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自分を信じて、自分を疑う

最近、子どもたちと話していると、自分に自信を持てない子が多いんだなぁと感じます。

毎回のテストでどんなに点数が良くても、部活の大会で上位の成績を収めていても、「いや、自分なんて」という言葉をよく口にします。
挙句「自分は努力しても大した人間になれないと思います」なんて聞いてるこちらが悲しくなるような言葉も…

もちろん自分も彼らと同じ年代の時は劣等感の塊だったのでわからんでもないのですが、こんなに毎日のように塾に来て勉強をしてるんだから、もっと自分の頑張りを信じてあげてもいいのにと思ってしまいます。

しかしどうやら話を聞いていると「今のできない自分を信じてしまったら、なんだかただの甘えになってしまうのではないか。」という感覚に捉われてしまっているようなのです。

なるほど。「自分を信じること」は、成長するために「自分を疑うこと」の妨げになると感じているのかも知れません。

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『自分を信じる=自分を疑う』?

これはあくまで持論ですが、「自分を信じて自分を疑うこと」は矛盾しないと思います。

むしろ「自分を信じていないと、正しく疑うことができない」というのが私の考えです。

どういうことかというと…
信じるものと疑うものの対象は、全く違うと思うのです。

信じるべきは、自分の『目的』です。
自分はこうなりたい、こう在りたいという理想を持って、それに向かう気持ちがあるということ。

これを強く持っている人は、途中どんな困難や障害があっても、ゴールに向かう目的がはっきりしているので前に進めたりするわけです。

目的を持つのに条件なんて要りません。
お金がないから無理そう。学力がないから今からだと難しそう。
そんな条件は無視して「俺はこうなりたい」ただそれだけを無条件で信じればいいんです。


一方、疑うべきはそのための『手段』です。
目的達成のために、その手段は最善か。
もっといい方法はないか。まだやれることはないか。

時代や環境によって最適な手段は変化し続けるわけですから、これに関しては大いに疑うべきですし、疑うことで気付き、行動が変わり、成長し、理想に近づきます。

つまり、自分の『目的』を明確に信じれば信じるほど、今選択している『手段』を正しく疑うことができ、試行錯誤して、前進するスピードが上がる、というのが実のところではないでしょうか。だって、大事なのは目的を果たすことで、そのための手段なんて何だっていいはずですから。

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なぜ手段に目が行きがちなのか?


難しいのはその『目的』が何かを自覚すること、なんですよね。

進みたい進路がない。別に夢や希望する職業、理想の人物像があるわけでもない。
それなのに途中途中の結果や現状だけを見て周りと比較し、『手段』だけを闇雲に疑うから、よくわからなくなって自信が持てなくなるのかな、というのが私の勝手な推測です。

私も夢や目標なんて大してなかった人間ですが、今の自分は結構好きです(笑)。
でもそれは、「こういう大人になりたい」というのが20代よりも明確になってきたからだと思います。
まだまだ社会人としてできていないこと、わからないことの方が多いです。
でも”学ぶ姿勢だけは忘れない”という小さな目標があるので、現状の未熟さを憂うことも少なくなりましたし、逆に少しでも自分から勉強や読書の時間をしっかり作ることができただけで「昨日より前進してる!」と小さな自信を積み重ねることもできるようになりました。

これは余談ですが、やはり子どもたちの目から見た社会は「成功しても、ちょっとミスしただけで転落する世界」に見えているのかな、とも思います。つまり、成功のために頑張ること自体を恐れているようなのです。

だから「自分はこの程度の人間なんです」と納得することで、その恐怖から回避しているのかも知れません。

もちろん誰も彼も成功者を目指すべきとは思いませんが、果たしてその生き方で人生を豊かにできるだろうか、という懸念は大きいです。

生徒たちに「夢を持て」なんて恥ずかしいことは言えませんが、「なりたい自分に向かっている感覚があるだけで、人生結構楽しいよ」くらいは伝えられたらなと思う今日この頃なのでした。

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