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つながる言葉、沖縄を歩く──『月ぬ走いや、馬ぬ走い』を読んで

F(東京都出身、1995年生まれ)

 大学生の頃、映画の撮影の手伝いで渡嘉敷島を訪れ、監督の親戚の方から沖縄戦について案内してもらったことがある。「この柱の傷は銃弾の跡なんだよ」「この道を歩いて自決のあった山の中に入っていったんだよ」。沖縄には、沖縄戦の痕跡がそこかしこにあって、歩けばその痕跡とふと出会う。『月ぬ走いや、馬ぬ走い』を読んで、沖縄の歴史と「ふと出会う」感覚を思い出した。

 群像新人文学賞を受賞して話題となった豊永浩平さんの『月ぬ走いや、馬ぬ走い』(講談社、2024年)は、14章の構成で沖縄の戦後を描いた群像劇だ。現代の少年の語りから始まり、次の章では戦中の兵士の語りになる。その次は現代の女子高生に戻りというように、ある時は現代、ある時は戦中、またある時はアメリカ統治下時代など、異なる時代の異なる14人の語りで沖縄の近現代史が描かれている。14人の語りは、同じ出来事や事件を語っているわけではないが、それぞれがゆるやかに繋がっており、全て読み通すと全体像が見えてくる仕掛けになっている(詳しくはぜひ読んでみてほしい)。

 このゆるやかに歴史が繋がっていく部分に、私はすごく共感した。特に、14の章の繋ぎ方。例えば、1章目で小学生がお盆の中日に海で兵士の幽霊に出会った直後に、2章目で戦中の兵士の語りになるのだが、1章目と2章目は次のように結ばれている。

兵隊さんは、私は七十八年前に死んだのだ、と言いました。兵隊さんは低いうめき声で、私は
 
今や、あらゆる肩章を喪失した単なる海の藻屑の一ト片に過ぎない。私は此の浜辺で永遠に戦果に囚われ、辱められる虜囚と成った。

『月ぬ走いや、馬ぬ走い』、8頁 

文章が繋がっているようにも読めるけれども、二つの章の間にある一行のスペースが切れているようにも感じさせる。全ての章がこのように結び付けられており、小説の中で現在と過去がゆるやかに、でも確実に繋がっていく。この歴史の繋がり方が、私にとっての沖縄にすごく似ていると感じた。いや、そのままだと思う。沖縄を知っていく度に感じるものが、この小説の中にあった。 

 あなたの沖縄のZINE vol. 1で写真家の上原沙也加さんを取材したことがある。その時、おもろまちの写真について少しだけ話を伺った。今では大きなショッピングモールが建ち、沖縄の一大観光地になっているが、そこはシュガーローフの戦いが起きた場所でもある。沖縄の歴史が自分達の日常と地続きなところにあることの一例として一瞬出てきた話だったが、そこから何となくおもろまちが気になって、去年の秋に行ってみた。それまでも何度か訪れていたが、私にとっては持ってき忘れたものを買い足すために寄る場所でしかなく、シュガーローフの戦いがあった場所だと意識して歩いたことはなかった。

 ただ、そう思って歩いてみても、渡嘉敷島のように目に見える痕跡は見当たらない。ショッピングモールの裏手にある階段の上に石碑はあるものの、それ以外に戦争を感じさせるものは見つけられなかった。しかし、その地では過去に何千人もの人が戦死している。後日、沖縄県立図書館に行き、おもろまちについて調べると、たくさんの銃弾が埋まっていて、開発する際に相当苦労したと知った。目に見えなくても、そこには沖縄戦の爪痕がある。ただ歩いているだけではわからなかったが、ゆるやかに、確実に歴史と繋がっているのだと感じた。

 沖縄について学んだり話したりしていると、ふと歴史が顔を出す。あなたの沖縄のコラム「心霊写真とユタと」では、家で心霊写真が撮れてしまった筆者が、母親に「まあ、沖縄なんて激戦地なんだから、映っちゃうことくらいね」と言われたと書いている。心霊写真が撮れて沖縄戦を思い出すような、現在に過去が重なる瞬間。あなたの沖縄のメンバーと話していると、こうした話がよく出てくると思う。 

 『月ぬ走いや、馬ぬ走い』は、現在と過去の繋がりを、若者世代が感じる感覚で描いている(と少なくとも私は感じる)。この本を読んで、今はまだ見えていない過去との繋がりを知りたいと思った。そうして、沖縄に対して自分ができることを考えていきたい。

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