「二人だけの世界」の気持ち良さと危うさ(「きみと、波にのれたら」を見て)
1.まえがき:恋愛ものって何を楽しめば良いの?
梅雨が明けて初めての週末。初めて緊急事態宣言下で迎える夏です。
2020年の夏はちょっと涼しくてオリンピック日和だなあ、と思った記憶がありますが、2021年の夏は幕開けから最高気温の記録を伸ばしていこうという気概が感じられるのもオリンピックイヤーらしくていいんじゃないですかね。
どこに行く気力も起きず行けるわけでもなく、Amazon Primeで見たのが「きみと、波にのれたら」でした。
湯浅政明監督の作品でいうと、「四畳半神話大系」~「夜は短し歩けよ乙女」で見るようになったものの、ほかの作品も取り立てて好き!というわけではなく、特にNetflixオリジナルの「日本沈没」は一気見して夜中に死にたくなった。
そして「きみと、波にのれたら」についても、映画館公開当時は予告編を見て「どうやらしっかりと恋愛ものだな……」と思って結局見ていませんでした。
(この件に限らず、ある作者のこの作品は好きだけどこの作品は別に、というのは往々にしてありがちですが、どれくらい一般的なことなのかわからない。)
ここでいう「恋愛もの」は、ざっくり言うと、メインの二人が、くっつきそうでくっつかなくてでもくっつきました!とか、くっついたけど色々あってわかれました!という料理を、ほかに副菜も汁物もなしに単体のメニューとして出してくる、というイメージです。
そこで揺れ動いたり衝突し合ったりする感情を体感しながら楽しめば良いのだろうと思うのですが、恋愛というフォーマットをベースにする必要もなければ、むしろフォーマットに寄ることで肝心の部分が捨象されてしまっている気もします。それは果たして何を楽しめば。
(いわば、晩御飯のおかずが納豆だけ、というのに対して、納豆は好きだしそれでご飯も食べられるけど、えっ!? と違和感を覚えるのに近いかもしれません。なったことないけど。)
では何で今回見たのかといえば「まあ、ものは試しに……」くらいの感覚でして。サーティワンでいつも目に入っているけど頼んだことのなかった古参のメニューに手を出したくなったみたいな感覚。なったことないけど。
そういう、おそらくはこの映画の受け手として想定された範囲の外の人の感想なので、以下はこういう外れ値もあるのかと思ってもらえれば良いのかと思います。
2-1.どこまでも一貫した「二人だけの世界」
本作のあらすじはWikipediaに一から十まで載ってしまっているのでそちらを御覧いただければと思いますが、一貫してそこにあるのは、本作の主人公、向水ひな子と雛罌粟港の「二人だけの世界」です。
その「二人だけの世界」の最たる例といいますか、見終わってなお一番記憶に残っているのが「ご飯を食べる時も手をつなぎたいから、利き手と反対の手でご飯を食べる」シーン。
ひな子と港が雪の降るキャンプ場に立てたテントの軒先で並んで座ってオムライスを食べるそのシーンです。
なるほど確かに相手を想う気持ちの溢れるエピソードだなあとわからなくはないものの、たぶん電車で自分の前に座っている人とかファミレスの隣の席とかから聞こえてきたら「いるんだな……」と思うし、その話をしている人たちも「いるんだよ!」という文脈で話している光景が浮かんでいます。
そういうシーンが、体感で映画の冒頭3分の1くらい続きます。
若さゆえ、あるいはひな子(港)の性格がゆえのそういうシーンを(私としては)普遍的に微笑ましいとは思い切れず、どう受け止めれば良いのかわかりませんでした。「いるんだな……」状態がずっと続きます。
(色々と感想を見て回ると、そういうシーンをまっすぐに良いと思った旨のものもあり、また監督のインタビュー記事等を見る限りでは「このバカップルめ!」と囃すくらいの見方が本来なのかなという気もしています。)
2-2.「二人だけの世界」の気持ち良さと危うさ
その3分の1を経たところでストーリーが転換します。
港が海難事故で亡くなり、ひな子は悲嘆に暮れるある日、二人の思い出の曲を歌うことでひな子にだけ水中に港が現れるのが見えるようになります。
それからというもの、ひな子は透明な水筒を持ち歩いたり、あるいは人間大のスナメリの浮き袋を水で満たして連れ歩くことで、港との生活を楽しみます。
ひな子にしてみれば、目の前に雛罌粟港がいて、ただ「二人だけの世界」に浸っていることに変わりありません。
