僕はヒーローになれない。

僕はヒーローになれない。そう気づいたのはいつだったろうか。

僕は小さい頃、漠然とヒーローに憧れていた。人並みに戦隊モノや仮面ライダーを見て、悪を倒したいという幼稚な正義感を養った。健全な少年だった。

誰かのヒーローになりたい。僕は漠然とそんな思いを抱いていた。ヒーローになりたくて、人に優しくするようになった。悩んでいる顔を見ているのが辛かったし、なんとか笑顔にできたらいいといろいろ力になろうと努力した。だから友達が宿題でわからないところがあると言えば教えようと張り切って努力したし、仕事を抱えている子が居れば手伝った。そうやって自分を保っていた。

小学校高学年~中学校の頃だろうか。だんだん分かってきたことがあった。過度な手助けはお節介であること。どう頑張ったとて僕は悩んでいる相手自身ではないから、気持ちを完全に理解することは出来ないこと。邪魔をしてしまい、かえって問題を複雑にしてしまうことがあること。

そして、僕は決してヒーローになれないということ。

ヒーローになりたい、そう思った時、自分の善行にエゴが突き刺さるのである。善は偽善と化す。無意識に見返りを求める自我が芽生える。「僕がこれだけやってやったんだから、成果が出なければならない、感謝されるべきだろう」、そんな傲慢な自分の存在を認めざるを得なくなる。

「ヒーローになりたい」と思った瞬間、ヒーローになることはできなくなる。

これは一種の呪いである。人間である以上、自分本位の考え方からは逃れられないし、結局は自分可愛いエゴイスト。僕は今まで何のために人助けをしてきたのか。本当に相手のため? 気持ちのベクトルは自分へ向いては居なかったか? 「助ける」なんて烏滸がましい。上から人を見ている。対等な関係を目指していたのは誰だ。この僕だろう、いい加減にしてくれ。

自己嫌悪に苛まれた。この頃からしばらく、友人の悩みに干渉することを止めた。極端な行動しかできない僕は、人との関わりを減らしすぎてしまった。友達は減った。だけれども、どこか少し心地よかった。

だが、それも長くは続かない。結局友人が辛そうにしているのに自分だけのうのうと生きているのは申し訳なくなり、無駄に首を突っ込む生活に戻った。人のために行動している間だけは、自分を好きでいられた。やっぱり自分のための人助けに過ぎないし、利用しているようにも感じられて一人でいる時はやはり自己嫌悪のスパイラルに陥った。もう、どうしていいかわからなかった。

高校に入ってからか。具体的な時期は忘れてしまったが、ある時一段階前に進めたきっかけがある。それは「ヒーローになる」ことを諦めたという事だ。それまで僕は、「僕はヒーローになれない」なんていいながら誰かのヒーローになる夢を情けなくぶら下げて歩き続けていた。その夢はいつしか足枷となり、エゴを引っ張り出す化け物と化していた。

だから、諦めた。そして、ヒーローになれなくてもヒーローに限りなく近づくことは出来ると気づいた。この「ヒーローへの執着」からの解脱が僕の背中を押したような気がする。以前よりも心から相手のためを想って行動ができるようになった。不思議とエゴが顔を出すことも少なくなった。

諦めというものは素晴らしいもので、ポジティブな諦観は次への足がかりとなる。何かに執着していた自分を殺し、その屍を踏み台にして高みを目指す。脱皮のようである。人間であるために不可能であることは残念ながら多々ある。絶対に逃れられない、達成することのできないことに執着するのは美しくも儚く、そこに一生を注ぎ込むのはいささか勿体無いかもしれない。まあ、少しでも可能性があるのならば話は別であるが。

正直なところ、今でも何が正解かわからない。お節介な性格は変わっていないかもしれないし、やっぱり邪魔になるかもしれない。だけれども、何か少しでもあなたの糧になっていれば嬉しい。そう思って、ちょっとだけ、困っているあなたに手を差し伸べたいのだ。不要ならばすまない、何しろ距離感がわからない。だけれども、大切なあなたの笑顔が僕の幸せであるということは変わらない。あなたの夜を超えるお手伝いができればいいなと思いながら今日もこの文章を書いている。

僕のちっぽけで稚拙な行動が、バタフライ・エフェクトの如くあなたを笑顔にする要素の一部分となっていてくれれば僕は嬉しい。

なんて期待している僕は、まだまだ未熟だ。