#21 ヨッシャマンと無為の極意
のっけからなんだが、今日はヨッシャマンの秘密基地を紹介しよう。
私はこのアジトを、「座・トランアングル」と呼んでいる。
食事、書き物は座椅子で。
寝転がる、テレビを観るのはソファー。
読書、スマホいじりはハンモック。
この3つの「イス」で私のリビング生活はほぼ完結してしまう。
バミューダトライアングルみたいなもので、はまりこむと抜け出せない。特に出かける用事がなければ私は大体この海域にいる。
消息不明の場合は、ここかM78星雲を探してもらえればいると思う。
今日もいつものようにハンモックに揺られながら本を読んでいたら、何か匂う。
老人の臭いがする。
加齢臭を飛び級してしまったのかと焦った。
が、服やハンモックをくんくんしても特に匂いはない。
はて何だろうと足で稼ぐ刑事みたいに嗅ぎ回っていたら、臭いの元はゴミ箱だと分かった。
私が壊滅を心から願っている町内会の川ざらいというのがあって、そこでヘドロまみれになった軍手をそのまま放り込んでいたのだ。
衝撃の発見をしてしまった。
ヘドロを薄めると老人臭になる。
恐ろしいことだ。
体がヘドロ化していくということではあるまいか。
ゴミ袋の口を縛ったことで、空中のヘドリアン達はおとなしくなっていったが、やはり人間も「血管ざらい」をしておく必要があるなと感じたのであった。
そこで読書の続きに戻ったわけだが、読んでいたのは#18で出演していただいた山田鷹夫さん(鷹師匠)の続編。
「人は食べなくても生きられる」から10年後に書かれた「無人島、不食130日」だ。
もう、タイトルで無双の変態だと分かる。
ネタばれは極力最小限に抑えたいのだけれど、とにかく私が衝撃を受けた部分があったので、そのまま抜粋させていただきたい。
「人は食べなくてもいい。
食べるからまた食べたくなるのだ。
人は何もしなくていい。
するからさらにまたやりたくなるのだ。
無為こそ最上の生である」
※無許可の掲載をお許し下さい。
訴えられた場合は、土下座で許してもらう覚悟の上です。
私もすぐには飲み込めなかった。
「無為こそ最上の生である」と鷹師匠は言う。
無為。
何も為さない。何もしないこと。
それが至福であると言う。
そうだろうか?やりたいことをやる。それが最上の人生ではないのだろうか?
私はそう思って生きてきた。
しかし、彼はもっと上を観ていたのである。
私なりに無為について書いてみたい。
まずは、「やりたいこと」を「欲」と言い換えると掴みやすいかもしれないと思った。
というのも、欲というのは「消えた瞬間」が一番気持ち良いと私は思うからだ。
オーガズムが分かりやすい。絶頂に達したときに荒ぶる性欲が消える。一番気持ちいいのは、絶頂の後の「空白」だ。もしや、これが無為の喜びなのではなかろうか?
食べる、を考えてみる。
一番美味しいのは何と言っても一口目だ。あの瞬間になんとも幸せな気分になる。一口目も十口目も味は同じはずなのに。空腹を満たすことが幸せなら、満腹に近いほうが美味しく感じてもおかしくないのに、そうはならない。「食欲」が消えた瞬間が至福になる。
排泄はどうか?
うんこを限界まで我慢した状態で、公衆便所という救いのオアシスに突進している人に対して、
「5分だけ私の話を聞いてくれたら百万円あげますよ」
と言ったところで華麗に既聞スルーされるだろう。
そこまで強い排泄欲を手放した瞬間ときたらどうだ。便器こそが世界で最も幸福な場所なのだと天を仰ぎ見る。そうではないか?
睡眠は?
眠りたいという欲が消えて、ただ落ちていくあの瞬間がエクスタシーではないだろうか。
「欲が消えた瞬間が一番気持ちいい」という私の感覚と仮説が正しいとするなら、こうも言えるのではないだろうか。
「やりたいことがなくなった時が一番楽しい」
ちょっと飛躍した仮説だったかもしれない。
試しに、無為を意識して休日を過ごしてみた。
まったく予定をいれずに、何もしなくて良い日を作る。
その朝の目覚めといったら最高だった。
その朝の気分だけで1日分の幸福は十分味わった気がした。
無為、すげー!と思った。
しなくてはいけないことがない日。何もしなくていい。
それでもしたいことは出てくる。コーヒー飲みたいな、とか窓を開けて風を入れたいとか、ソーラーパワーを充電したいとか。
本を読みたいな、と思って読む。楽しい。
もういいかな、と思って本を閉じるとやることがない。これまた楽しい。
実験の結果、
幸せの無限ループやんけ!
ということが判明した。
やりたいことをやるのは楽しい。で、やりたいことがなくなった瞬間に至福がくる。で、またやりたいことが出てくる……
なんなんだ、これは。
こんな面白いシステムを誰が考えたのだ。
フライドポテトみたいだ。
とまぁ、私は興奮しているわけだが、それというのも私は休日の過ごし方が下手だったからだ。
ゴロゴロしていると罪悪感があった。
充実しないともったいないと思っていて、色々予定をいれたりした。確かに満足感はあったが、どこか追いたてられているような気分だった。
少しでも空いた時間があると何かで埋めようとした。退屈が怖かったのだと思う。
それこそ、もったいないことをした。無為の至福という最高の生があったのに。
本当に不思議なのだけれど、何もしないでいると虚無感が消える。
もしこれを知らないままだったら、私は永遠に砂漠に水をまき続けていたかもしれない。
何もしないことがこんなに楽しいとは!
そんなわけで、私は無為の達人になりたいと思っている。
「なりたい」時点で無為ではないのだけれど。
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