トガノイバラ#86 -4 悲哀の飛沫…27…
◇ ◆ ◇ ◆
一方、庭の中央あたりである。
地面に突っ伏していた遠野が、うめきながらのっそりと起きあがった。
「あんのクソガキ……」
ずいぶんと気軽に、人様の頭だの腹だのを棒切れでぶん殴り、蹴ッとばしてくれたものだ。人体には脳みそやら内臓やらがぎっしり詰まっていることを奴は理解っているのだろうか。壊れたテレビやなにかと勘違いしてないかとボヤきたくなるくらい、奴――クルミだかピスタチオだか知らないが、一撃一打に容赦がなかった。
伊明を琉里のもとへやったのとほぼ同時に、遠野は、御影佑征と一緒に来海の撃退を試みた。というか、試みようとしたのだ。
しかし御影佑征はなにを思ったか、来海を華麗にスルーして、どたどたと贅肉を揺らしながら一人で走り去ってしまったのである。
結果、瞬間的に呆気に取られた遠野は角材で頭をぶん殴られ、前述のとおりのサンドバッグ状態に陥った。
来海は完全に遊んでいた。遠野が倒れると柳瀬を蹴って突いていじくりまわして挑発し、この野郎と向かっていけば迎撃されてまたサンドバッグ。
彼の心境をありのままに語るなら――クソガキに弄ばれるのはとんでもない屈辱だった。
学生時代(といっても高校に上がるまでだったが)、結構ヤンチャもしてきた遠野である。そこらの一般人に比べれば腕っぷしにも自信があった――が、来海はそれを遥かに凌ぐ凶暴性を持っていた。
「……なんてザマだ、情けねえ」
遠野は口内に溜まった血を吐き捨てて、舌打ちとともに口を拭った。仰向けに転がっている柳瀬に近づき、その頬をぺちぺち叩く。
「おい、柳瀬。大丈夫か。おい」
柳瀬は目をあけなかった。完全に意識を失っているようである。
「……だから残れっつったんだ、馬鹿野郎が」
なにが衛生兵だ、真っ先にやられちゃ世話ないだろうに。
ぐるりと周囲を見回した。アロハを羽織った御影佑征の姿は、やはり見当たらない。暴れている御影なにがしたちも数が減っているように思える。やられたか、あるいは尻尾を巻いて逃げだしたか。
庭の奥のほうには伊明たちの姿があった。
琉里とは無事に合流できたようだが――いったいあれは、どういう状況なのか。
左腕をおさえてうずくまっている伊明がいる。そのすぐ後ろに、琉里がしゃがんでいる。そのまた後ろには、幼い女の子が琉里に護られるようにして立ち尽くしていた。桜色の和装――宗家の子だろうか。
そんな彼らの盾になるように立ちふさがっているのが、あの張間だった。来海と対峙し、間髪入れずに繰りだされる拳を、足を、腕や肘を使って器用にかわしている。
来海の後方、少し離れた位置から見守っている、眼鏡を掛けた薄灰色の和装の優男。おそらくあれが、噂に聞く伊生の実弟、卦伊なのだろう。
なぜ卦伊と来海VS張間と伊明たちという構図になっているのか、遠野にはまったくわからなかった。が、理由はともかく張間がこちら側についている以上、伊明たちがすぐにどうこうされる心配はなさそうである。
ギルワーの血を引く柳瀬を、ここに放置していくわけにもいかない。
いったん車まで戻るか――それとも――。
低い庭木が、塀に沿うように植わっている。ひとまずあの辺に隠しておくか、と遠野は立ちあがるついでに柳瀬を肩に担ぎ上げた。
「――……女性相手に、これですか……?」
肩の上でくの字――どころかVの字に折れた柳瀬の体。背中のほうから彼女のくぐもった声が聞こえてきた。
「この体勢、おなか苦しいんですけど」
「贅沢言うな」
一応担ぎ直してやるが、肩の当たる箇所がちょっと変わっただけである。
「こういうときって、普通、横に抱くものじゃありません? お姫様抱っこっていう……」
「気色悪いこと言うんじゃねえ、いい歳こいて」
「そんなだから結婚できないんですよ、院長」
「うるせえ」
減らず口も健在だ。内心ほっとしつつも口をひん曲げ、のっしのっしと塀に近づいた遠野は、庭木の陰に隠すように柳瀬を――やや乱暴に――下ろした。
そのときである。
「院長センセイ、院長センセイ!」
母屋のほうから手を振りつ振りつ、どたどたと走ってくる者があった。忘れもしないアロハを羽織ったコグマ体型。
御影佑征である。
とたんに遠野は目を剥いた。
遠野の前までやってきた彼は、膝に手をついて「はあ」と大きく肩を上下させた。それから顔をあげ、もう一度「院長センセイ」と――言いかけた、その語尾が消えた。
