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トガノイバラ #7 -1 血の目醒め…6…


 診療所から徒歩十分。
 小さなガレージのある二階建ての一軒家が、伊明いめいたちの住まいである。

 二階には兄妹それぞれの自室と、父の書斎兼寝室がある。バルコニーに続く一室は空き部屋で、家族共用の物置部屋として――といっても物はそんなに多くないけれど――活用している。

 一階は風呂やトイレ、カウンターキッチンにちょっと広めのリビングダイニングなど生活の場として整えられており、伊明も琉里も、寝る以外のほとんどの時間をこの階下で過ごしていた。

 学校の課題もリビングでやり、時間のかかる家事なんかもそこで済ませる。

 たとえば朝方にバルコニーに干しておいた洗濯ものをわざわざ下に持ってきて、アイロンを掛け、たたんだものをまた二階に持っていくという――他人から見れば余計なひと手間を、伊明も琉里もすすんで掛ける。

 テレビがリビングにしかないという理由もある。黙々と一人でこなすよりも、なんやかやと兄妹でくっちゃべっているほうが楽しいからというのも存分にある。

 今も琉里は、ソファセットの置かれたリビングと食卓の置かれたダイニングの間にぺたんと座ってアイロンがけに勤しんでいる。伊明は伊明でキッチンに立ち、夕食の支度を進めていた。

 母親のいない御木崎家では、ごく日常的な光景である。

「いーいーなー」

 ふしゅう、とアイロンが蒸気をふく音と一緒に、琉里がうらやましそうな声をあげる。

 駐車場での一件を、琉里に愚痴っていた最中だった。
 小鍋に味噌をといていた伊明は思わず手を止め、琉里を見る。

「『いいな』?」

「だってお父さん、伊明ばっかり可愛がるんだもん。ずるい」

「可愛がるとか……」

 気色の悪い――と伊明の腕に鳥肌がたつ。

「だってー」

 琉里が頬をふくらませた。

「私、高校に上がってから一度も手合わせしてもらってない。伊明ともダメって言われてるし……なんか、のけものにされてる気分」

「しょうがねーだろ女なんだから――」

 言ったとたん、琉里がむッと眉を寄せてアイロンを置いた。昔はやってたじゃん、と、先ほど父にぶつけた言葉がブーメランのごとく返ってきそうな気配がして、伊明は慌てて取り繕う。

「っていうか部活あるしお前。いま怪我したらまずいんだろ。今回、メインの役もらえたって喜んでたじゃん。本番まで休めないって言ってたし」

「……まあ、そうなんだけど」

 肩を落として、うう、と唸る。かと思うと。

「でもやっぱり私もやりたいー! 伊明やお父さんと手合わせしたいー!」

 両手を振り上げてわんとわめいた。そのままぱたんと後ろに倒れる。深いため息が、ひとつ聞こえた。

「……遠野先生とやろうかな」

「それはやめとけ」

「はーい」

 素直な返事とともに、琉里がむくりと起きあがる。
 わめいて倒れて多少はすっきりしたらしい。ふくれっ面はすでに直り、アイロン掛けを再開する手もよどみなく動いている。

 琉里のこの切り替えの早さを、時々ちょっとうらやましく思う。

 小さく溜息をついて、伊明も夕食の支度を再開した。

 小鍋にフタをし、冷蔵庫から取り出した半玉のキャベツをまな板の上にごろんと放る。夕方、学校帰りに買ってきた総菜――トンカツ二人前も、皿に移して電子レンジに放りこんだ。

 今日は健診があったため、スーパーマーケット様にお力添えをいただいた。出来合いの総菜は、金は掛かるが楽ちんでいい。

 伊明は半玉キャベツをくるむラップを剥がしながら、琉里に「そういえば」とふたたび水を向ける。

「どうだった? 健診」

「あ、うん。……あれ? 前回のこと、私、伊明に話したっけ?」

「体に変化で出てきてるってやつだろ」

「そうそう。で、今回もね、やっぱり同じこと言われた。先々月くらいから少しずつ体に変化が出てきてるから、いろいろ気をつけなさいって。ちょっとでも気になることがあったらすぐ来いって」

「なんなの、体に変化って」

 ずいぶん変な言い回しだ。

「わかんない」

「調子悪いの?」

「そんなこともないんだけど。遠野先生、説明してくれなくて。なんなんだろ?」

 琉里自身も思い当たるものはないようだった。不思議そうに首をかしげている。

「……変化、ねえ……」

 ざくざくとキャベツを切りながら呟いた伊明の脳裡に、ふと。

 ――なにかあってからじゃ遅い。

 父の言葉がよみがえった。

 なにか。
 なにかって、なんだろうか。

 遠野の言う体の変化とやらと関係があるのだろうか。

 月に一度の定期健診も、口酸っぱく言われる鍛錬も、そのなにかに備えるためのものなのだろうか。

 だとすると――
 父は、そのなにかを知っていることにならないか。

 健診は、病気をいち早く発見するためのものである。
 体術は素手で相手に勝つための術である。

 それを結びつけるなにかって――。

 ざく、ざく、ざく。

 ザクッ。

「いッて……!」

 人差し指に走った鋭い痛みに、思わず包丁を取り落としてしまった。まな板とぶつかって、ゴト、と重たい音が響く。

 琉里がおどろいたように顔をあげた。

「どうしたの?」

「指、切った」

「えッ!?」

 かなり深くいったらしい。傷口から血があふれてくる。
 こんなの久しぶりだった。考えごとに気を取られすぎて手元がおざなりになっていたか。

 ひとまずティッシュで抑えようとキッチンを出た――ところで、薬箱を持ってすっ飛んできた琉里とはちあわせになった。ぶつかりそうになる。

「あ、ごめん」
「いいから。――こっち来て。傷見せて」

 こういうとき琉里は結構冷静なのだ。普段は子供っぽいけれど、伊明よりよほど根がしっかりしている。
 琉里にくっついてダイニングに移動した。促されるまま、片手を差しだす。

 指先から、血が、滴る。

 手当するべく伸ばされた琉里の手が、ぴくんとふるえて不自然に止まった。


 ――もしも。
 もしも宿命の歯車があるとしたら。
 それはきっと、ほんの些細な切欠ひとつで回り始めてしまうのだろう。ゆっくりと――軋みをあげて――当人たちの意思など、関係なく――。


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*前回のお話はこちらから🍁🍁

*1話めはこちらから🦇🦇




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