(水中の港視点の映像があるのを考えれば、港はひな子の幻覚ということでなしに主体として「二人だけの世界」を構成して生きており、きちんと「二人だけの世界」は出来上がっているといって良いと思います。)
翻ってその姿を見た周囲の人は、(恋人に先立たれた人が)水筒や水面、遺品に思い出の曲を歌って話しかけているやばい人だ、という反応を示してくるようになります。
いわば、2-1で述べた「どう受け止めれば良いのかわからない」感じ、傍から見る側の居たたまれなさがよりはっきりと再現されてきます。
ここに、前3分の1のシーンでは(ほぼ)描かれなかった「二人だけの世界」の中と外の隔絶が顕わになり、前3分の1の甘々なシーンが生きてくるのか、と(見終わってから)感じるようになりました。
しかも観客は、ひな子の視点と周囲の視点もどちらも持ち、隔絶した「二人だけの世界」の中と外を行き来することができ、中にいる時の気持ち良さと外から見た時の危うさを一体のものとして体感することができます。
その双面的なありようを通じて「恋愛」を描いていたのか、と見た後になってようやく合点が行ってしまいました。
2-3.洋子が良い
その「二人だけの世界」の中と外というのは、洋子がラストに言う「恋をしないなんてバカのすることだ」にも表れているのでしょうね。
それまでは「恋なんてバカのすることだ」と言っていた洋子が、山葵との恋に落ちて(「二人だけの世界」の中に入って)見方を変えていく流れは、上述の中と外の行き来を物語の中で体現してくれているようです。
(全体的に台詞がうろ覚えです。すみません。)
ちなみに全然関係ないですが、この映画を見終わって一番印象に残っているのがその洋子なんですよね。
それというのは、上記のとおり観客(である私)に近い立場で主人公を見ていたというのもあるのだと思いますが、本筋の陰に隠されながらちょっとずつ垣間見える洋子と山葵の関係性が見ていて非常に心地良くて(受け手としてはちょうど良い糖度で)にやにやしてしまったのも、大きな要因な気がします。
あとは素直に洋子がかわいい。
3.書き下ろしの曲を「思い出の曲」にする効果
それからまた別の話ですが、御覧になった方は承知のとおり、この映画の核となる曲として、エンディングテーマでもあるGENERATIONS from EXILE TRIBEの「Brand New Story」があります。
上述した「思い出の曲」でもあるわけですが、実は幼少期に出会っていたひな子と港の海岸でのシーンで流れている曲であり、(それがゆえに)ひな子と港が近づくきっかけともなった曲で、まさにひな子と港はこの曲によって結ばれているわけです。
また、ひな子と港が初めてこの曲について取り上げた時にも、昔からある曲だというふうに述べています。
そういう立ち位置の曲に映画のための書き下ろしの新曲を持ってくるのは、なかなか不思議な試みだなと思っていました。
それこそ観客にも主人公の感覚を共有させたいのなら、多くの人が知っている(ことにより、港やひな子の共感を持てる)昔ながらの曲を持ってくる方が無難な気はします。
そこにあえて二人にしかわからない(観客は二人ほど親しんでいるわけではない)曲を持ってくる効果を考えてみると、描こうとしているもの(馴染みの曲をきっかけに近づく等々)の普遍性を差し置いて、そこにある「二人だけの世界」なのだという、いわば<私性>を際立たせ、結果として観客一人ひとりが有する「二人だけの世界」を想起させてきているのかもしれません。
(と言いつつ、本来の観客層はそのアーティストやその曲(もっと言えば港の声を当てている片寄涼太)に親しみを持つ者なのだとすると、そんな効果はかなり限定的だろうということになりますが……)
4.あとがき:これで良いのか?
ひとつ「恋愛もの」の見方を獲得できた気がしまして、そういう意味で良かった気がしています。
とはいえ、その見方が適切というか、作り手に想定されているものとはあまり思えていないので、引き続き恋愛もののハードルの高さは拭えていません。「花束みたいな恋をした」も結局見られていない。
しかし、これ以上なく密々とした「二人だけの世界」を描く恋愛ものをこの蒸し暑い中で更に見ていくというのは、サウナに飛び込むような辛さがある気もします。
あるいは、パラリンピックも終わってきっと少しは涼しくなってきて、きっと「密」がもう少し許される状況になったら、あるいは、なんて。うわ。
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