を掛けたのであろうし、彼女が洋祐に電話をしたのは、これが初めてであったので、彼女の真剣さも感じられた。
 洋祐は、展覧会で日菜乃と会って驚いた。とても50歳代とは思えない美しさがあった。だが洋祐は、日菜乃が妙な行動を起こす事を止めさせるべく、皮肉な事を言った。
「昔は分からなかったけど、女ってさ、賞味期限があるんだね。はは」
 それを聞けば自分の年齢を考えて、馬鹿な行動はしないだろうと思った。そして今頭に有るのは、自分の表現媒体を確率することだけだと伝えた。日菜乃はその時、或る版画作家の名前を口にした。
「Aさんって知らない? あの人は素敵な人よ」
 何か意味ありげなその言葉に、洋祐は、夫婦生活を長年重ねていると忘れがちな事を、プリンの暖かさ、人に対しての気遣いの良さを語ってみた。

 一ヶ月後の或る夜、洋祐の携帯電話に一本のCメールが着信した。初めて見る電話番号だったが。開けて見るとプリンからのメールだった。恐らく日菜乃から携帯電話の番号を聞いていて、Cメールを送って来たのだろうと洋祐は思った。内容は「日菜乃が家を出た、何処に行ったか分からない。知っていたら教えて欲しい」と言う内容であった。洋祐は仰天したが、気を取り直して「今は知らないが、分かり次第教えるから」とメールを返した。
「とうとう、やっってしまったか・・・ しかし一体誰と。もしかして・・・」

 日菜乃は、自分たちが一番輝いていた頃の、最後に残された大事なものを守って行く事。それはプリンと結婚して、息子たちを20歳まで育て上げた事で貫徹されたと考えた。そして今は、その思いから一旦開放されたかったのであった。
 洋祐は、日菜乃がプリンの元から出た訳は誰に聞かずとも推測出来た。日菜乃には、その絶えず湧き出る革新的な思考を思い留まらせ、常識的な価値観に置き換えて行く事が必要なのだが、日菜乃のそんな思考は、何度思い留まらせても枯れる事を知らないだろう。結果、プリンにそれが出来なくなった時が、二人の別れる時ではないかと思っていた。

 日菜乃は、愛する二人の子供達とプリンがいる家庭には戻らなかった。父親の借金も完済したし、人並みに結婚をして二人の子宝にも恵まれ、子供たちも立派に成人してくれた。この四半世紀、良い夢を見させて戴いた。彼女はそう思った。しかし、日菜乃が産まれて来たのは只こう言う事だったのだろうか。50歳を越えて、もう良いかな、と思う事が多くなってきた。でも、何か自分が歩んできた世界、その中で感じて来たことを、自分はやはり表現したいのだ。この先、何処をどう生きても大袈裟なことにはならないと思うが、せめて命ある限りは私の好きにさせて欲しい。後悔はしない・・・ 日菜乃は強くそう思った。
 洋祐は、日菜乃に電話をしたが、彼女は出なかった。プリンの電話にも出ないと言う。何とか日菜乃と連絡を取りたいと願う洋祐は、彼女にCメールを送ったが、返事は来なかった。

 数日後洋祐は、最後に日菜乃と別れた、あの予備校の屋上を思い出していた。不浄な理由に自分達の心が左右されて、お互いがこれ以上近づくのを止めてしまった恋愛だった。
 洋祐は、あの懐かしい屋上に、あの時の景色に逢いたい想いが強く湧いて来るのを抑えられなかった。
 次の休日の夕暮れ時、洋祐は目白にいた。そしてあの懐かしい、白いコンクリート造りの建物に向かって歩いて行った。しかし、予備校は既に閉鎖されており、鉄線とベニヤ板で建物が括られて、一般の立ち入りが出来ないようになっていた。B4の案内板がベニヤ板に固定されていて、この学校の校舎は移転した旨の事が書かれていた。新しい住所も記されていたが、それは洋祐には意味が無かった。仕方なく校舎の周りを確かめていると、ベニヤ板の片方が剥がされている所が一箇所有った。彼は、そこから建物の中に入り、階段を上がってあの懐かしい屋上に出た。屋上の床に立って眼を閉じると、あの時の、愛し合っていた頃の二人、輝いていた頃の二人を思い出して詰まるものを感じていた。屋上の隅には階段の塔屋が有り、そのゴツゴツとした白い壁を何気無く触ろうとしたその時、壁に貼って有ったラミネートのプリントに、洋祐は眼を奪われた。

 ああ我が息子たちよ どうかこの私を理解して欲しい
 あなた達は 逞しく大きく成長してくれたわ

 私は 洋祐が好きだった
 でもあの時は どうしても無理だったの
 プリンと結婚した私の心に 嘘偽りは無かったわ

 時が流れて あなた達も生きて行くと言うことの
 本当の意味が分かると思うの

 自分の本当の愛に向かって
 走って行くことの大切さ

 私が自分を偽って生きている姿を
 あなた達には見て欲しくないの

 私は 今になってやっと気付いたの
 ごめんなさいプリン ごめんなさいあなた達

 あなた達も 真実の愛に巡り会う時が必ず来ると思うわ
 その時に 私があなた達に願うのは
 真実の愛を全うすること
 何かの理由で 本当の愛を見失って欲しくないの

 プリン あなたのお陰様で
 息子たちも大きく健やかに育ってくれたわ
 プリン 本当にありがとう あなた達もありがとう

 だから 今ね 今こそ本当に
 自分の愛に素直に 真剣に臨みたいの
 あなた達に 私の姿を見て 知って欲しいの
 一番大切なことを・・・

 洋祐は、急に込み上げて来た熱いものを、瞼を瞑って堪えた。しかし、堪えても堪えても堰を切って溢れ出た涙の雫は、床にぼたぼたと落ちた。
 その時、階下から誰かの屋上に上がって来る足音が聞こえて来た。「まさか」洋祐の両足は、金縛りに合ったように動かなかった。足音は次第に近づき、扉の前で止まると静かに扉が開かれ足音の主が現れた。洋祐は全身に鳥肌が立つのを覚えた。それは、美しさの変わらない日菜乃だった。日菜乃の瞳からも熱い滴が溢れ出ていた。
 そして、日菜乃が言った。
「あなた・・・ 長い間ごめんなさい・・・」
 洋祐と日菜乃は、互いに近づき合い手を触れ合った。洋祐は、夕暮れの屋上の群青のグラデーションの中で、再び二人が静かに輝き始めたのを感じていた。

(了)

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有難うございます。めったに見れないタヌキイヌの写真をどうぞ。
こんにちは「志水勝彦」と申します。小説、版画、陶芸をやっております。還暦を過ぎました。 以前は豊洲、西葛西に住んでおりましたが、現在は利根川と筑波山の間に住んで、太陽と大気の動きに一喜一憂しながら生活をしております。