戦争と言葉

   初めて、noteに文章を投稿する。ウクライナとロシアの軍事衝突をSNSを通じて目の当たりにする時代が訪れた。胸が締め付けられる苦しい惨状がニュースから流れる中、私が先日読み終えたある本から、様々な人々に広く届けたい言葉を紹介する。

   2022年2月24日、かねてより侵攻の危機に犯されていたウクライナにとうとうロシア軍が侵攻した。宣戦布告と受け取ることができるプーチン大統領による演説中の''言葉''に強い違和感と恐怖を感じた。それはロシアという大国の指導者、強力な立場にある者が用いる言葉が、自国を守るということ大義以上に相手にとって自分たちが圧倒的な脅威であることを示し、相手国や国際社会を黙らせたいという魂胆が溢れ出ていることだ。 

https://note.com/orogongon/n/n10bb6edabda4

https://www.yomiuri.co.jp/world/20220228-OYT1T50173/

   事態解決のため、武力ではなく、言葉による対話こそが重要な糸口となるとされ、協議や両国の大統領の言葉には非常に注目が集まるが、その言葉というものについて、とある本では著者が自身のエピソードと共に強い主張をしていて、私も同じ危機感を共有した。
   その本というのが、荒井裕樹氏による『まとまらない言葉を生きる』だ。

http://www.kashiwashobo.co.jp/smp/book/b564295.html

   この本はエッセイによって構成されているが、最後に作者による珠玉の言葉が綴られている。


   何度も繰り返すけど、いま、ぼくは「言葉が壊されている」という猛烈な危機感を持っている。
   言葉というものが、偉い人たちが責任を逃れるために、自分の虚像を膨らませるために、敵を作り上げて憂さを晴らすために、誰かを威圧して黙らせるために、そんなことのためばかりに使われ続けていったら、どうなるのだろう。
   肯定的な感情と共に反芻できない言葉ばかりが、その時、その場で、パッと燃焼しては右から左に流されていく。そんなことが続いていけば、言葉に大切な思いを託したり、言葉に希望を見出したり、言葉でしか証明できないものの存在を信じたり、といったことが諦められたり軽んじられたりしていくんじゃないか。


    幼い子供を避難させ、国防にあたるウクライナの男性。故郷を憂い、デモによって言葉を届けようとする人々。市民に希望となる光は未だ見えず、一進一退の防衛戦が繰り広げられている現状。プーチン大統領の言葉は、かけがえのない市民生活を軽視した惨状をもたらした。これ以上の犠牲が広がるその前に、平和的解決に向けて何とか...、こればかりを祈るのみだ。


  #ウクライナ  #ロシア  #荒井裕樹  #読書

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