12月
12/2
さばのみりん干し(レンチンするやつ)、キャベツコンビーフ炒め、さつまいも黒ごま、なめこ厚揚げ豆腐の味噌汁。
12/3
葉山莉子さんのを再読。
『正月は家族の話題が多くて嫌になる。〜父も母もそれぞれの家庭の負の遺産を背負って、いまの家庭で負の遺産の再生産が行われている。わたしができることは自分で幸せな家庭を持つことくらいで、わたし自身が幸せな家庭で育つことはない。わたし自身が不幸な家庭の再生産を行う可能性のほうが高いのに、自分の家族を持つことにポジティブな感情を抱けない。幸せな家族像を目にすることがいちばんつらい。その希望もないのだから。』p.8-9
昨日も今日も気分が塞ぎ、とても暗い気持ちで過ごした。過去のどんな出来事も全てが間違っていたような気がする。そんな気がするけど今や明日どうするのが正しい選択なのかは分からない。
たまたま知らない人にキレられ落ち込んでいたら「今朝寝坊して上司に怒られてイライラしてたのかもよ」と言われ、なにその宗教、入信したいと思った。相手の不機嫌は自分の非と関係ない、そう分かっている。けれど自分の過去のバチが当たったとまで思い詰める。ばかばかしい。受け取り手、こっち側の問題なんだなと思った。
この前読んだ本に不機嫌で場を支配しようとする人について書かれていた。赤ちゃんだったら周りがあやしてくれるけど、社会は保育園ではないので周りに疎まれるだけだと。この場合ご機嫌取り(保育士とヘルパー兼任)させられる方はたまったもんじゃないのだが、彼/彼女の未熟さは適切に養育されてこなかったことが原因だと思うけど、その責任は本人に負わされてしまうから大人になってからじゃ本当に遅いのだよね。
この前昼間に川沿いを自転車で走っていた。秋晴れ。風は少し冷たいが陽が暖かく気持ち良い。風に草が踊る。燦々と光をまとって揺れていた。草ってこんなに綺麗なんだ、と思った。緑色の細い一本一本が折り重なるように同じ角度へたなびき流れていく。朝と夜の景色と昼間のそれは違う。この道がこんなだと気付かなかった。空も水も草も木々も『歓び』を謳っているようだった。
表参道で撮影→美容院→ねぎし→青山ブックセンター。
美容院でケラケラ話していたら自分のそろった歯並びを久々に鏡越しに見た。私は歯列矯正前に右前歯が八重歯でコンプレックスだったから普通に話すと左側ばかり口が空いている。そんなニヒルな笑い方はもうしなくて良いのだけど、鏡越しに見ないと中々分からない。
ABCで『ティンダー・レモンケーキ・エフェクト』を手に入れ読みながら帰宅。
色々書いていたけれど外に出て動いていたら気分が晴れた。単純。ネガティブ・ケイパビリティを知った。文字面だけで負の連鎖的なことかと思ったが違った。これはいい勉強。
ねぎしで隣にいた男女について書こう。20歳くらいの2人組。男はだらしない雰囲気でパーカーをだぼっと着て半分のおかわりを2回していた。女は小綺麗でしっかり目。途中から話が気になって頭に入ってきたので全体の流れは分からないが男は何らかの事情で生き延びて(?)しまったようだ。自殺未遂かと思ったが病気とかかも。
「だって生きちゃったんだもん。でも死にたいよ」
「だって生きれたんだから。本当ご両親に感謝だよ。私も死にたい。元気なうちに綺麗に死にたい」
「来週にしたら?あでも雨だからやめた方がいいよ」
「なにそれ」
「今日なんかすげー食ってない?会って以来史上食ってない?」
「うん」
「あ〇〇って日曜夜空いてんだよ」
「そうなんだ、行く?」
「ん〜…あ俺〇〇ちゃんにプレゼント買ってきたもんね。バスソルト。新しいのがでたってさ〜」
私的にはツッコミどころ満載で気になった。2人は食事を終えると携帯をいじり始め、私は今店内では2名様が3組待ってて、あなたの隣の1席とあなた達、そして私が帰れば2組解消されるんだよ!?と心の中で叫びながらかっこんでいた。でも私は別に店内の混雑状況等気にしなければいけないわけではないし…食べてすぐ動きたくないよね…。
12/4
信じられないほど忙しかった。信じられない…と何度か思ったり、ふらふら〜っと倒れこみたくなったり、目が回りそうだった。あの人とあの人に連絡を、と思っていたのにそんな余裕はなかった。暗いことを考える時間もなかった。
