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子供部屋と大人部屋、カラフルとモノトーン

人はいつ、子供ではなくなるのだろうか。

カーペットとの決別

今日、幼稚園の頃からお世話になったカーペットとお別れした。カラフルで、道路や街が描いてあって、その上でミニカーを走らせていた幼い頃の思い出。だが今はもうそうしては遊ばなくなった。トイストーリーに近い哀愁を感じる。

手放そうと決めたのは、部屋で作業をしているとどうもそのカラフルさがチラつき、疲れてしまうからだ。色が多いとどうも目がそちらを向いてしまったり、視界が煩かったり。カーペットを剥がすと綺麗なブラウンのフローリングが現れ、落ち着きが訪れた。

ミニカーのフィールドという本来の役目を終えた、というそのデザインが持つ性格でもあるだろうが、私が色の多いものよりもモノトーンを好むようになったのはもっと別の理由があるのかもしれない。そのひとつが、「もう子供では無くなってしまった」ということなのだろうか。

子供から大人へ

小さい頃に描いた絵を思い出して欲しい。塗り絵でもいい。沢山の色を使い、「虹色」と称して色を染めたものは無かっただろうか。私は幼少期のぬりえ帳を開くと数ページはそういう状態になっている。

だが、今はどうだろう。そんなことはあまりしない。数種類でまとめた方が無難に綺麗になることを多くの人が知ってしまった。世の中のファッション系サイトを見てみるといい。大抵は「モノトーンでまとめて、差し色は1色まで! 柄物よりも無地が無難で、アクセ
サリーも1個まで」などと言ったことが書いてある。

これは真理であり、無難である。多くの人に好まれるし、誰がやっても失敗はまずしないだろう。別にこれが悪いと言っているわけではないし、私もよくやるファッションだ。

だが、このモノトーンを好むようになったのは小さい頃の「冒険心」「好奇心」「エネルギー」などが失われてしまったからでは無いだろうか。奇抜な色の服や独特な形状の服は正直言って着こなすのが難しいし、その人に合った奇抜な服というのも探すのが難しい。人それぞれ似合う服は違うからだ。だから無難にいこうとする。家具だってそうだ。あまり見かけない様なものを買って失敗したら勿体ない話だから。

世間様だってそうだろう。とりあえず進学し、とりあえず就職して、とりあえずレールに乗っかっておけばいわゆる「普通の人生」が送れるという神話が未だに存在している。真偽はわからない。自分もレールに乗っかっている側なので何とも言えない。

ただ、私は小さい頃の無鉄砲さを忘れたくない。様々な色の共存を好み、カラフルで楽しいと声高らかに笑っていたあの頃の爆発するようなエネルギーを失いたくない。今日、カーペットを捨てる代償にそんな気づきが得られた。
新しいことをするにはリスクを伴う。先例なんてあるわけがない。どんな結果に転ぶかもわからない。だからこそ「面白い」。そう思えるようになりたいし、そういう意味ではいつまでも子供の心を持ち続けたい。

カラフルな社会

カラフルの話をしていて思い出したが、多くの大人はモノトーンを求めるだろう。無難で扱いやすいから。無難なのは事実だが…社会自体をモノトーン化していないだろうか。
「このくらい常識だよ」「教養だろ?」「普通はこうじゃなきゃ」「○○らしさを大切に」「△△すべき」こういった言葉が溢れている気がする。これは単一の価値観に人間を落としこもうとしている策略なのだ。なぜか? それは、管理がしやすいからだ。自分の理解の範疇に収まるからだ。

しかし人はそう単純ではない。それぞれ個性を持ち、一人一人ひとつのピースとしてカラフルなパズルを作っている。その個性を別の色で塗りつぶし、1色に染め上げてしまっては…パズルは面白みが無くなる。個性は死ぬ。誰であっても良くなる。社会は腐る。
だから、皆何かしらの特性・個性を持っていて、それを活かせるようにすることが大事だ。これを読んだ人は、自分のコミュニティでこれを適用できるように務めて欲しい。

マジョリティなどない。全員がマイノリティである。あなたはあなただから美しいんだ。他の誰かになる必要は無いんだ。


話が錯綜した。徒然書いているから申し訳ない。
前半は、子供の心を忘れたくないという話。
後半は、カラフルな社会の話。後半の話は、また今度しっかりまとめてみようと思う。

読んでいただきありがとうございました。
それでは。