トガノイバラ#81 -4 悲哀の飛沫…22…
伊生はとっさに後退った。しかし実那伊の腕はほどけず、縺れるように畳の上にしりもちをついてしまった。開いた膝のあいだには彼女がやはり離れずに収まっている。
「伊生さんのそんな顔、初めて見たわ」
くすりと笑う。
なんという狂気的な微笑みか。
「……なにを考えてる、実那伊」
「言ったでしょう。全部捨てて、白紙に戻してやり直すの」
おそろしく無邪気な声で実那伊はいう。
「伊明には死んでもらう。識伊にも由芽伊にも死んでもらう。――私の血を、返してもらうの」
伊生が目を見開いた。
実那伊は少女のように瞳を輝かせて、
「あの子たちの血を一滴残らず飲みほせば、薄まった血は戻るでしょう? もちろん一度には無理だから、ゆっくりと、時間を掛けてになるけれど」
シャツの上を這う実那伊の手。心臓をなぞられるようだった。その鼓動を肌で確かめるように実那伊は伊生の胸元に頬を寄せる。
「大丈夫よ、伊生さん。伊明のときと同じ人工授精でも、私、構わない。年齢的な不安もあるけれど――それもへいき、一流のお医者様を手配させるから」
「なに、を……」
――なにを、言っている。
「そうして立派な子供を産むわ。今度こそ宗家に相応しい子を育てましょう。私とあなたで」
気づけば実那伊の肩を力任せに掴んでいた。胸元から引きはがす。
「本気で……」
声が掠れた。
「本気で言ってるのか。お前、本気で――」
「ええ、もちろん」
「卦伊は、……そんなこと、卦伊が許すはずがないだろう」
「許してくれたわ。それどころか、よろこんで協力すると言ってくれた」
絶句、した。
「彼も宗家をまもりたいのよ」
口の中で、まるで呪文でも紡ぐようである。
あまりにもおぞましい実那伊の言葉に圧倒されて、忘れていた。
忘れるべきではなかったのに、忘れてしまっていた。
――識伊の存在を。
気づいたのは卦伊の部屋である。
地下室を抜けたときからか、それとも途中からかわからないが、彼は、ずっと後ろをくっついてきた。声を掛けるでもなく、止めるでもなく、報告するでもなく、ただ伊生の行動を見守っていた。だから伊生も放っておいた。
けれど――。
「……かあ、さま……」
識伊が、襖の前で立ち尽くしている。青ざめた顔。大きく見開かれた目が、信じられないものでも見るように凝然と実那伊を見つめている。
実那伊は一瞥をくれただけだった。その眼差しも、我が子を見るものではない。つめたささえ感じられない無機質さ。伊生へ戻ってきてようやく、笑みの形を取りもどす。
「だいじょうぶ。次は失敗しないわ」
「母様!」
悲痛な叫びだった。堪らずといった様子で駆け寄ってきた識伊は、伊生と実那伊のあいだに体を割り込ませ、母親の肩に両手で縋る。
「いったい……いったいなんですか、今の話は! どうして……なんでッ」
声がふるえる。背中がふるえる。
「殺すんなら伊明とルリだけでいいじゃないですか。なんでぼくや由芽伊までッ」
実那伊は煩わしそうに手を払おうとする。識伊は離すまいとする。肩に指が食いこんだ。実那伊が顔をゆがめて小さく身をよじるのに構わず、識伊はなおも縋りつく。
「母様。ねえ母様」
「離して」
「ぼくがなります。ぼくが……宗家の当主として恥じない立派なシンルーに、ぼくがなります。そのために死ぬ気で勉強してきたし、黎光にも入った、成績だっていつも――」
「離して頂戴」
「聞いてください、母様。学校だけじゃない、シンルーやギルワーのことも、御木崎家の歴史についてだって、いろいろぼくは学んできた。ちゃんとやってきた――やってきたんですっ」
命乞いでは、むろんない。
この少年が訴えているのは、そんなことではきっとない。
「伊明にもこの人にもぜったい負けない。ぼくが立派な当主になってみせますから、だから」
識伊の手が緩む。悲しげに、声が濡れる。
「だから……」
ぱぁんッ――。
凄烈な音が、響き渡った。
実那伊が識伊の頬を平手で打ったのだ。
「……あなたが誰を超える、ですって?」
無機質だった実那伊の瞳に烈しい怒りが宿っている。
畳の上に倒れこんだ識伊は頬をおさえ、愕然として実那伊を見上げた。かあさま、と掠れた声をこぼす。
実那伊はまさしく鬼の形相だった。黒々とした目を剥き、わなわなと震える唇をひん曲げて、拳を握る。
「よくもそんなことが――」
忌々しげに、握った拳を振り上げた。これでもかこれでもかと言わんばかりに、身をよじる少年の肩を、背中を、顔をかばう腕を、遠慮容赦なく無慈悲に何度も打ちすえる。
「わかっているのよ識伊。あなたなんでしょう地下の錠を外したのは。私に黙って。私に隠れて。由芽伊もこの二日で二度も私に逆らった。宗家の意思に逆らった。いらないのよ、そんなもの。いらないの。いらないの!」
識伊がうめく。女性の細い腕だ、さほどの威力もないだろうけれど――ヒステリックな声が、言葉が、しなる鞭となって識伊の心を痛めつける。
「やめろ、実那伊」
今度は伊生が二人のあいだに割り込んだ。振り下ろされた左右の拳を、手首を掴んで受け止める。
「やめろ。――お前の子だろう」
憑物がおちたように、尖りきっていた実那伊の肩がすとんと落ちた。
「……違うわ」
腕から力が抜ける。
「卦伊さんの子供よ」
「実那伊」
黒い瞳は焦点をなくし、ただ虚空を見つめている。
「……やはりだめなんだわ……卦伊さんの血では……出来の悪いのしか生まれない」
後ろで、識伊が起きあがった気配が、した。
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