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恐怖が遺伝する……エピジェネティックスの世界

※初出は月刊ムー。この話は面白いので、機会あれば深掘りしたい。

 恐怖が遺伝する……2013年12月1日、ネイチャーニューロサイエンス誌に掲載された論文「Parental olfactory experience influences behavior and neural structure in subsequent generations (親における嗅覚経験は次世代の行動と神経構造に影響する)」は衝撃的な内容だった。なんと親が体験した恐怖が精子の遺伝子を変化させ、恐怖が遺伝するというのだ。しかも子供どころか孫の世代にまで!
 実験自体はシンプルである。エモリー大学のブライアン・ディアスとケリー・レズリーはマウスにアセトフェノン(桜の香りに近い)を嗅がせ、その度に足に電気ショックで痛みを与えた。やがてマウスはアセトフェノンを嗅いだだけで、恐怖行動を起こすようになる。
 これまでの常識であれば、親に条件付けをしても、その子供に条件反射が伝わることはなかった。ところが条件付けマウスが生んだ子供にアセトフェノンを嗅がせると、恐怖行動を起こしたのだ。しかもその子、つまり最初のマウスの孫までアセトフェノンに反応したというのである。
 条件反射といえば、エサの度にベルを鳴らすと、ベルの音を聞くだけで犬がヨダレを流すようになったというパブロフの実験が有名だ。エモリー大の実験に従えば、ベルの音でヨダレが出るようになった犬の子供は、生まれながらにしてベルの音を聞くとヨダレが出るということになる。そんなバカなことがあるのか?
 子供だけであれば、受胎後に母親のストレス反応が胎児に影響した可能性がある。しかし孫までが生まれついて反応するのだ。今まで知られていなかった遺伝的な仕組みが生物にはあると考えるのが自然だ。
 
 人間も遺伝以外の要因が細胞に影響するらしいことは、イギリスの疫学者デビット・バーカーが発見した。
 第二次世界大戦末期の1944年冬、ドイツ軍に包囲されたオランダは飢餓状態に追い込まれ、2万人以上がなくなった。チューリップの球根を掘り起こして食べるほどで、当時の摂取カロリーは1日平均1000キロカロリー以下だったという。大戦末期の日本も飢餓状態だったが、それでも配給ベースで1448キロカロリー。一般的な成人男性の基礎代謝は1500~1800キロカロリーとされる。基礎代謝による消費カロリーを下回った状態が続くと人は餓死する。オランダの食糧事情がいかに過酷だったかがわかる。
 食糧事情は過酷でも、赤ん坊は生まれる。母親が飢餓状態で生まれた子供は誰もが小さかったが、以降は食糧事情も改善し、子供たちは問題なく成人になる。ところが50年後、奇妙なことがわかる。この飢饉の時期に生まれた子供が成長してから、糖尿病や高血圧、心筋梗塞などの生活習慣病が急増したのだ。
