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主任の長靴

春先から勤めはじめた事務所から、堤防を走る二車線道路を越えて、ガードレールを跨ぐと、丸刈りの土手が河川敷に向かって広がっていた。土手を下りきった先には、テニスコートとグランドゴルフ場、そのまた先には、特急列車が長い鉄橋を渡っている。

仕事が終わってからすぐ、この土手に腰をかけたのだが、夏だというのに、あたりは、もう、薄暗くらい。

両手で持ったゲーム機のディスプレイが、ぼくの顔を照らし、何の取り柄もない縁なしメガネにゲームの映像を反射させながら、細くしょぼくれた口と鼻を薄暗がりの中に浮かびあがらせていた。

「うひゃ!」

突然、右の首筋に氷点下のアイロンを押し当てられたような冷たさを感じた。レモンの雫のような水滴が、一筋、二筋と、黄緑色の作業服の襟を伝って、背中へと流れ込んだ。

見上げると、そこには黄緑色の作業服を着た鈴江主任がいた。

目を細め、ぼくを見つめている主任の右手には、頭をつままれた350mlの缶ビールがあった。

「ねぇ、今日も来てたの?」

主任は、少ししゃがみながら、そのいたずらな缶を、ぼくの視線をさえぎるように、ゲーム機にかざした。

「お疲れ様。」

「ありがとうございます。でも、じゃまなんですが。」

ぼくは、ゲーム機を一旦ひざの上に置くと、缶を受け取り、転がらないように右の大腿骨あたりにもたれかけさせた。

「じゃま!じゃまは、余計でしょ。ふつう『ありがとうございます。』だけだよね。」

と言いながら、主任は、ぼくの右側に座った。

スニーカーを履いて体育座りをしているぼくの右に、長靴を履いて両足を伸ばした主任がいる。

ぼくはもう一度、

「ありがとうございます。」

だけ言うと、また、ゲーム機を手にした。

ディスプレイの中では、

かわいい動物のキャラクターたちが、そこらじゅうを、駆け回っている。

そう、あれは、初めてこの事務所に来た日のこと。

本庁で辞令交付式があった後、リクルートスーツ姿のぼくを、黄緑色の作業服を着た主任が、黄色い車体に黄色のパトランプが付いた道路パトロール車で迎えに来てくれた。車の左右の扉には、「神森土木事務所」と書いてある。

「驚かせたかな。この車しか残ってなかったんだ。歩くのがいやなら、さっさと乗って。」

主任に脅されて、ぼくは、助手席に飛び乗った。

鈴江主任技師、28歳、女性。未婚か既婚かは不明。そんなことより、窓を全開にして運転している主任の横髪は、シーズーの耳にそっくりだった。

事務所に到着して、ひと通りのあいさつを済ませたぼくは、主任に連れられて、事務所の中を見て回った。執務室、コピー室、倉庫、ロッカー、トイレ。

最後にやって来たのが、ここ、裏口の長靴置場。長方形の大きな木箱を、長靴がちょうど一足入る幅と高さで、縦横に板で仕切ってこしらえてある。ひとつひとつの区画の上には、テプラで名前が貼ってあった。主任の左がぼくの場所。

26.5

ぼくの長靴だ。
さっそく履いてみることにした。
新品の長靴は、黒光りして、外の街路樹を映し出している。

ぼくは、右のかかとで、左のかかとをトントンとたたいてみせた。

「乾杯みたいだね。」

主任も、まねして、土にくすんだ長靴をトントンとかかとでたたいていた。

ぼくは、ぼんやり眺めていたゲーム機から目を離すと、主任の動きをそっと追いかけた。

主任は、両手を後ろの地面について、長靴をはいた足をまっすぐに伸ばしてる。つま先を上にした両足の長靴が、内側に向けておじぎすると、ちょうど両足の真ん中あたりで、ごっつんこして、また、もとに戻った。

ぼくは、主任に気づかれないうちに、また、ゲーム機に目を戻した。

ディスプレイの中では、

新しい友達が飛び出してきて、動物の仲間たちがどんどん増えていった。

そう、あれは、うだるような暑さの日だった。

主任に、道にできた穴ぼこを埋めに行こうとに誘われて、ぼくは、黄色いパトカーに飛び乗った。
運転するのは、やはり主任。クラウンを改造した車は幅が広いのに、細い道でも対向をうまくかわしてスイスイと走る。
冷房の効いた車内は退屈で、何を話したらいいかわからないぼくは、気づかれないように主任をチラ見した。シーズーのような横髪、真っ直ぐに整えた襟、胸元に垂らした名札、ポケットの付いた作業ズボン、アクセルを踏む長靴。

