高校野球とヘッドスライディング

自己紹介だけして放置したnote、気がついたことを気まぐれで書いていきます。
都市観察、というテーマなので、世の中の気づいたこと、思ったことをつらつらと。

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オリンピックが終わったと思ったら、翌日から高校野球甲子園が始まった。

個人的意見なんだけど、最後の打者が内野ゴロだった時のヘッドスライディングがどうも苦手だ。

甲子園で頑張る球児のことは全く否定しない。むしろあれほど理想に向かって努力できる時間を過ごせることは素晴らしいし、自分も学生時代、野球とは違う競技だけど練習に明け暮れる日々を過ごしたので、それがのちにキラキラと輝く思い出になり、自分自身を大きく成長させてくれることも知っているつもりである。

でも甲子園の最後のヘッスラは苦手だ。見ていていつも最後に気持ち悪さが残る。まるで甲子園の舞台でプレーするというのはそういうものだという固定概念に囚われていて、それを選手が自己演出しているように見えてしまうからだ(だいぶゆがんだ見方かもしれない)。
思えば幼い頃から、夏休みには気がつくとテレビに甲子園が映っていて、かなり高い頻度で最後のバッターは内野ゴロ→ヘッスラ、だった気がする(記憶が多少デフォルメされてるかもしれないが)。

優勝したらマウンドのピッチャーのところに集まってみんなで人差し指を天に掲げ飛び跳ねる、という定番もある。偉そうな言いぐさだが、まぁそれはよい。オリンピック選手がメダルを噛んで写真を撮るのと同じで、喜びを表現する方法だ。市長が噛むのは許せないが。

でもヘッスラは違う。セーフになるためにヘッドスライディングをするのが最も確率が高いのであれば1回の表からやるはずだし、当然プロ野球でもやるはずだけど、そんな選手は見たことがない。たぶんヘッスラでのベース到達は走り抜けるよりも遅い。場合によっては、すでに一塁の守備がボールを掴み、審判がアウトのジャッジをし、勝ったチームの選手たちが満面の笑顔でピッチャーマウンドに集まる動作に入っている画面の片隅で、遅ればせながらヘッスラをする選手さえいる。パフォーマンス以外のなにものでもない。

彼らは甲子園の最後のバッターが内野安打を打ったらヘッスラで一塁に到達するのが美学だとさえ思っているんじゃないか、という歪んだ見方で見てしまう。だってどうしてもアウトになりたくないから死ぬ気で一塁まで走る、という気持ちで溢れているのなら、やっぱり駆け抜けるはずである。
こういう見方で見ていると、負けたチームの選手全員が負けて悲しんでいるわけではないんじゃないか、とさえ思ってしまう。こういうと高校野球ファンに非難されそうだけど、ゲームセットの時に泣かずに礼をしているやつは非国民みたいな感じあるから、涙出ないような奴はもしかしたら腕で目のあたりを隠して、泣いてるフリしてるんじゃないかとか思ってしまう。

見る側は勝手に選手の努力をドラマチックに見る、選手も選手である意味「敗北した悲劇の高校野球選手」と演じている側面があるような。私のような人間は、画面越しに泣いていない選手がいないか探してしまったり、発見するとふと安心してしまったりする。よく見るとなんだか横目でチラチラとチームメイトを見て泣いていないか牽制しあってる、ようにも見えてくる。

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と言うのも、実際に自分もそんな気持ちが半分ありながら選手時代を過ごしていたところがあって、頑張りたい反面、もううんざりの気持ちもやっぱりあった。自分はバレーボールをやっていたんだけど、当時はいまよりももっとスパルタだったし、怒られないためにやってる感があったし、他のぶらぶらしているような同級生のようにカラオケ行ってプリクラ撮りたいなーと思っていた節もある。

だからやっぱり中には「あーやっと終わった〜」と思ってる選手だっているはずだし、みんながみんな、テレビや観客が求めている何かを演じなくてもいいのに、と強く思う。

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