 バーカーによると、これは胎児の時に体のシステムが低栄養状態で効率よくエネルギーを取り込むように最適化したためで、通常の食事では摂取カロリーが高すぎ、病気になってしまうらしい。
 しかし幼児期の環境が成人後数十年経っても、まだ影響するというのはどういう仕組みなのか?
 東京大学 分子細胞生物学研究所 白髭克彦 教授と岡田由紀 特任准教授に話を聞いてみた。
「環境に適応して後天的に遺伝子が変化するというのがエピジェネティックスという研究分野で、欧米では5年ほど前から注目されています」(岡田)
 エピはギリシャ語で「後で」「上に」といった意味だ。ジェネティックスは遺伝子学のこと。後天的遺伝学である。単に学問分野を指すだけではなく、現象を指して、エピジェネティックに変化する、といった使い方もする。
 環境が生物の形質にどのように影響するか、それは遺伝するのかどうか、そのメカニズムは何かを研究するわけだ。
 マウスに恐怖が遺伝したという話はエピジェネティックスの分野である。
「あの実験では、マウスを痛めつけながら桜の花の匂いを嗅がせたでしょう? すると桜の花の匂いに対して、嗅覚の遺伝子がすごく発達するんです」(白髭)
 生き物の設計図であるDNAには、不用意にスイッチが入らないように、特定の遺伝コードを読み取らせない機能があるのだそうだ。DNAのメチル化という。
「痛めつけられたオスのマウスの精子を調べると、嗅覚細胞へのメチル化が起こらなくなっている。そのため、その子供は最初から桜の花の匂いに対する嗅覚細胞が発達して、より感受性が高まっていたという研究なんです」(白髭)
 環境が遺伝子のスイッチを入れるというよりも、環境によって、スイッチを入れさせない機能(=メチル化)が失われるというのが遺伝子の特性らしい。
「女王蜂もエピジェネティックスの例ですね」(岡田)
 女王蜂と働き蜂の遺伝子は基本的に同じだ。しかしロイヤルゼリーを与えられることで、DNAのメチル化が行われず、女王蜂へと変化する。
「イナゴも環境に影響されます」
 イナゴの一種、サバクトビバッタは生育密度が低い時は緑色をした普通の姿だが、数が増えて密度が高まると群生相という黒い姿の子供を産み始める。食糧が不足するために、長距離を飛べる姿に変わるのだ。そして大移動を始め、道行きにある植物をすべて食べ尽す。
「子供や孫は食糧があるので元の姿のバッタが生まれそうなものですが、しばらく群生相のバッタが生まれ続けます。だんだん色が薄くなって元のバッタに戻る」
 ミジンコは敵が多いと頭が大きくなってヘルメット状になる。
「敵がいない環境でも、ヘルメットのミジンコから生まれてくる子供は頭がヘルメット状なんです」

