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bibouroku#8

久しぶりの備忘録投稿。前回の投稿からどれくらい経ってるのかわからないけど、今回も中身があるような無いような感じでつらつらと書いていく。(白くて小さい丸。輪郭ははっきりと、影付きでふわふわどっしり浮いている感じ)

先日、坐禅をした。なぜ坐禅をするに至ったかというと、先月くらいに「人と人って経験とか価値観とか積み上げていくとぶつかるから相互理解できないじゃん」と思い、それなりに手詰まりになっていた時に、「自分の次元を上げればぶつからないよ」と示してくれた人がいて、素直に「なるほど」と思ってから禅を勉強し始めた。とりあえず鎌田茂雄「禅とは何か」を読んでみた。なるほどと。本の内容はそれなりに共感できたし勉強になったのだが、如何せん禅というのは実際に打坐してみて初めて禅なのである。なので本を読んだくらいではなんにもならないことがわかったので実際にやってみた。

お寺に電話をしたら次の日に来ていいよということだったので実際行くと、やはりお寺。雰囲気がある。肝心の座禅はどうだったのかというと、とても楽しかった。どれくらい楽しかったかと言われれば、帰りの車の中で「座禅たのしー!!」って言いながら帰ったくらい楽しかった。

どこが楽しかったのかというと、坐禅を住職から簡単に「こうするんだよ」的な感じで教えてもらうのだが、はじめは形だけ、姿勢を保つままでひたすら何も考えない。無心になるのだ。鎌田茂雄「禅とは何か」によれば、仏教は心を必ず六種に分けるという。そのうち最も重要なのは意識であるが、仏教ではこの意識を五倶の意識と独頭の意識の二つに分類する。そのうち独頭の意識のうち常中意識というのがある。禅定の時、意識が統一された時に起こる意識だという。臍下丹田に気を集中し、意識を純化して行く時、この禅定意識がはっきりと現れるという。

私が打坐した時に感じたものは、禅定意識の至極表面、触れたくらいだと思う。普段ではたどり着けない、人生で初めて集中した時間だった。

同じく同書によれば、末那識とか阿頼耶識は無始以来、不断に活動している自我の根源であり、それはまた迷界の根本でもあるという。阿頼耶識は迷いの根源であるが、修行によってこれを「大円境智」にかえなければならない。大円境智とは、鏡のように明浄で一点の曇りもなく、不生不滅の当体である。我々の醜い心を掘り下げ掘り下げてゆくならば、その奥底には無限に湧き出たる清冽な泉があるのだ。それが大円鏡智である。そうして悟界に入ることができるという。

私の感覚の話で申し訳ないが、私が触れたものが禅定意識なのか、大円鏡智なのかそれはよくわからないが、とにかくもう一度あれに触れたい。そう思うようになった。あれが何なのか、もう少し触れて感じたい。なのに意外と坐禅をするぞ!という感じにならない。うーん。確かに疲れはするから人間的にはあんまり合理的では無いのかも。

私が「坐禅をした」というと「僕もしたことあるよ」という大人の方々は割といる。でも「何も感じなかった」とか「よくわからなかった」とか、意外とそんな返事ばっかり返ってくる。私が感じたものをその人も感じる必要はないが、帰りの車の中で「坐禅楽しーー!」と言いながらニコニコしていた私とどのような部分がどう違ったのか、世界に触れる条件とは何か、そんなことを考えたりもする。

でも触れた方がいいことしたみたいな嬉しさになってしまって、自分のことをやれやれと諌めたりしている私はまだまだ子供だと最近改めて思うようになった。何回も出入りすることができるようになれば何だか人に自慢してもいいのかもしれない。hahaha。

とか何とかいいながら、最近引っ越しをした。これまで浅浦分校に住んでいたが、鈴山農園への就職予定を取りやめて自分のやりたいことを全力でやることにしたのだ。農業をやりたくなくなったのではない、他のことをさらにやりたくなった。そんな感じだ。

以前は「人と人との対話から生まれるエネルギーが新たな事業やコミュニティや世界を想像するときに、どんなことが条件で、そのためのエネルギーはどこからくるのか」というのが私の興味のテーマだった。テーマだったと言いながら、それに対して話を弾ませる人がいなかったので自分で問いを立てておきながら「そんな世界あるんかい?」と疑心暗鬼になっていたが、坐禅をして宇宙をほんの少し知ってみて、それに比べればそんなテーマはあって当然だと思うようになった。

何ならそんなテーマはどこからくるのかとか、何がそのテーマを問いとして成立させているかなどなど疑問は尽きないが、それを分解するフレームワークというか知恵が私にないことがいま一番の問題だ。以前はそんな問いを立てた時に「俺意外とやるじゃん...!」と思っていたのだが、最近は「じゃあそれにどうやって取り組もうか...ハハハ」みたいな途方もない感じになっている。

それはいま現在世の中にあるものをたくさん自分でやってみて検証することになるのだろうが、一冊だけ光明の見える本を見つけた。

ジャック・ジェルネーLes Aspects Economiques du Bonddhisme.

