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東京大空襲・戦災資料センターへ行ってわかったこと

終戦記念日の8月15日、東京・江東区にある東京大空襲・戦災資料センターへ行きました。自宅に近く、ずっと気になっていた施設。「みんなで学び、伝えよう!東京大空襲」と題した夏休み特別企画を機に、娘を連れて初めての訪問となりました。

ちょうど名誉館長である早乙女勝元氏による「親子のための平和授業」を聞くことができ、心に留めたい貴重なお話だったので、そのエッセンスを記しておきたいと思います。

東京空襲ってなに?

昭和20年3月10日未明の東京大空襲は、約300機ものB29が襲来し、下町地域一帯を無差別爆撃、被災者は100万人、推定10万もの命が失われたといいます。この日を含め、東京は100回以上もの空襲を受けて市街地の5割もを消失したという事実は、写真にも写ってる地図の赤いところが示しています。大半が赤い!

東京は甚大な被災地であり、一般人が巻き込まれた戦地だったのです。
詳しくはセンターのHPにもまとまっています。

知っていたはず、でも忘れがちだった事実。広島の原爆投下時刻に黙祷するけれど、3月10日の未明はどうだろうか。東京にいながら思いを馳せられてないことに気付きます。

イベントはまず「東京空襲ってなに?」の映像。

子どもにも分かりやすく作られている良映像で、問題の本質が多く示唆されていて、この戦災資料センターの説明映像となっています。これだけでももっと多くの人に見て欲しいものです(ここまで読んだならどうか見て!)。

そして、早乙女勝元さんの平和授業へ入っていきます。プロフィールから。

1932(昭和7)年、東京生まれ。12歳で東京大空襲を経験。働きながら文学を志し、18歳で書いた「下町の故郷」が直木賞候補に推される。「ハモニカ工場」発表後は作家に専念、ルポルタージュ作品『東京大空襲』がベストセラーになる(日本ジャーナリスト会議奨励賞)。1970年、「東京空襲を記録する会」を結成し、『東京大空襲・戦災誌』が菊池寛賞を受賞した。1999(平成11)年に映画「軍隊をすてた国」を企画。2002年、江東区北砂に「東京大空襲・戦災資料センター」をオープン。庶民の生活と愛を書き続ける下町の作家として、また東京空襲の語り部として、未来を担う世代に平和を訴え続けている。著書は100冊を超えるが、主な作品に『早乙女勝元自選集』(全12巻)『生きることと学ぶこと』『戦争を語り継ぐ』などがある。ーーーーー新潮社HPより

「平和」を実感した出来事

昭和20年8月15日、早乙女さん13歳で迎えた終戦。
そこで初めて、戦争に負けても生き残れるのだということを知ったのだと言います。そして「平和」を実感する瞬間は、すぐに訪れました。

一つ目は、終戦のその夜、灯火管制が解除され、家の明かりを堂々と点けられたこと。家族の顔が明るく照らされたその光景が、「平和」を感じた瞬間としてずっと残っているそうです。いかに抑制され、我慢の多かった生活だったのでしょうか、当たり前が当たり前でないことは想像するしかありません。

二つ目は、翌昭和21年11月3日、新憲法公布の日。教員だったお兄さんが新聞をしっかり読み、早乙女さんに新憲法の説明をしてくれました。
中でも憲法第9条には、日本は「永久に」戦争放棄する、とあること。そして日本は軍事力を持たないこと。

「では日本が攻められたらどうするの?」と尋ねると、「人間同士の信頼によるところの外交で解決するだろう」と答えられたそうです。その言葉を「平和」が意味するものとして認識した時が、早乙女さんの第一の転機だったかもしれない、と語られました。

人生第二の転機

1970年の6月のある日、戦後25年、38歳の頃、葛飾文化の会を主催していた早乙女さん。歴史学者の家永三郎氏を招いた講演会を帝釈天本堂で行ったのだそうです。
その講演で、家永先生が監修した歴史教科書において、戦争関連の写真の点数に制限がかかったことから、このようなことが続けば戦争の記録が薄れていくと危惧されていたそう。それを聞いた早乙女さんは、東京の戦災についてもこのまま記録さえ残されず忘れ去られることも同様であると、強く認識したのです。