 2001年12月22日、世界初のクローン猫が生まれた時、元の猫と同じ猫が生まれると誰もが思っていた。しかし生まれた猫は元の猫とは毛色が違っていたのだ。
「毛の色はX染色体上にあって、細胞ごとにランダムに発現するしないが分かれます。そのパターンがクローンでは受け継がれなかったということです」(岡田)
 母親に遺伝病の遺伝子があっても発症せず、子供だけ発症するという場合も同様に、メチル化を外す要因が環境にあったということだ。
「シャムネコも面白いですよ」(白髭)
 シャムネコ?
「皮膚の色素の発現が、温度感受性で左右される」(白髭)
 シャムネコは手足と顔の周りが黒く、体全体はシルバーだ。
「体は体温が高いので、黒色の色素の発現が抑制されていて、足の先は温度が下がってくるから黒くなる。メラニン色素が体温の低い末端部だけで生産されるんですね」(白髭)
 シャムネコは寒いところで生まれると色が黒くなる? 酵素の発現が関わってくるので、厳密にはエピジェネティックではないが、面白い。

「モデルさんのように、すごく体重を絞ると戦時下のオランダと同じことが起きる。子供が低体重で生まれてきて、あとで糖尿病になる」(白髭)
 胎児の時に低栄養状態にさらされると、インシュリンの受容体が鈍くなり、血糖値がきちんと上がらず、満腹感が得られにくくなる。だから食べ過ぎて糖尿病になってしまう。
「小さく生んで大きく育てるというのは、よろしくないんです」(岡田)
 お母さんはちゃんとご飯を食べないとダメなのだ。
「子供がお腹の中にいると母親の環境が影響します。子供は胎内にいる時から生殖細胞ができているので、生殖細胞も影響を受ける。だから三世代が同時に影響を受けるんです」(白髭)
 酒やタバコの影響は、母親だけではなく、胎内の赤ん坊、さらにはまだ生まれてもいない孫にまで及ぶということだ。
 胎児の時に環境に影響され、遺伝子の発現が変わってしまうことを胎児リプログラミング仮説(頭文字からDOHaD)と呼ぶ。日本でも研究会が立ち上がり、医者や文科省、厚労省も含めて研究を進めている。
「父親から何が伝わるのか? 母親から子供の場合、胎児の時に胎内で母親と同じ環境にされされている可能性があるので、それが遺伝とは一概に言えない。でも父親の場合は精子しか出していないので、遺伝だといえるでしょう」(白髭)
 線虫はウイルスに感染すると、小さなRNAを放出してウイルスを撃退する。しかし中には攻撃用のRNAが作り出せない変異型もいる。
「健康な野生型の線虫と変異型を掛け合わせると、攻撃用RNAを作る個体と作れない個体が生まれます」(岡田)
 ところが攻撃用RNAを作れない個体なのに、ウイルスを撃退する個体が現れたのだ。彼らは攻撃用RNAを作る遺伝子を持っていないのに、攻撃用RNAでウイルスを撃退していた! どういうことか? どこから彼らは攻撃用RNAを手に入れたのか?
「おじいさんの精子を介して、攻撃用の小さなRNAを体内に取り込んでいたんです」(岡田)
 おじいさんが病気にかかったことがあれば、たとえその孫に免疫システムがなくても、免疫だけが受け継がれる……不思議な話だ。
「寿命でも同じようなことがあるんですよ」(岡田)
 同じく線虫だが、WDR-5遺伝子が欠損すると寿命が延びる。同じように野生型と掛け合わせると、遺伝子は野生型なのに寿命が長い個体が生まれてくるのだ。
 ……線虫だから、という気もしますが?
「マウスの場合でも同じケースがあります」
 高脂肪食を与えたオスのマウスの子供を調べると、生まれつき膵臓のインシュリンを出す機能が弱いのだそうだ。
 生活習慣病は遺伝する! 人間での検証はまだだが、もしだ。同じ哺乳類として、もし同じことが起きるとすれば、中年期の不健康な生活を送っている男が父親になると、子供は生活習慣病にかかる率が高くなる?
 そう簡単にはいかないらしい。高齢になると精子がつくられる際にエラーが起きやすくなり、そのせいで病気になる可能性もあるからだ。お母さんの高齢出産ばかりが問題視されるが、お父さんが高齢になっても問題は起きるのである。
「お父さんが30代半ば以上になると、お子さんが自閉症になる率が上がっていくという研究もあるんですよ」(岡田)
 自閉症児の中には天才児がいる。だから人類が進化のためには高齢出産が増えるのはいいことじゃないか? という研究者もいるらしい。
「年をとってからも子供ができるということは優秀な遺伝子を持っているということでもありますから。そういう意味では悪い選択じゃないでしょう?」(岡田)
 かもしれないですけど‥‥。
「他にもお父さんが胎児に影響する例はありますよ」(岡田)
 妊婦は葉酸を摂れと言われる。葉酸が不足すると子供の脊髄に異常が出るからだ。
「お父さんが葉酸不足でも同じように胎児に異常が出ることがわかっています。ただ死にそうなほど葉酸が不足した場合らしいですが」(岡田)
 自殺遺伝子も見つかっていると岡田先生。
「自殺した人としなかった人の遺伝子を比較したところ、メチル化している部分に違いがあったということです」
 自殺しなかった人ではメチル化しているDNAが、自殺した人ではメチル化されていなかったのだ。つまり自殺遺伝子は誰でもが持っているが、通常では読み込まないようにメチル化されている。しかし環境によってメチル化が解除され、自殺遺伝子が発動するらしいのだ。