私は鍋文化に馴染まず育ったのでほぼ無縁の人生だったのだけどここ最近週に1回か2回は鍋。何故ならスープジャーに入れてお弁当にすればとても楽しくて美味しいから。野菜豆腐きのこ白身魚入れて蓋するだけ。簡単。あと何故か生卵を食べる習慣も持たなかったので、たまごかけご飯というものを食べたことがないし食べたいと思わない。今でも卵は半熟は好きだけど生っぽいのは苦手。マックで初めててりやきを食べたのは中1で美味しすぎてびっくりした。今はマックは食べない。
12/6
秋葉原で用事。のちロイホでランチ会。御茶ノ水まで歩いて喫茶店に行こうと思っていたが遅くなったので真っ直ぐ帰宅。
みんながフルマラソンを走っているのに自分だけ50メートル走を同じペースで走っている気持ち。
12/8
「帰りの車内で、彼がカネコアヤノをかける。彼はカネコアヤノ信者で、このときほど、カネコアヤノになりたいと思ったことはない。(p.145)」
朝食を米粉のガレットにしてから家事の時間が増え、起きる時間を気持ち程度にしか早めておらず、慌ただしい日が続き、やっとこさ起床を早めることにした。寒い。暖房をつけて部屋が温まるまで、頭が覚めるまで時間がかかる。普段から起き上がるのに30分くらいかかるのだ。血圧が低いから。いつもより早起きしキビキビと家事を済ませ洗濯まで干して家を焦らずに出発できると、これはこれでアリだと思う。
ガザのニュースを見るたびに、別にロシアとウクライナの戦争が終わったわけじゃないのに、それが遠のいていく。ルワンダのことも、過去の他の出来事も、名古屋の殺人事件も、虐待事件も、人間はそもそも残虐な生き物なのではないかと思う。日本が1945年からパッと見平和なのは、自国の軍を持たず、他国軍の基地があるからで、別に軍に反対とかそういうわけではないけど、沖縄について本を読んだりはしているけど、なんていうのか、、、日本人だけが世界平和を願っている民族なわけじゃない。こんな殺戮の歴史と天皇への忠誠を誓っていた国民が、世界のどこかの戦争を、まるで何の加害も知らないみたいな顔して語れない。私は自分の祖父母の加害の歴史だって知らないし。少なくとも当時「戦争反対」と言って非国民だと罵られてなんていないと思う。自分は今そういうターン、2023年を生きているだけで、1940年を過ごしていたらお国のためにと言っていたと思うし。
屁理屈のようだけど例えばヤノマミ族が赤ん坊を精霊に返すのを私達が殺人事件だと指さすことはできない、みたいなことが世の中には溢れていて、どこかとどこかが争っていると聞けば平和を求める気持ちも分かるけれど、どれだけ聞かない/知らないことがあるか考えると、自分には平和を願う権利がないと思う。私達は第二次世界大戦の敗者なのであり一方的な被害者なわけではない。原爆の被害を語り継ぐ機会は多いけれど、パールハーバーについて誰かが加害の責任を感じているとは思わない。終戦記念日も広島と長崎に原爆が落ちた日も覚えているけれど、真珠湾攻撃の日付は覚えていない。仮にロシアが治安維持のためにウクライナに軍隊を整備すると聞けば、それは間違っているような気がする。でも日本に米軍基地があることは受け入れている。アメリカが日本以外の国にも軍を置いていることも知っている。iPhoneを使うことも中学から英語教育を受けることも何の違和感もない。ある程度大人になるまで「世界」は「アメリカ」を指すような気がして、グローバル社会と言えば英語だった。ウクライナに寄付を呼び掛ける声はSNSで日常的に見かけていたけれど、アフガニスタンやイラン、イラク、リビア...等アメリカの対戦国へのそれは一度も見たことがない。これが平和を願うことだとは思わない。ヘンリー王子がアフガニスタンで25人殺害したことを非難できないのに、主語が変われば非難する世論が気持ち悪い。
私は皆が気持ち悪い。「誰かが間違っていること」と「自分が正しい」は一致しない。自分も間違えている。現在進行形で。
12/9
鮭タルタルかけ、トマト缶スープ(じゃがいも玉ねぎキャベツミックスビーンズえりんぎ)、春菊とえりんぎ和え、チルド惣菜の里芋煮。
芯が黄色で花弁が白色の花、薄ピンクのガーベラ、黄色いチューリップ2本を買ってきた。いい色合い。
12/10
「帰り道、飲み会があるからと解散を申し入れた。もっと話したいし一緒にいたいという眼差しは、目を見なくてもわかった。そんな飲み会は存在しない。(p.202-203)」
