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思考の正体を解き明かす

認知言語学。いよいよもって、出会うべき本と出会うことができたのかもしれない。

極めて大きな収穫は、帰納と演繹、あるいは定義と集合、あるいは写像と記号操作について、数学の世界と散文の世界の違いとは、写像関係の厳密さの違いなのである、という確信を持つことができたことだ。記号と原現実の写像関係が完全であり、またその記号が群として成立する場合、演繹は帰納とイコールになる。全体が部分を意味し、部分が全体を意味する完全なる調和。それを記号的に表現できたとき、記号操作のみによって現実を解釈するという奇跡のようなことが起きる。科学的に重要な達成とは常にそのようになされてきた。創造とは、世界を解釈する新たな記号群の発見なのである。

意識は常にフォーカスする対象を求める。連続体は捉え難いが、個体的・有界的なものは捉えやすい。フォーカスするとは、細密度の最適化とも言える。地と図のバランスが取れている絵や文章、あるいは映像が、わかりやすいと感じられるようにできている。

スキーマ化とプロトタイプ効果。人間は、予定調和と意外性の両方を好むようにできている。メタファーによって、人はそれらを自由自在に操る。表象と表象をゆるやかにつなげるアナロジーの力。連続的なアナロジーもあれば、飛躍的なそれもある。

日本語的にいう「ポエム」は凡庸であり、俗の代表格だが、「詩」となると途端に純粋芸術の王様になる。言葉の世界のルールの範疇で言葉を組み合わせるのか、それを逸脱しながらもなおそこに意味を付与できるのか、の、違い。

アヴァンギャルド芸術は常に難解に見えるが、フォーカルポイントを頼りに読んでいくことが常にヒントになるのではないか。あるいはやはり、王道だが、浴びるように表象に触れ続けること。

究極のスキーマとはなにか。変化しない「もの」と変化する「こと」、そしてそれらの「ありかた」。語用論としての、「指示」「修飾」「叙述」。

言語を言語たらしめる生物学的要請とはなにか。ヒトは、他者の振る舞いを単なる出来事としてだけでなく、意図ー行動ー目的達成という因果連鎖として分析できる。自分の心と他者の心と置き換えて、内面を再現する能力。これにより、単なる欲求の伝達を越えて、他者との間に現実を構成することが可能になる。

トピックごとに、それこそ散文的に書いてしまったが、これらの話は自分の中ではひとつのものに集約される感じがある。つまり、この文章のフォーカルポイントはどこにあるのか。それは、思考の正体を解き明かす、ということではないか。

それは浮世離れした空論というわけでもない。実務的な方向についても、ぼんやりと行くべき方向が見えた気がする。問題の捉え方の技術が向上することが、問題を言い換える技術の向上につながる。そのための武器を作り、磨き上げること。誰にでもとっつきやすい喩え話の元型を磨き込むことでもある。

しかしほんとに、2002年に刊行されたこの本を、卒業論文に取り組む前に読んでいたら、全く違う人生を歩んでいた、のかもしれない。いまこの時に出会うことになったのは、偶然か、必然か。まあ、そんな問いの立て方には意味はない。最近は、全てのことは偶然でもあり必然でもあると思うようになった。
そしていまは、この天啓を、ちゃんと人に届くようにカタチにしていくことに使命感を覚える。

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