 エピジェネティックスはダーウィン以来の、自然淘汰と適者生存による遺伝のメカニズムとは別モノだ。ダーウィン学派は、遺伝子は突然変異によって書き換えられるとする。サイコロを振るようなものだ。偶然、遺伝子が組み代わり、キリンの首が伸びた。首の伸びたキリンは首の短いキリンよりも高い木の葉を食べることができるなど、生存が有利だった。だから数が増え、首の長いキリンだけが現在まで生き残った。遺伝子が書き換わるのに、個体の経験は関係がない。
 これに対して、獲得形質の遺伝、ラマルクが唱え、ダーウィン学派によって否定されてきた遺伝は考え方が違う。環境の変化により、草原の草が枯れるなどして高い木の葉を食べざる得なくなったキリンの祖先は、首を伸ばそうとし、若干だが首が伸びた。その形質が遺伝し、何世代もかけてキリンの首は伸びて現在に至った。
 エピジェネティックスはラマルクの考え方に近い。環境が遺伝子そのものに影響すると考えるからだ。
 しかし近いが別物だと白髭先生。
「進化は種自体の変化ですが、エピジェネティックスはそんなに長い世代の話じゃないんですよ。環境の変化に短い期間で生物が備えるというもので、それが固定されるかというと別の話です。DNA自体の変化となると、やはりダーウィンになってしまう。ラマルクはあるかもしれないけれど、短い期間での話で、永続的に続いていくとなると話は違ってきますよね」
 あくまで3世代程度での話らしい。
 進化ではなく、環境に応じて変化した形質が遺伝する。では何がエピジェネティックに変化するのか? 胎児リプログラミング仮説から人間の暴力性を捉える動きもある。
「17カ月以前の幼少期に虐待を受けると攻撃的な性格になる。なぜかというとインターロイキン6という炎症に関係する物質の遺伝子発現が抑えられるため。虐待によってメチル化が進み、インターロイキン6の量が抑制されると攻撃性が増す。メチル化が解除されれば、本来のおだやかな性格に戻るんです」(白髭)
 胎児リプログラミング仮説では人工授精もテーマだ。人工授精は精子を卵子に人工的に針状のピペットなどを使って注入する。その結果、受精卵にストレスがかかり、生まれた子供に障害が出るのではないか? と言われている。
「人間ではデータがなくわかりませんが、マウスでは間違いなく自閉症が増えます」(岡田)
 心を解明するにはエピジェネティックスの視点が必要ということか?
「脳の遺伝子のメチル化状態というのは精神に影響しているんですね」(白髭)
 脳を調べるのは大変だが、血液を調べることでDNAのメチル化パターンを知ることができる。血液を調べることで、脳の状態、つまり精神状態を分析することが可能になるのだ。
「医療ではがん治療にもエピジェネティックスを利用しようと研究している先生もいます。がん細胞が普通の細胞に修飾が付いた状態なら、それを取れば元の細胞に戻るはずですから。エピジェネティックスを使った次世代の薬をエピドラッグといい、すでに認可されたものもあります」(白髭)
 DNAのうち、遺伝に使われているのは1.5%程度で、残りは何をやっているのかよくわからないのが現状だ。
「残りの部分には、1.5%を制御する部分もあるでしょう。それが見落とされている可能性がある」
 私たちの体はタンパク質でできているといっていい。いつどれだけの量のタンパク質が作られるか、そのタイミングと量はエピジェネティックに決められている。最初から決まっているわけではなく、環境によって発現するかどうかは変わってくるわけだ。
 エピドラッグを使って、任意の遺伝コードの脱メチル化を行うことも夢ではないだろう。自殺遺伝子を発動させるエピドラッグや暴力性を引き出すエピドラッグのような悪夢も、将来まったくないとは言い切れない。さらには胎児リプログラミングにより、目的に応じた人間を設計することも……。
 しかし恐怖が遺伝すのなら、喜びもまた遺伝するだろう。喜びが遺伝子を組み換え、命のカタチを変えたこともあっただろう。エピジェネティックスは神の設計した人間という考えに対抗する。人間は自然に対して意志によって変化して行くのだ。人間は進化の終わりではない。命は環境に適応しながら、自由に生きていくのである。

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著書に「大人の怪しい実験室」「あぶない科学実験」「媚薬の検証」「飛び込め! 男の科学くん」「ホントはすごい日本の科学技術」「オーラ?! 不思議なキルリアン写真の世界」など
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