「何見てるのよ。ほら、地図を見て、道を覚えなさい。」

主任に叱られた。

現場に着くと、直径50cmくらいの穴ぼこが、片側車線の真ん中に大きな口を空けて待っていた。

「見ておいてね、こうするのよ。」

主任は、車の後ろから、レミファルトと呼ばれるアスファルト補修材の入ったセメント袋みたいな袋を担ぎ出してきて、穴ぼこの横に置くと、平スコップで、袋の中に隠れているまっくろくろすけのような粒をすくい出しては、穴ぼこに掘り投げていった。穴ぼこが、レミファルトでいっぱいになると、上から白い石灰を撒いて、スコップの背で、ポンポンと叩いていく。すると、あら不思議!レミファルトが固く締まってくるではないか。

レミファルトで覆われた穴ぼこを、ぼくは、長靴で、ポンと踏んでみた。周りのアスファルトと変わらない。

「主任、これ、すごいですね。魔法みたい。」

と驚くぼくに、

主任は、

「こんなの誰にでもできることなのよ。これから、嫌というほどやってもらうからね。まあ、がんばって。」

と、 ひたいに落ちてきた汗を、真っ黒になった軍手で、拭いながら答えてくれた。

事務所に帰ると、裏口の水道で、長靴を洗った。

履いたままの長靴に、蛇口から伸びているホースで水をかけ、洗車ブラシのようなブラシでゴシゴシこする。洗い上がると、上靴に履き替えて、右手に主任の長靴、左手にぼくの長靴を持って、日の当たる場所に乾しに行った。

ぴかぴかの長靴が、かかとをくっ付けながら、4本仲よく並んで、日向ぼっこをしてる。

お日様で熱くなった長靴を思い出しながら、ぼくは、ディスレイから顔を上げて、主任を見やった。

主任は、両足の長靴を合わせたまま、両ひざに軽く手を置いて、

「暗くなってきたねー。」

と、ひと言うと、ずっと、向こう岸を眺めている。

ぼくは、また、ゲーム機に目を落とした。

ディスプレイの中では、

道や川が、まるで、クレパスで描かれたように、自由自在に描かれて、ぼくの町が、少しずつできあがってきた。

そう、あれは、梅雨明けすぐに台風が来た日のこと。

神森土木事務所管内に大雨警報が発令されたその日、主任とぼくは、当直で夜通し事務所に残っていた。窓を叩きつけるような雨と風にびくつきながら、刻々と変わる川の水位をパソコンで監視していると、警察から一本の電話が入ってきた。

「県道上森下山線で倒木があり、道をふさいでいます。現在、警察で通行止めをしているので、至急対応をお願いします。」

電話を受けたぼくは、主任に

「県道上森下山線といえば、山の中を走ってる一車線の県道でしょ。そんな道、誰も通らないから、夜が明けてから、業者に頼んだらいいですよね。」

と言うと、

主任は、ぼくをにらみつけて、

「何をバカなことを言ってるの。あの山の上には、一人暮らしのおばあさんがいるのよ。あの県道がふさがったら身動きとれないじゃないの。明日じゃダメなのよ。」

と言いながら、窓際のフックに引っ掛けてあった雨合羽をもぎ取って、さっと身に着け、車庫に向かって一目散に走って行った。

「主任、待ってください。」

ぼくは、慣れない合羽に足をもつれさせながら、外に出た。正面から顔を叩きつける激しい雨で、眼鏡が水滴だらけになって何も見えない。やっとのことで、黄色いパトに飛び乗った。

「行くわよ。」

主任は、黄色いパトランプを回すと、長靴でアクセルを勢いよく踏みつけた。
前から襲って来る雨のせいで、ワイパーをフル回転にしても、少し先しか見えない。降りしきる雨の中、細い山道を右へ左へとくねりながら、やっとのことで現場に着いた。