帆立と青梗菜炒め、かぼちゃスライスをオリーブオイルで炒めたもの、ツナ卵焼き、昨日のスープ。
グリコのビッテというお菓子がめちゃくちゃ好きで冬にしか売ってないうえ、どこでも売っているわけではないから見つけたら買うようにしてるんだけど、今年はまだ見ていない。まだなのかしら。ビッテ。要はキットカットのリッチ版というかティムタムみたいなものなんだけど、そのどちらとも違って、6枚入りで結構重たくて食べ応えがあるのだけど1度に3枚はペロリといける。まじで美味い。
7,700円スーパーで買い物をしてリュックとエコバッグをパンパンにして歩いて帰ってきた。たまにこういう時のために車があればとは思う。今はあんまりぼーっとする時間がないから意識的に作って音楽を聴きながらぼんやり歩いてるから良いけど。今日は暖かくてマフラーもいらないほどだった。
12/11
『ティンダー・レモンケーキ・エフェクト』まだ途中だけどめちゃくちゃ面白い。私はこの女の子がめちゃくちゃ好きだけど、こんなに魅力的で素敵な子なのに好きな人にとっては違いそう。すれ違っている感じ、温度の差を感じる。でもさあこれがドラマだったら2人はくっつくよね?キャスティングは岸井ゆきのと中島歩。この2人がでてきたらくっつくよね?川口春奈と目黒蓮がいたら、山田涼介と橋本環奈がいたら、くっつくよね?(両方見てない)どうしてこの2人は反極の磁石みたいに、くっつきそうで離れていくの?踊らにゃ損だよね。私もそう思う。彼女が彼を好きで、こんなところが素敵だと惚気ではなく事実を述べている感じがいい。私も彼が良い人だと印象を受ける。上っ面の愛想笑いじゃなくて、あたたかさみたいなもの。でも彼には彼の日記があって、それを読むと世界線が少し違うんだ。と書いた後読み進め読了。終わってしまった。
恋が実らないのは片方に魅力が足りないとか何かが悪かったとかじゃないのかもしれない。ただ違う軌道に乗った惑星だったというだけなのかもしれない。こんなことを考えながら、人は根源的に寂しいのかもしれないと思った。さびしさは鳴ると書いたのは2003年の綿矢りさであるが、2023年の今、私はようやくこの言葉の意味を少し分かったかもしれない。どうして人は主に2人組のパートナーを作るのか、どうして同じ居住空間に暮らすのか。私はあまり寂しさとは無縁なのだけど、1人より2人の方が心強いとか云々かんぬんがよく分からなかった。でもそういう意味で人は誰かと繋がろうとするのだね。
自分の限定された文化的素地が一致する人って貴重だったんだなと思う。例えばバルト9で映画を観てらんぶるに行くとか、銀座だったらブリッヂに行くとか、A子さんの恋人を読んだとか、好きな音楽とか……。
12/12
事件だった。雨の日の朝、カッパを着て出かけようとするとカッパがないのである。信じられない。しかしいつもの場所にない。どうする?いつもの私だったらこの時点でメルトダウンだ。パニックで泣いてもおかしくない。だが今日の私の思考回路はスムーズに動いた。
カッパがない→事実を認識→傘を差して自転車に乗ってはいけない→カッパなしで行く→行っても良いが、変な人だと思われそうなのでやめた方が良い→バスで行く→バス!→次のバスに乗れば何とか間に合う。
バスに乗ろうと作戦を変更してパスモをコートのポケットに入れる。家を出ようとすると、カッパがあった。いつもと別の場所に自分で置いたのだった。そういえば人が来るからと場所を変えたのに忘れていた。ああ良かった、カッパを着て行こう。
あるはずのカッパがなくてもパニックにならないし、ないはずのカッパがあっても自分がバカだと頭を打ち付けたくもならない。そうか、そうか、の繰り返しで、何も乱れることなく家を出たのである。
12/13
柴田聡子『きれぎれのダイアリー』読了。
映画『カモンカモン』鑑賞。
12/15
ドラマ『ゼロの焦点』鑑賞。
今日気付いたことがある。立場が上の人間が下を怒るのは何か悪いことをしたからではなく、上下関係をはっきりさせるためのパフォーマンスなのだ。だから上がしてもいいことを下はやっていけない。島耕作でもゴルフをめぐり似たような話があった。主従関係を分からせるためなのだ。私はずっと自分が悪いのだと勘違いしていた。
12/16
植本一子『こころはひとりぼっち』読了。
