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知力とは類推力である

類似による推論、すなわち類推について考えたいわけだが、そもそも類推とは、思考においてどのように位置付けられるのだろうか。このあたりの基本のキというところをまずはハッキリさせたくて、久しぶりに「教養としての認知科学」を紐解いてみると、そもそも人間の思考は、大きく三通りに分類できるそうだ。

一つ目は、推論。ある情報から、新たな情報を導く思考。より細かくは、演繹、帰納、仮説推論に分類される。

次に、問題解決。ある目標を達成する思考。良定義問題と呼ばれる、初期状態、目標状態、演算子、演算子適用制限、問題空間という五つの要素から構成される問題を手段ー目標分析という探索によって解決するのが代表的である。ただし、そもそもの問題理解をどうするのかという話はまた別にある。

次に、意思決定。複数の選択肢から何かをアラブ思考だ。属性ごとに確率や重要度を加味して分析、合算し、比較検討する。

ここまでの話を読んで、ふむふむなる程と素通りしてよいのかどうか、迷う。直感的に、MECE感に欠けている気がする。確かに思考といえば、これらが代表的というか、類型的なんだろうけど、例えば問題解決ひとつとっても、良定義問題以外になにがあるんだいという疑問を持つし、意思決定だけ、急になんか、話がわかりやすすぎやしないかい、という気もする。推論にはかなりしっかりした小分類はあるのに、意思決定にはそれに該当するものはないのか?という疑問も去来する。

なぜ、推論と問題解決と意思決定が同列なのだろうか。思考における三元素的なものなのかと最初思ったりもしたが、どうもそんなことは無さそうだ。

もしかしたら、そこまで深慮遠謀された分類ということではなくて、「認知科学の世界で研究されてきた思考の類型」ということなのかもしれない。

思考とはなにか。単純素朴に、定義的に表現すると、「生き物が生きていくうえで、身体や環境の状態を認識し、生存状態の維持を図るための、脳神経の働き」ということになるだろう。腹が減ったら食べる。ライバルがいたら出し抜いたり、協力したり、戦ったりする。チャンスはモノにする。リスクはヘッジする。

そうした働きかけるを支える三要素とはなにか。状況認識、問題設定、回答生成、というのはどうだろうか。どれ一つ欠けても上記の思考は成立、完結しないし、機能としては互いに重複していなくて、独立している。

こうして見ると、推論とは、回答生成の内部的な働きであり、問題解決や意思決定は、ある状況認識が成立している前提での回答生成に特化している、という感じがする。類推という働きは、状況認識の時点でほぼ自動的に発動し、以降のフェーズにおいても常にバックグラウンドで働き続けているのだと、そう考えるとスッキリしそうな気がする。

ここで、類推とは、思考においていかに位置づけられるのかという、冒頭の疑問に立ち返る。類推は全ての始まりであり、思考におけるあらゆるフェーズで働き続けている、ということではないか。状況認識とは、この状況は、あの状況に似ている、というありかたでまず、発動する。それなしに状況を認識することは、不可能である。そしてそこだけには留まらない。状況認識に紐づいて、関連性の高い既存の問題表象やそれに必要な知識を呼び出す。ちょうど良いものがなければ、既存の問題表象を組み合わせて、新たな問題表象を生み出したりもする。既存の知識だけでは回答にたどり着けない場合に、知識同士の結びつけのような、高次の類推も発現することがある。

とまあ、とりあえず細かいところを飛ばして一気に書き切ると、そんなことではないか。

人間が、ある働きに対してそれを「機械的」と感じるのは、類推的な働きが欠けているときである。特定の問題設定に特化していて、常にワンパターンの回答生成をし続けるような働き。エラーが発生しても、問題設定や状況認識を更新させることがない。そういう働きを人間が発揮したら、マニュアル人間と揶揄されるし、ソフトウェアが発揮したら、これだから機械はと罵ったり安心したりする。一方で興味深いのが、例えばスクラム開発とか、機械的な手法で複雑な問題に対処できる、みたいな話は結構喜ばれる。

対極にあるのが「あんじょうやっときます」とか「あとはよしなに」みたいな発語に象徴される働きで、依頼者の意図を、上位要求もふくめて受け取り、働きかける対象についても問題空間が幅広く認識できていて、意図と行為の連携に安定感がある状態。そういう人に仕事を依頼して、文字通りあんじょうやってくれると、人間は深いレベルの満足を覚える。心が通じ合った、以心伝心の感覚が発生する。それは、大袈裟に言えば、孤独が癒される喜びではないか。

また、演繹や記号操作に特化した思考力によって、数学や物理学で極めて常識外れな知的達成をする人たちの思考もまた、機械的なありかたの対極にある。相対性理論や量子力学を生み出すような知性の働きだ。あの人たちの知力もまた、類推に支えられているように思われる。最終的に到達した結論が、経験的な状況表象とかけ離れるので、演繹力の権化みたいに見えるけれども、たしかにそれは演算力の卓越なくしては達成できないわけだが、それと同等以上に強力な状況認識、問題設定力が不可欠であり、やはりそれは強靭な類推力あっての思考なのだと思われてならない。

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