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僕と小説との関わり方について〜回り道を辿って生きていこう〜

本はまあまあ読む方だと思っているけれど所謂文芸とか小説とか呼ばれるジャンルに偏重していて、そのほかの分野は仕事上やむを得ず読むほかは大好きな宇宙物理に関する本以外はあまり手に取ることがありません(だから知識も偏っているのです)。僕はあまのじゃくで教わることがあまり好きではないので何かについて指南するような本は読んでいられないし、かなりの偏見でしょうが、そうした本からは自分の血肉になるような知識は得にくいように感じています。例えば手早く恋について知りたいと思えば、その概略は恋愛論でもいいのかもしれないが、手触りや雰囲気は小説でなければ伝わらない、みたいなことを僕が敬愛する丸谷才一さんが書いていたけど、まったくもって共感するところです。(ただし恋はしてみるのが一番理解が深まるけど)

多分僕は、自分とは何かを知りたくて、小説を読んでいるのだと思っています。

小説は直接的に何かをどうしろと言ってはこない。あるがままの物語がそこには提示され読者(僕)がそれこそ自分勝手にどう解釈するかだけのもの。良い小説はきっと小説そのものが直接的に何かを諭したり語りかけることはなく、物語がただそこにあり、読者(僕)に深く考えることを促してくれる。そして今まで知らなかった心の有り様や、自分の中に存在してはいたけど言語化できなかった気持ちについて、考えさせてくれる。こうした物語の世界と自分との関係性を考えたときに、初めて客観的に、また鮮明に自己の姿が見えるのではないかと思っていて、だから小説を読むことは僕にとってとても大事なことで、生きていく上で欠くことのできないことの一つなのです。

もうひとつお話します。

ずいぶんと前のことになりますが、大学では文学を専攻していました。入学したときは哲学をやりたいと思っていたのですが、たまたま1年時に取ったドイツ語がほんとにたまたまいい成績だったこともあってドイツ文学と4年まで向き合うこととなりました。(僕の大学では2年次に専攻を決めることになっていました)今では文学とは全く関わりのない仕事をしているけれど、全身全霊でドイツの古今の作家たちの作品にのめり込むことはあの時でなければできない、かけがえのない経験でした。およそ文学が直接役に立つ仕事なんてそうそうはないのであって、僕の今の仕事もその通りだけど、学生時代に文学と真剣に向き合った経験はどんな分野であっても活きていないはずはない。それは文学が、作品を通して自己についてそして人間について学ぶ、とても根源的な学問だからです。

昨今では文学部不要論だとか、学習指導要領の改訂で高校の国語では「文学国語」という科目ができて選択科目になりさがる(2022年から)とか、なんだか文学は軽視されていて、寂しさと少しの危惧を感じています。少し昔とは違って、あらゆる場面で効率が重視される世の中になっていますから、回りくどいやり方は誰も望まず、最短ルートがいつもベストの回答とされがちですよね。そんな中では文学みたいな回りくどくて、実利に結びつきにくい学問は敬遠されているのかもしれません。

でも余りにも入り組んでしまった今の世の中が抱えている複雑さや不条理を解いていく力が文学には、物語にはあると僕は信じています。複雑さも不条理も人間が作り出すものであり、その人間の心に最も作用し、問いと答えを与えてくれるもの、それが物語だからです。

人生には限りがあるから、出会える本の数も有限です。偶然に出会うことができた物語を心の中で大切にしていきたい。僕はこの先も物語から何かを学んで何かを得て時にクエスチョンマークを頭の上に浮かべたまま、この世を生きていくでしょう。それを回り道というなら喜んで回り道を辿って生きていこうと思うのです。

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