思い立ったら、即行動、時の美濃部都知事へ陳情書を書き始めます。家永先生に相談したり、発起人を集め、その年の8月には「東京空襲を記録する会」を発足して都知事に陳情します。賛同を得たものの、具体的に動くのは早乙女さんたちの役割となり、その後3年の歳月をかけて、「東京大空襲戦災史 全5巻」をまとめるに至ったそうです。

戦争の記録が薄れていくことに危機感を抱いていた家永先生との出会いがなかったら、その後戦災資料を集めて記録することはなかったかもしれないし、ならば資料館も出来てなかったかもしれないのです。この出会いが、人生第二の転機となったのでした。

人生第三の転機

人生の転機三番目は、2003年3月21日。
前日の3月20日に、アメリカ主導型有志連合によるイラク戦争が勃発していました。その日のうちにある団体から戦争反対集会でのスピーカーを頼まれ、早乙女さんは迷いながらも、参加することにします。

翌日行ったのは、新宿駅西口。数人のスピーカーがリレートークをしていくものでしたが、街頭で立ち止まる人がほとんどいなかったのです。誰も聞いていないかもしれないと思いながら、小田急デパートの壁に向かって話をしたことをよく覚えている、と言います。

当事国ではない日本では、たとえ日本がアメリカ支持を表明していても、関係がないと立ち止まりもしないのでした。そういった光景を目の当たりにしながらも、この出来事を通じて感じたこと、それが第三の転機と言えるそうです。間違ったことを言っていないのならば、この活動は続けなくてはならないし、小さな勇気の積み重ねが必要なのではないか?ということ。

早乙女さんはその前年に戦災資料センターを立ち上げていますが、何事も勇気と行動がなければなし得なかったこと。さらに活動を継続していく原動力にあるのも、戦争の記憶が風化してしまう危機感が実感を伴った、いくつ目かの原体験と言えるのではないでしょうか。

そして「平和について考えることも、この場に足を運んだことも、小さな勇気なのではないか」と仰ってくださいました。なんとも恐れ多い言葉です。でも確かに、熱量を持って受け取ったことが多くありました。

会場には他にも空襲体験者の方々もいらっしゃっていて、普段意識することがなかったけれど、地域に住んでいれば実はとてもとても身近なことなのでした。戦後74年が経っても、思いを継ぐ方たちがこの資料館には多く集まっていることも、知ることができました。

「知っているなら伝えよう 知らないなら学ぼう」

二階の展示室では、東京に降ってきた焼夷弾の仕組みを、ボランティアガイドさんが説明しながら、実物を持たせてくれました。

ついでに私たちの記念写真も撮ってくださいました。焼夷弾の前は不謹慎な気も少ししたのですが、記録することも大事なことなのかもしれません。記憶は記録、体験を伴ったことで強化されるので、ガイドさんが一枚上手でした。

この日は夏休み企画でクイズラリーもやっていました。子ども向けとはいえ、展示室を回らなければ分からない問題なので、子どもは喜んで答えを探すんですね。いえ、大人も分からないのですから、親子ともに良いきっかけでした。「知っているなら伝えよう、知らないなら学ぼう」は早乙女さんのお話で、印象に残った言葉です。

その晩、NHK「首都圏ニュース」でこのイベントの様子が流れました。席の間近にカメラがあって、インタビュー取材受けてる子も見ていたので、ニュースができる一連の工程は娘にもインパクトがあったことでしょう。

東京大空襲・戦災資料センターには見切れないほどの資料があったので、また落ち着いて来ようと思います。私は近所なので実は、外国人が訪れてるのもたまに見かけます。東京に来て戦争と平和について考えるならば、ここしかないのです。「もしここがなければ、東京空襲もなかったことにされる」という早乙女さんの言葉が響きます。

↑民立民営ゆえ、維持・発展のために維持会費1口2,000円〜、および維持募金も受け付けています。


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