というフランスの古書。何が書いているかというと、何故に仏教には財宝を捨てて出家せしめるようなエネルギーがあるのであろうかとの疑問に対する見解である。その問いに至った理由は調べてください。。。

兎にも角にも何だか私と同じようなことに関心を持っている人がいて、本まで書いてくれていたので、この時代検索したら本くらいは買えるのである。現在フランスから取り寄せ待ちである。もちろんフランス語で書いてあるがもちろん私はフランス語ができない。Deepl様で何とかできないかなと思いながらも、日本の古書でも言い回しがややこしいのにフランス語の古書なんて。。。と思う。外国語を習得する一番の近道は外国人の彼女を作ることらしいが、フランス人の彼女を40日以内に作るハードルは高い。いっそフランス留学したいもんだ。

ちなみに本を買ってから日本語訳があるかもしれないと思ったが、既に買ったので探していない。見つけた方は私に教えてください。

この本を読めれば、同じような問いに対するアプローチがわかるぞ!と思いつつ、これは仏教と経済学だが、他にも世の中にはいろんな学問があるのでどんなアプローチが自分に合っているのかなとかそんなことを考え出すとキリがない。うーん。

とりあえず、似たようなことを考えている人と仲間になりたいし、似たような本を見つけて構造と本質を見てから私の疑問に当て嵌めたりするか。哲学を体系的に学ぶのはあんまり得意ではない。誰がどの系譜にいて全体的にはどんなポジションなのかなど把握することにはあまり意味を感じないし興味もないので誰か分かりやすく教えてください。

そんなこんなで考えていると、本を読んでもつまらないものが増えてきた。現象の解説とかフレームワークとか、ただ情報が羅列しているものは本質がなかったりするとあまり面白くない。本質を自分で探しながらこれまで読んできたが、なぜかつまらないと思うものが増えてきた。本の中身がないのか、私が驕っているのかわからない。読まないよりマシだろと思いながらも、ただ知識を入れることに意味はないことがわかっている以上、やる意義を感じなくなってきてしまった。

いろんな知識は手段でフレームワークなんか最たるものなので、本質とか分解できないところもしくは私が理解できないとか知らない分野の本でないとあまり読む気がしなくなってきた。完全に驕っている気がする。謙虚さが足りないというか、刺激を求める私の性格から、刺激不足なものに興味を示さないようになってきている。わからん。どうしよう。

一方で本質の見方とか、本質の色とか形とか原型的イメージとかはまだ漠然としか掴めていない。これの精度を上げるようにいろんな本を読みながら訓練することが必要だとは感じている。そんなことを感じながら出会ったのが小林秀雄対話集「直観を磨くもの」だ。何だか私の課題にそれっぽいテーマがあてがわれたような気がして思わず買った。直観ってのがいいよね。

そんなことを考えながらも、講義は受けないといけないし、農業に就職するのもお預けにしたので絶賛就活中である。どうなるかわからないが、やることはたくさんあるし、禅のおかげで心は落ち着いている。たくさんイベントがあるのも嬉しい。早くSDGsファシリテータやってみたい。

というのも先日SDGsファシリテータになった。何のためになったのかというと、「対話による世界創造のためのエネルギーの根源はどこか」を実験するために、自分で場を起こせるファシリテータになったのだ。これが検証できるというのは嬉しいし、プロセスが社会のためにSDGs認知に結びついているのもなお嬉しい。そしてファシリテータの人たちは皆さん頑張っておられて刺激を受けたりして、仲間ができた感じがするのもなお嬉しい。嬉しいづくしだ。

明日から頑張るぞ!と言いたいが卒論も卒業までの取得単位数も足りないので年内は縛られまくりだ。それでも熊本や大分や福岡などいろんなところへ行く予定なので側からみれば「縛られてないだろ」と思われるに違いない。楽しいことは多い方がいいのだ。

以前はnoteをたくさん更新して自分を空っぽにすることが多かったのだが、最近は考えとか価値観が更新されるのが早すぎてあんまり投稿できていなかった。だが引っ越しによって環境を変えて、自分が集中するには適していない状態だからこそこうやって投稿することができて何だか懐かしい感じになる。自分から文字や情報を抜いて抜いてその奥に何が眠っているのか、何があるのかみたいなところは最近感じてなかったので、それはそれでテーマにしたい。人生のテーマ集が必要だなあ。

昨日、最近私が推しているヨシダナギさんの写真展「DRAGQUEEN」に行ってきた。感想がありきたりすぎるが、すごく良かった。というのが素直なところだ。見た目には奇抜な彼女らだからか、初めは「どんなことが本質にあるんだ」「何を訴えたいんだ」みたいな見方をしていたが、最後の方は「なんだ、僕たちと全く同じじゃないか」という当たり前すぎるところを見つけるところができて、何ならメイクをしてほしいなあと思って展覧会を後にした。誰しもDRAGQUEENなのだ。

ヨシダさんの写真はとっても良くて、彼女らの世界観をそのまま切り取る、というより掬って水槽に詰めて展示した。そんな感じだった。水分高くて潤いがすごいけどシャープ。かつ奥行きが凄くてそこが見えない。でも全体的に明るい。そんな写真だった。初めて写真に魅了されたかもしれない。また行きたい。

最近は自分のことを友達に話したりしていたのであんまり自分の中に溜まっているものはなかったが、noteに書くとサービスが終わらない限りは見返せるので(今まで一回も見返したことはない)やっぱりこっちの方が安心して忘れられる気がする。自分の手帳とかに書けばいいじゃんと思うかもしれないが、手書きだと手が思うように動いてくれないからやっぱり投稿する。これで明日からまた安心して新しいものを食べることができる。ありがとうnote!

ではこの辺で。

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