植本さんは変わったんだなと思った。新幹線ではなく高速バスで帰るという友達に新幹線で帰りなよと言ったことに対して「自分の正義をふりかざしてしまった」とあった。私もよくやるし、この場合で新幹線で帰らないって言われたらびっくりするし新幹線を勧めると思う。でも相手にはそうしない自由があるし理由を説明してこちらを納得させなければいけないわけではない。でも、時と場合によっては協調性がないと言えるかもしれないし、または1人になりたいから別の手段で帰りたいと選んでも良い。
表参道で撮影、曇りの予報だったけど晴れて上着がいらないくらい暑かった。青山ブックセンターで花田菜々子『モヤ対談』購入。ブリッヂでランチ後シャンテで『市子』。碇雪恵『日記と呼ぶには』読了。
映画はすごく面白かった。話の展開が早いので観ている間は気にならなかったけど、落ち着いて考えると違和感。まず市子は何故プロポーズの翌日に失踪したのか?というメインテーマ。つまり彼女の過去が理由であるが、何故彼が帰ってくるタイミングで荷造りをしているのか?している最中にニュースが流れていた気がするのだけど。プロポーズされたけど結婚はできないから逃げる、またはニュースで過去がバレると察したからなのか?なんか見落としていたのかもしれないけれど。原付の音が近付く、階段を上る音、絶対に置いて行ってはいけないものを置いて、何故彼女は逃げたのか?その不自然さがドラマ性を持たせるためのように見えた。次の日でも良くない?または彼が仕事に出てすぐ後にでれば良くない?彼女には逃げる理由があったが、あそこまで性急に逃げる必要はなかった。市子とクラスメイトの男子が接近する出来事もそんな上手くいくかいな…と思ったし、ここおかしくない?みたいな点が重なり、けちつけてるみたいな疑問が湧いてくる。物語ラストは曖昧な終わり方だけど暗示されているものをそのまま受け取ると私は市子を好きになれない。悪人にも被害者の面があるみたいなことを言いたいわけじゃないだろうし。それに2人の馴れ初めも、浴衣をいきなり用意しておくのも(着付けどうするん?)、謎だ。浴衣は高そうだったけど、そんなお金持ちにも見えないし、いや婚約指輪の代わり的なことなのか?
森永悠希(大阪)、倉悠貴(大阪)、中田青渚(兵庫)、大浦千佳(大阪)、渡辺大知(兵庫)、宇野翔平(大阪)、中村ゆり(大阪)。キャストの多くを関西弁ネイティブにしたのはわざとなんだろうか?劇中、杉咲花は関西弁を話し、若葉竜也は東京弁を話す。関西弁でやるなら関西弁でやる理由が欲しいのは東京弁に慣れてしまってるからだろうか?舞台のキーとなる生駒山は富士山でも他の山でも成立したと思う。関東圏の人間が生駒山と聞いて奈良の生駒がでてくるかな?奈良なんだとは思ったけど東大阪市と隣接していることは知らなかった。それと刑事が過去のあの事件にこだわる理由も分からなかった。仲間に「そろそろ髭を剃ってくださいよ」と言われるのも不自然な会話で浮いていて何かのメタファーかと思ったけど、特に意味はなさそうだった。変わり者のメタファー?それと川辺家が失踪する第二の事件はいらなかったのでは?あの事件の引き金となる出来事を市子が背負う必要あったのか?川辺市子の人生を壮絶にするためのアクセサリー?それと第三の事件もいらなかった。あの市子に似た女性は何らかの皮膚病を抱えスカーフを巻いて登場するが、あれもいるのかな…見た目に分かる不幸さとしてのアクセサリーのように見えた。まだあの女の子だけなら良かったけどメガネくんがそうする理由はないはず。ラストをああするなら第三の事件の経緯も描くべきでは?だって市子はそんなことする人じゃないと思う、というかそうなら若葉竜也は何故彼女を探すの?市子を好きでいさせてほしかった。第一の事件だけで、渡辺大知にメガネのクラスメイトの役割を重ねるだけで良かった。可哀想で不幸で壮絶で、そういうアクセサリーが重すぎて疲れた。だってこれ映画やん。市子に背負わせる荷物を増やすのではなくどんな形であれ幸せにしたってほしい。
12/21
奥野紗世子『享年十九』読了。
12/22
夜、友達から私の推しをテレビで観たとLINE。速攻ネット上で動画を確認。「金髪成金みたいだけど普段は好青年だから」とフォロー。
12/23
さつまいも人参ぶなしめじの味噌汁、鮭タルタル、ひき肉大根ピリ辛煮。17時に帰ってきても3品作るのでギリギリ。
12/24
