不登校変化グラフ

なぜ九十年代に不登校が激増したのか? 不登校の社会論 4

不登校急増とトランプ大統領誕生の意外な関係?

 この将来不安、生活不安と結びつく最近の現象として、アメリカのトランプ政権誕生があります。
 勝ち目がないと見られていたトランプ候補が蓋を開けて見れば大勝利。マスコミや多くの識者が見誤ったのは、隠れトランプ支持者の存在でした。
 トランプ支持者達は地方で炭鉱や工場など昔からある仕事をしていた人達が多かったようです。彼らはそれまでは普通の暮らしができていましたが、社会や産業が変化していく中での様々な事情で暮らしが悪くなってきました。アメリカの失業率は決して上がっていませんが、賃金が下がって生活に不安を抱える人が多くなっていたのです。これは現在の日本と非常に似ています。
 そんな彼らの不満と将来の不安に応えたのが、既存の政治と距離のあるトランプ候補でした。都市部の人々やメディアは地方の人達の不安が見えていなかったのです。
 そういった将来の生活への不安が大きなムーブメントとなってトランプ大統領が誕生したのです。
 実はトランプ大統領誕生は日本の不登校急増と大きな類似点があった。私はそう考えます。


 九十年代に学校と社会で起きたことを重ねてみると

 九十年代に学校に起きた変化と社会に起きた変化を重ねて考えてみましょう。
 バブル崩壊によって景気が悪化し将来ちゃんとやっていけるか不安が増大しました。それは学校をちゃんと卒業する、なるべく上の学校にちゃんと進学ことの重要性とプレッシャーを増やすことになりました。それは中学校レベルでいえば、成績の重要性とプレッシャーが上がったともいえます。
 一方、その中学校では九十年代に不思議な変化が起きました。成績のつけ方が変わったのです。単純なテストや学習の結果だけでなく、意欲や観点、勉強以外の活動のウェイトが上がってきました。
 これ自体は決して悪いことではなかったかもしれません。しかし、九十年代に学校と社会に起こった変化を重ね合わせてみると違った見方になります。潜在的に学校の成績に対するプレッシャーが増えてしまった時期に、成績のつけかたが広くてハッキリしないものになってしまったのです。結果として、学校における不安は大きくなり、さらにその不安が常にあるものになってしまいました。
 さらにスクールカウンセラーの設置、年間五十日欠席から三十日欠席への不登校の定義の変化があることによって、不登校が注目されることになりました。いわゆる寝た子を起こす的に不登校が増加したというのも側面もありそうです。ただし、私はこのことを悪い意味ではとらえていません。子ども達に逃げるという選択肢があることが認知されたともいえるでしょう。
 そしてもう一点見逃せない点は、不登校やいじめなどの学校の問題への対策としてスクールカウンセラーが配置されたことで、不登校などが心の問題であるというミスリードが起きてしまったことです。カウンセリング等が役に立つということと、その問題の大きな原因が心の問題であるということは一致しません。九十年代にスクールカウンセラーの配置以上に大きな不登校の対策は取られませんでした。もし、九十年代後半にもっといくつかの大きな不登校対策が打たれていたらその後の不登校急増はなかったかもしれません。
 九十年代に起きた社会と学校の変化を照らし合わせてみると、そこにミスマッチが生じていたように思われるのは私だけでしょうか。
 

なぜ自殺は減少したのに不登校の減少は鈍いのか

九十年代、特に後半に激増し、十万人を超えた不登校数はその後は十五万人を越えることはなく一、二万人程度の増減を繰り返しています。
 同時期に増えた年間自殺者数は、二千十年代付近から減少を見せ始め、現在は三万人を下回っています。
 景気自体は良くなったり悪くなったりしていますが、失われた二十年と呼ばれる先の見えない不安、経済的な失速感はずっと続いています。格差や貧困は二十五年前のバブル崩壊時より悪くなっています。
 九十年代の不景気が悪いというよりは世界中でじょじょに雇用携帯や社会保障の変化があって、それが九十年代の不景気をきっかけに顕著になったと考えられるのではないかと思います。新自由主義、グローバリズム。様々な言葉で説明される状態です。
 さて、ではなぜ近年になって自殺は減少したのに、不登校は同じ時期に目立った減少が見られないのでしょうか。
 このへんは不登校というものと自殺というものの違いも一つはあるかもしれません。不登校はそれ自体おかしなことではないという意見もあるでしょうし、不登校になったらそれでおしまいというわけではありません。一方、自殺は起きてしまえばそれまでです。自殺を止めよう、減らそうとする動機は不登校よりよりはっきりしたものになります。
一章でも述べたように不登校は仮になって改善してもその年に年間三十日休んでしまえば、不登校としてカウントされてしまいます。最終的な結果としてしかカウントされない自殺とはそこが違います。
 自殺は経済的な事情と密接なつながりがあることがはっきり見えています。啓蒙や相談体制の充実などの対策の他、ホームドアの設置のような物理的な対策や借金の返済に困った人に地方自治体が融資するといった経済的な自殺対策を取っている自治体もあります。


 不登校にはこれに当たるような対策はほぼありません。カウンセラーなどの心のケアも確かに必要ですが、それ以外の対策が十分でなくては心のケアも十分に機能しないのではないかと考えます。

 九十年代の不登校の急増は経済不安からなる将来への不安が大きかったのではないか。九十年代の教育の改革はそれを意識しなかった為に歯止めにならなかった。
 この章での私の説明は仮説の域を出ず、確かめようもありません。
 次章ではこの仮説から社会や学校はどう変わるべきかを書いていきます。こういった社会改革で不登校が減るとしたら、私の仮説が正しかったといえるのかもしれません。
 ただ、次章で書くことは不登校を根本からなくすような過激な話なのですが。。。

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