トガノイバラ#84 -4 悲哀の飛沫…25…
「構わないよ、張間」
外廊下から庭に降り、二、三歩進んだところで足を止め、おもむろに卦伊が言った。場違いなほど涼しい顔をして、庭をぐるりと見まわしながら。
「は、構わない、とは……?」
真意が掴めず、張間が訊き返す。
腰にくっついていた由芽伊は、卦伊を――父親を見るなり逃げるように張間の影に隠れてしまった。顔半分をのぞかせて、卦伊の顔色を窺っている。
「構わないとは、構わなくていいということだよ。由芽伊が邪魔なら、由芽伊ごと片付けてしまっていい」
「……は?」
「ああそれからね、伊明君のことも、もういいよ」
「もう、いい……?」
「消していい」
張間は小さく息をのんだ。卦伊は淡々と告げてゆく。
「由芽伊も、伊明君も、識伊も、ね。もういいんだ。必要なくなった」
「……なにを……お待ちください、卦伊様。仰っている意味がよく――」
「できることなら穏便に済ませたかったんだ、僕としては」
卦伊のそれは問答ではなく、ほとんどひとり言だった。
「張間が相手ならあるいは――とも思ったんだけれどね。やはりこうするしかなさそうだ。……残念だよ、本当に」
「お待ちください」
張間が制止を繰り返す。無意識だろうか――伊明が琉里にしたのと同じように、張間もまた、腕で由芽伊を庇っている。その瞳が戸惑いに揺れている。
「卦伊様。我々は宗家の方をお護りし、微力ながらも御役目の助力となるよう設立された警護団体です。ギルワーが相手ならともかくも――」
張間がちらと琉里を見た。眉頭をこわばらせて言い淀む。
「――いえ、ギルワーにしろ……やむを得ない場合を除き、我々の手で命を奪うことは禁止されております。シンルーがその血でもって裁くのと、我々が殺すのとではわけが違う。……御存知でしょう、あなただって」
「もちろん。知っているよ」
「……ましてや、伊明様も由芽伊様も、宗家の血を引く御方です。少々無茶はいたしましたが――それでも我々にとって警護対象であることには変わりありません」
「わかっているよ、お前に言われなくとも」
「でしたら――」
「特例として」
言い募ろうとする張間の言を、きぱりと卦伊が遮った。
「僕が許可する。宗家の当主代理として」
「卦伊様」
「これは宗家の意思だよ」
「しかし」
「仕方がないんだ、張間。一度ねじくれてしまったものを直そうとしたって、そう上手くいくものじゃない。元には戻らないし、無理に矯正をしたところで遺恨が残って、より大きな捩じれを生むだけだ。ここまできたら、もう白紙に戻すしかない」
張間はしばらく黙っていたが、やがて、
「……我々は、殺戮者ではない」
絞りだすようにそう言った。
「お前はできないというんだね」
卦伊は肩をすくめ、
「まあ、構わないよべつに。他の者にやらせるだけだから」
無情な瞳を伊明たちのほうへ向ける。
近くには、二人の黒服がいた。先ほど伊明と琉里にのされ、卦伊の出現によって慌てて身を起こした彼らであるが――宗家の意思とやらに進んで従う気にはなれないらしい。二人とも、意識的に卦伊から視線を外している。
「――意気地がないな」
嘆息した卦伊は、今度は庭に散らばっている黒服たちを物色するように見回している。
伊明の我慢も限界だった。じっと沈黙を守っていたが、
「なあ」
おもむろに卦伊に向かって呼びかける。
「あんたがやれよ、卦伊さん。宗家の意思なんだろ」
卦伊は苦笑した。命のやり取りを話題にしているとは思えない、客間で見たのとまったく同じ柔和な苦笑。
「残念ながら、僕には無理だ。兄さんと違って能が無くてね、満身創痍の君にさえ勝てる自信がない」
「意気地がねーな」
吐き捨てるように言ってやると、
「そうだよ」
至極あっさりと卦伊が頷く。
「だから言ってるんだよ。僕に当主は務まらない、兄さんこそが相応しい、ってね」
普通は――劣等感のひとつも抱くものではないのだろうか。
伊明でさえ琉里に対してわずかながらも、ある。父を褒めさせる体術のセンスや、部活に打ちこめる情熱、忍耐力、友人知人の多さに比例するコミュニケーション能力の高さや、明るさ――父に対する素直さ。
自分はそういう柄ではないと思いながらも、引け目を感じる時もある。
けれど卦伊は、そんな感覚など麻痺しているみたいに、
「あの人さえいれば、いくらでもやり直せる」
純粋な瞳でもってそう言いきる。ふたたび庭を見回した。目ぼしい人物でも見つけたのか、ああ、と頷きがてらに声をもらして、軽く片手をあげている。
「……あんた、言ってること滅茶苦茶だぞ」
苛立ちをあらわに、伊明はなおも食って掛かる。
卦伊がうるさそうに振り返った。
「あいつだろ、あんたの言うねじれの大元って。なのに消すのは俺たちで、あいつは生かして当主様かよ。それで白紙? 遺恨が残らない? あんた、本気でそう思ってんの?」
「思ってるよ」
卦伊は、そうだな、と少し首をかしげて考えるような間を置いた。
「リセットするのに機械ごと捨てる馬鹿はいないだろう。初期化だよ、伊明君。若い子にはこういう言い方のほうがわかりやすかったかな」
張間に感じたものとはまた違う悪寒が、ぞっと背中を走っていく。
――まともじゃない。
「……あの人は……実那伊さんは、そのこと……」
知っているのか。許したのか。
実の母親であり、あれほど伊明に執着を見せていた彼女は――。
卦伊の独断であると、せめて言ってほしかった。
しかし卦伊はそんな伊明の心を見透かすように目を細め、穏やかな微笑を唇に湛えたまま、
「彼女が決めたんだよ」
足元がぐらついた。
傾いた体を支えるように、背中に触れる手があった。
琉里だった。伊明、と気遣わしげな声も、指もふるえている。
ぞわぞわと肌があわだつのは、彼女が触れたからか、それとも。
卦伊のもとに、一人の青年が駆けてきた。
彼が呼び寄せたのは――よりにもよって――来海だった。御影なにがしから奪ったのだろう片手にぶら下げた角材は、ところどころ赤く染まっている。
遠野と御影佑征が、対峙していたはずである。
伊明はのろのろと首をめぐらせた。
庭の一画。
打ち棄てられたかのごとく。
うつ伏せで倒れている遠野と、仰向けに転がっている柳瀬の姿が、あった。二人とも意識があるようには、到底見えない。
琉里が悲鳴のような声を短くあげた。二人のもとに駆け出そうとするのを、わずかに残った伊明の理性が反射的に、無理やりに、押しとどめる。
「先生っ、柳瀬さんっ――!」
己の感情を代弁するような悲痛な声。
けれど伊明には、それもどこか遠くに聞こえる。
御影佑征の姿は見当たらなかった。逃げたのか――。
来海はやってくるなり、主たる卦伊に慇懃に頭を下げた。卦伊は笑みで応じ、張間が拒絶した『宗家の意思』を伝え、命じる。来海は意外そうに眉を持ちあげて「はァ」と気の抜けた返事をしてから「いいンですか」と首を傾けた。
むろん答えは決まっている。
是《ぜ》、だ。
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