気になる一文、どう訳す?絵本「おおきな木」より
前回のnote、世界的ロングセラー:絵本「おおきな木」を今ならどう読む?では、この絵本の全体について書いたのですが、今日はどうしても気になる一文があるので、ひとつの記事として書いていきます。
シンプルな表現ほど解釈の幅が広がるので、名作につながるんだろうな、と思うのですが、この絵本も例外ではないです。中でも、解釈が分かれるのがこの一文。
”And tree was happy…. but not really”.
※原文(英語版)だと、りんごの木のことを”She”と表現しているので、男性と女性が登場人物ということが明確になります
最近の版だと村上春樹さんが翻訳されていますが、その前の訳は、ほんだきいちろうさん。翻訳者さんが違うと、当然ですが訳も変わります。
”And tree was happy…. but not really”.
ほんだきいちろうさんの訳
「きは それで うれしかった・・・だけど それは ほんとかな?」
村上春樹さんの訳
「それで木はしあわせに・・・なんてなれませんよね」
春樹さんは、木は幸せでなかったと断定しているように思います。
この時のシチュエーションはというと、男性が「船でも作ってどこかに行きたいよ」と愚痴をこぼして、木が「そしたら私の枝で船をつくったらいいわ」と言って、ごっそり枝を切り取り去ってしまいます。その後の一文が例のもの。与えるものが全てなくなってしまった時の一文です。
ここで私が気になったのは、これまでは客観的にその状況を説明する文章だったのが、この場面では文章が意見を持って、木の気持ちをちょっと決めつけている感じがすることです。ちょっと一方的な印象があります。だって、木に直接聞いて「私は幸せではありません」と言われたのではないから。
関係性は一方だけでは生まれず両者あってのものなので、要求ばかりする男性ではあったけれど、会いに来てくれる人がいるというのは幸せなことだろうし、お願いされるというのもまた幸せなことなんじゃないかな。
男性の存在が、木自身の存在を認識させてくれるものなので、その上でのやり取りはどっちでもよいような気もします。両方が与え、与えられている、と言いましょうか。関係性を持てるその体験自体が楽しいと言いましょうか。
そして、木だって本当に嫌だったら(字の通り)身を投げ出して彼を助けなかったんじゃないかな、と思います。彼のことが好きで助けてあげたいから、彼女ができることをしてあげた。それはそれで木は嬉しかったんだと思います。
...思いの丈を綴ってしまいましたが、結論、読者に投げかけているスタイルで訳した、ほんださんの方が私は好きです。
あと思うことは、男性と女性の視点もありそうだと。作者のシェル・シルヴァスタインさん、ほんだきいちろうさん、村上春樹さんは男性なので、私とは違う視点を持っているのかな、とも思いました。どうですかね?
こんな風に、翻訳した人によって、また原文を読むことによっても解釈が大きく異なることは、やはりとても興味深いです!それも、シンプルで普遍的なテーマを扱い多くを語らない物語だからこそ、色々な視点が生まれるんだと思うと、こうして多くの国で長く読み続けられているのもうなずけます。
私もこれからもっと年を重ねて、またこの本を読んだ時に違う視点が生まれるだろうと思うと、今から楽しみです。
同じ人でも年齢やその時の状況によっても読み方が変わるのは、面白い体験ですね。やめられない 笑!
この本が好きな方は、また読んでみると感想が変わるかもしれませんね。まだの方は、とても心に響くので、是非手にとってみてください。
最後に、この本が好きすぎてDIYしたMacBookProです
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?