現場には、警察のパトカーが先に到着していて、交通規制を行っていた。

「ご苦労様です。神森土木事務所です。」

パトカーの右側を通り過ぎるとき、助手席の窓を少し開けただけなのに、大量の雨が飛び込んできた。

「早く閉めて。」

重いハンドルを急いで回して、窓を閉め切った。

しばらく走ると、ヘッドライトに横倒しになった木が映し出された。

「そんなに大きくないな、二人でなんとかなるよ。」

主任は、外に飛び出し、前から襲って来る雨に押し返されながらも倒木のそばにたどり着いた。

「ナタを持ってきて。」

主任に言われるままに、ぼくは、ナタを2本持って、倒木に向かった。

「まず、枝を払って転がりやくするよ。幹だけになったら、二人で転がして、崖の下まで落としてしまおう。さあ、枝を払って。」

主任は枝を打ち払っていく。ぼくもまねをして打ち払う。合羽は着ているけれど、雨は容赦なく背中を叩きつけ、風は、合羽の帽子を吹き上げる。髪の毛は、プールから上がった時のようにびしょ濡れで、眼鏡は水滴だらけになった。

ようやく枝を打ち払うことができた。

残ったのは、丸裸にされて、所々に枝の切り口を残した生姜のような幹だった。

「さあ、これを崖から落とすよ。」

主任とぼくは、右手を前の切り口に、左手を後ろの切り口にかけて、

「せーの。」

で、幹を前に押し出した。

道路には、滝のように雨水が流れている。滑ろうとする長靴をなんとか踏ん張って、ゴロンと一回転。また、一回転。幹は、少しずつ崖に近づいて行った。

「せーの。」

ゴローン。

「せーの。」

ゴローン。

「せーの。」

で、幹が、崖から落ちて行った。

主任の帽子は外れ、髪はずぶ濡れになっていた。ひたいにくっついた前髪を、軍手の背でかき上げて、人差し指で、鼻についた雨粒をぬぐうと、主任は、疲れ切ったぼくの顔を見て、

「さあ、帰ろっ。」

と、元気に言ってくれた。

車に向かうぼくたちの長靴は、歩くリズムに合わせて、ちゃぽちゃぽと音を立てた。

現場を照らし続けてくれたパト車は、黄色のランプを回して待っている。

主任は、パト車の屋根を支えにして、片方ずつ長靴を脱いでは、逆さにした。

じゃぼっ。

じゃぼっ。

ぼくも、まねをして、

じゃぼっ。

じゃぼっ。

長靴から大量の雨水がこぼれ落ちた。

「どうしたの、ゲームばかり見て。何か言ったら。」

主任のひと言で、ゲーム機から目を上げた。

「この川のね、どこかで、毎週、花火が上がるんだって。もしかして、今日、上がるかなと思って来てみたの。」

主任は、左手にひっかけたコンビニの袋から、別の350ml缶を取り出した。

主任の長靴が、ぼくのスニーカーにごっつんこしたそうに、少しずつ外側に向きを変えると、ぼくのスニーカーも、主任の長靴にごっつんこしようと、外側に向き始めた、その時、主任のスマホが鳴りだした。

「ごめんね。」

主任は、腰を上げ、ズボンのお尻についた草を払いながら、スマホの相手と二言、三言、交わすと、

「すぐ近くで交通事故だって。ガードレールがひん曲がっちゃったみたい。ちょっと行って来るね。あっ、これも飲んどいて。また、乾杯しようね。」

と言って、ぼくにもう1本の缶を手渡したかと思うと、重い長靴をものともせずに、ガードレールを跨いで消えていった。

「主任は、当直だからノンアルで乾杯のつもりだったんだ。」

ぼくは、もらった缶を草むらに立てると、また、ゲーム機に目を戻した。

「あれっ!」

ディスプレイを見ると、

シーズー犬の女の子が夜空を指さしながら、こっちを向いて、しきりに何かを言おうとしている。

「どうしたのかな。」

と、ディスプレイを見つめていると、

「あっ!」

夜空いっぱいに花火が打ち上がっている。

「わぁ、きれいだ。」

パーン、ひゅる、ひゅる、ひゅるー、シュー。

頭上から、本物の花火の音が聞こえてきた。

見上げると、大きな花火が、何発も、何発も、夜空に向かって打ち上がってる。

ズドーン、ひゅるるるる。バーン。

バーン、ひゅーん。

ズドーン、ズドーン。

ぼくも、缶ビールのタブをひいた。

プシューと、勢いよく飛び出す泡。

「主任に乾杯!」

(おわり)

サポート代は、くまのハルコが大好きなあんぱんを買うために使わせていただきます。