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『親密さ』を見た

 ポレポレ東中野で見た。
 座席数を減らし、検温と消毒を徹底している中での上映だった。
 255分。いきなり時間の話をするのも申し訳ないが、この上映時間に驚いた。
 途中休憩有りとはいえ、少々身構えつつ上映を待つ。
 上映の数時間前に都からの要請で寄席が休業するニュースを見た。

 やはり映画館も休業になるのだろうか。
 だとしたら今日からしばらくは映画館には行けなくなるんだなぁとぼんやりと思いながら待つ。
 待ちながら、そういえばこの映画のあらすじ、何も知らないな、と思う。
 元々なるべく事前情報をいれずに映画を観たい性格だ。これからの255分をこの映画に身を委ねることにわくわくしていた。

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 映画を見終えて、胸がいっぱいになった。
 感動なんて言葉じゃとても足りない。
 255分という時間を感じさせない凄まじい映画だった。
 舞台に立つ人物たち、芝居を見守る観客と主人公、全員がたまらなく愛おしい。
 終わってからもあの映画に出たひとりひとりに思い馳せてしまう。
 あいつは今どうしてるだろうか、あの人はどこにいるだろうかと考えながら、車窓に写るマスク姿の自分を見つめる。

 映画は第1部構成となっており、第1部の主人公は令子とりょうちゃんだ。
 公演が迫っている演劇の脚本と演出をふたりで行なっている。
 アルバイトをしながら、演者の「弱さ」に焦点を当てた芝居を作ろうと試行錯誤しているが……というのが簡単なあらすじだ。

 第1部は、電車が非常に大切なモチーフとなっていた。
 戯曲とともに書かれた詩『言葉のダイヤグラム』がまさにその象徴だった。
 ガラス越しに交わる顔、交わらない顔。
 他者を「わかる」ことができるのか。
 見えるのに届かない、1枚のガラスで隔てられているような関係の他者を本当に「わかる」なんてできるのか、と突きつけられているように思えた。
 令子はアルバイト中、常連客と血液型に関する会話をする。
 何気ない会話のようにも見えるが、令子はりょうちゃんについて「わかる」ことを口にしていた。
 その中でさりげなくりょうちゃんの「危うさ」にも触れており、その「危うさ」が中盤からはスリルを生んでいた。

 そして令子たちのくらしの中に、演劇の中に、「戦争」が急に身近な存在として現れる。
 心配しつつもどこか他人事として対岸の火事のようにツイートやネットニュースを眺めているが、ある演者には切実な問題となっていた。
 そしてある日、一線を踏み越えたある行動へと発展してしまう……。
 他の演者たちには突飛で気が触れたかのようにも見えるその行動は、この映画を見ている観客にとっては筋が通ったものに見えてしまう。
 このある演者の幼少期の頃の思い出を照れながらもぽつぽつと打ち明けるシーンが美しかった。
 そうだよね、それがこの人の「弱さ」につながっていて、だからこそ行動に出てしまうんだよね、と思えてしまう。人生はなんて皮肉なものなのだろうか。
 
 自分ひとりでも手に負えないのに、何名もの「わからない」他者を自分の言葉や挙動で動かし、ひとつの「終わり」まで連れていかなくてはいけないのが演劇だ。
 令子はその人を「わかる」ためにインタビューをしたり、戦争についてディスカッションを行なったりしていた。
 一見遠回りにも迷子にも見える行動だが、「わかる」ために、ガラス窓の向こうへ行くために、対話を重ね続ける姿は痛ましくも愛おしかった。

 第1部の、真っ暗な夜から次第に陽が登るあの橋のシーン。
 今まで見てきた映画の中で、最も美しい夜明けを見られた。
 あの夜明けのことを思うと、胸がジーンとなる。
 2021年の春にこの映画を見られて本当に良かった。
 ただ歩いて、話をしているだけなのに、それだけでエモーショナルで、深く心に刺さった。
 あの朝陽を一緒に見られてうれしかった。
 朝焼けの空の中を飛ぶ渡り鳥が忘れられない。

 第2部はその演劇の始まりから終わりまでを撮影したものだ。
 実際にお客さんも入り、演出の令子も客席で実際の公演を見守っている。
 第1部で胸いっぱいになってしまった後で、まるまる2時間劇中劇を集中して見られるだろうか、と休憩中に自分の身(腰痛持ちなので主に腰)を心配してしまった。
 しかし、始まってすぐに引き込まれた。

 第1部では完全に「脇役」として登場していた演者たちがこれ以上になくいきいきと、そして魅力的にそれぞれの役を演じていた。
 最低限の小道具と、床に貼られたマス目上のテープが印象的だった。
 そしてこの小道具やテープがこれ以上になく活かされていた。
 最低限の小道具の中でも飲み物だけは実際に使われていた。
 コーヒー、紅茶、お酒、水、常に登場人物のそばには飲み物があり、時折口にしている。
 ただディティールを深めるためにあるものなのかと思いきや、水は思いも寄らない使われ方をする。
 
 第2部では、届かない手紙(言葉)が大切なモチーフとなっていた。
 皮肉にも郵便局で働く人に届けたかったあの手紙。
 いくら言葉を尽くしても、言葉を交わしても、すれ違ってしまう瞬間がある。
 それぞれがそれぞれの形で他者を思い、「わかろう」とする。
 だけどそれが残酷なまでに伝わらず、断絶してしまう者もいる。
 こんなに話しているのに、どうして通じないのだろうか。
 この演劇は何台ものカメラで撮影されており、小津映画のようにカットバックで対話を見せたり、実際には演劇を見にきたお客さんには見ることができない、客席から背を向けた演者がどんな顔でセリフを言っているかを映画だからこそ迫れる方法で撮っていた。

 映画として演劇として詩として言葉を紡ぎ続ける本編の中で、岡本英之氏の歌だけは言葉から解放され、音楽となっていた。まさに全身を楽器のように操りながら声を絞り出す様に涙が出た。

 そしてラストに、演劇を終えたその後がエピローグとして映し出される。
 あのラストには驚いた。あの人物が、あんな姿になっているとは。
 「北の詩人」、「暴力と選択」そして「衛」という名前すらも、このラストに繋がるために運命づけられているように思えた。
 そして電車は近づき、すれ違う。
 第1部序盤でのチャーミングなシーンが、こんな形で変奏するとは。
 素晴らしい終わり方だった。

 帰り道、2本のドキュメンタリー映画が思い浮かんだ。
 想田和弘監督の『演劇1.2』と山崎裕監督の『柄本家のゴドー』だ。
 『演劇1.2』で体感した、青年団の本番前と本番中のような緊張感を久々に味わえた。
 そして特に『柄本家のゴドー』内で柄本明氏が話す「人は他者を“わかる”のではなく、誤解し続ける」という言葉を思い出した。
 他者のことを「わかる」ことなんてできない、「わかった」と思う時は大体誤解しているのだ。
 『柄本家のゴドー』を見てから「わかる」という言葉を気軽に使えなくなってしまった。
 「誤解しつづける」ということは、人と人がわかりあうことはこれから先もできないのか、ずっと1枚のガラスを隔ててすれ違い続けるのか、と考えてしまう。
 でも、たとえそうだとしても、私はこれからも人と話し続け、見つめ続け、考え続ける。

 いつか、通り過ぎていく窓越しにありったけの愛を込めた投げキッスができるように、「さようなら」と手を振れるように。


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