ビーフシチュー、じゃがいも揚げ焼き、芽キャベツとナッツ炒め、れんこんチーズ焼き、柿生ハム。
12/27
『崖の上のポニョ』鑑賞。魚だった女の子が津波に乗って5歳の男の子を追いかけてくるというクレイジーな話だった。ポニョも見たことはあるはずなのに内容は覚えておらず、物語が始まる前に終わってしまったという感覚だった。2008年には津波をこう描けていたんだなあと思った。
12/29
『穏やかなゴースト 画家・中園孔ニを追って』村岡俊也 読了。評伝とは何なのか分からないまま読み進めていたが面白くて読み終わるのがもったいなかった。一人の人生が第三者の語りによって浮かび上がってくる。天才と呼ばれた青年。中園の絵はポップでいてどこか不穏で、シンプルだけど入り組んだ構造になっていたりもする。語られるような天才さや惹きつけられる魅力を私は感じられないが、それでも本を通して中園の人柄を知ると絵の意図するところが見えるような寄り添ってくれるような気がした。中園は両親に対し厳しい指摘をしている。父親に対しては思いやりというものを知らない、母親に対しては物事の表層しか捉えられない、というような。もしかしたらバスケ少年のままだったら、絵の道に進まなければ中園は両親を軽蔑せずにいられたかもしれない。こんな風に家族を思っていて尚周りに思いやりを持てていたのは何故なのだろう。何故彼は真摯に生きられたのだろう。別に体育教師を否定しているわけじゃない、勝手な自分の思い込みでマッチョな単純明快な人柄を思い浮かべてしまうだけ。別にSMAP好きを否定するわけじゃない。大多数の人がちょっと顔が良くて歌らしきものをテレビで歌っていてドラマにでている人を好んでいる。すごく普通でそれだって真っ当で一般的だ。でも中園には違った。それが違うと思った分岐点は、兄の存在なのだろうか。
朝、米粉ガレットから気分を変えるべくオートミールとブロッコリーと豆乳みそスープを作ってみたが労力があんまり変わらなさそう。今年の冬は外気温がほぼ10度以上なこともあるのか、そんなに寒くない。コートはまだ軽いコートだし、腹巻きは先週くらいからやっとつけはじめた。パジャマの上の羽織もまだ着ていない。体温が上がったからかもしれない。最近36度を超えている。34度台だったこともあるから温かく感じるのかも。何故かは分からないけど。小麦粉は身体を冷やすらしいので控えたのも良かったのかもしれない。
12/30
酔っ払った状態で池袋の世界堂にいた。帰りに寄って画材を買いカードを作るつもりが、酔ったことが想定外だった。住所と電話番号をほにゃほにゃ書くと1つ数字が読めないと言われ、手をパーにして「ご」と言うと「申し訳ありません」と言われる。申し訳ないのはこっちだよ…。
有楽町線から西武の方へ歩いていると何故か鳩が数匹紛れており、ホームレスが数人いた。1人は座位で頭を伏せながらお金か何かを乞うような紙を置いて柱に寄りかかっていた。フードを深くかぶり身なりは割と綺麗だった。もう1人はトナカイの服を着て荷物の山を2つ傍に置き壁へ横向きに足を投げ出して座っていた。裸足で見るからに痛そうに腫れて、汚かった。ホームレスがいるなんて治安の悪いイメージがあるが、いることを許されるなんてむしろ良い街なのかもしれない。百貨店と百貨店の間の白くて眩しい道。普段は景色の一部として何も思わないのだけど、酔っていたせいなのか彼がトナカイの服を着ていたからなのか足が痛そうだったからなのか、近寄り1,000円くらい渡そうかと思った。でも……それはいいことなのだろうか?継続的な支援ができないのにいっときの小銭で何が変わるだろうか。自分は誰かを憐れみ施しをするような立場の人間なんだろうか。彼は可哀想なのだろうか。偽善的で良いことをしたという自己満足を得たいだけなのだろうか。ただここは暖かいし、それこそ誰かがお金をくれるかもしれない。だからここにいるのかもしれない。
暖かな電車に乗りぬくぬくとiPhoneでホームレスがいたらと検索する。まず警察を呼ぶよう書かれていた。付き添い生活保護を受けさせる手続きをするよう書かれていた。違うと思った。警察を呼んだってこないだろうし、きたとて意味がない。彼が生活保護を受けたいなら受けてるかもしれない。あえて路上生活を望んでいるかもしれない。私は自分の気持ちをどう持っていけばいいのか分からないままだ。