遠野が力任せの鉄拳制裁を加えたからである。
「痛ッ! な、ちょ、いきなり殴りますか普通!?」
しりもちをついた御影佑征は、殴られた頬をおさえながら目を白黒させている。
「てめえこそ――」
節くれだった拳に、太い腕に、青い血管を浮き上がらせた遠野が、地を這うような声を出す。
「あの場面で逃げるか普通。今までどこに隠れてやがった」
「違います、違います」
御影佑征が慌てて手を振る。
「逃げたんやないし、隠れとったわけでもない。作戦通りに動いてただけで」
「ああ!?」
「ちょ、ちょお、落ち着いてください。仲間割れしとる場合やないでしょう」
一気に噴き出した汗を拭い拭い、御影佑征が立ちあがる。完全に腰が引けていた。
「たしかにあの状況で、なにも言わずにあの場から離れたんは申し訳ないと思います。でも来海の前で説明もくそもないし、タイミング的にもあそこしかなかったんです」
御影佑征の言い訳を要約すると、こうである。
Kratはそもそも腕の立つ者が多く、中でも張間・来海の両人は――あくまで御影側の仕入れた情報によるそうだが―― 一騎当千レベルの強さを誇る、非常に厄介な存在である。数と奇襲の利をもってしても、彼らが機能しているかぎり作戦遂行は困難だった。
「しかもこの二人、バランスがいい。来海は特攻タイプ、張間はラスボスタイプなんですわ」
「はあ?」
「わかりませんか? 要は出てくるタイミングが見事に違うんです。前菜とデザートばりに違うんですよ。――いいですか。院長センセイも見ていたからわかると思いますけど、好戦的な来海は囮を放てば喜んで釣られてくれるんです。対して張間は、腰が重い。よう上げんのです。おそらくいざというときに備えとるんやと思いますけど、まず簡単には囮に釣られてくれません。二人同時に、意識を逸らさせる必要があったんです」
御影佑征はそこで一呼吸おき、母屋を振り返った。
「じつはKratのなかに一人、御影家《うち》のもんが紛れてます。スパイっちゅうやつですね。情報によれば、どうも母屋の一角に無線機器の通信をジャミング――つまり妨害する、抑止装置が設置されとるらしいんですわ。インカムが使えないのは僕らにとっても痛いわけで……」
遠野はポケットに入れっぱなしの受信機から、だらんと垂れ下がっているイヤホン部分をあらためて耳に当てた。来海との死闘でいつの間にか外れていたのである。
ここに着いてから、そして今も、不快なノイズ音しか聞こえてこない。
――成程、それでか。
そういえば昔、伊生ともそんな話をした憶えがあった。抑止装置云々とは言っていなかったが、うちは圏外になるから携帯に連絡をもらってもどうのこうの。
山の中に建っていると聞いていたから、当時はそのせいだろうと解釈していたが。
それにしてもこの男は、敵地においても話が長い。
「要点を言え」
怒鳴りつけたくなるのを精一杯に我慢して言うと、
「つまり、あのときが、僕らが母屋に乗り込む最良のタイミングやったんです」
結果だけが返ってきた。
が、長い前段からでも推察できる。来海が遠野に、張間が琉里に、ほとんど同時に意識が向いたタイミングが、ちょうどあの時だったということだろう。
「抑止装置を切るためか」
「破壊ですね。あと、二つのおたからAとB、つまり御木崎家の重要書類と姿の見えん伊生さんを捜すためでもあります。今、うちの征吾が――ああ、さっき話したスパイの子ですけど――彼の指揮で、二手に分かれて動いてます。僕はひとまず院長センセイに加勢するために戻ってきたんで――」
「わかった」
皆まで言わせず、遠野が頷く。インカムを耳に差しこんだ。
「そのジャミラだかジャグリングだかって装置が――」
「ジャミングです」
「ソレが壊れたらコレが使えるようになって――」
「インカムですね」
「で、御木崎の居場所がわかったら連絡が入るってことでいいんだな?」
「そうです。それと」
「もういい」
知りたいことは大体わかった。これ以上、無駄なお喋りに付き合っている暇も余裕も、遠野にはない。
「加勢はいらん。柳瀬を頼む」
「いや、待ってください。まだ話は――」
最後まで聞くことなく、踵を返して駆けだした。やや足元がおぼつかない感覚はあったが、遠野にとってはそんなもの足を緩める理由にはならない。伊明たちのもとへ、急ぐ。
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