見出し画像

「ほら」とスマホで見せることで欠けるもの

住宅地を歩いていると、オリーブの樹を植えている家に遭遇することがある。なんとなく、「西洋」とか「おしゃれ」なイメージがある気もする。鉢植えが多いが、そこに1本オリーブの樹があるだけで、実際、華やかな印象を受ける。不思議だ。

ちょっと前に、友達と散歩をしているときに、オリーブの樹が目に入って、「あ、オリーブだねあれ」と僕が言うと、「よくわかるね」と感心された。

1年間バックパッカーしていたときに、イスラエルにあるベドウィン民族の村に滞在していたことがあった。そこにオリーブ畑があって、収穫もしたことがあるから、街中で見かけると、僕はすぐに「オリーブだ」と気づく。

ガーデニング好きであったり、植物が好きであれば、オリーブだと気づける人はけっこういると思うのだけど、まぁとにかく、このとき僕は、オリーブってものすごく大きくなるんだぜ、ということを友達に伝えたかった。樹齢何百年、さらに千年を超えてくると、それはそれは太い樹になる。

このとき、それを説明するために、僕はスマホで「olive tree huge」などと検索して、その画像を友達に「ほら、すごいでしょ」と見せることを選んだ。そのほうがインパクトもあるだろうし、実際のイメージもわくだろうし。

友達の反応は、「すげぇな」「でか」といった感じで、すぐに次の話題に変わった。


スマホがなかった時代、といっても10年も経っていないかもしれないけど、人々はこういうとき、言葉や体を使って伝えていたはず。というか、自分もそうしていたはずだ。

「もうさ、すげー太いわけよ!」と両手をめいいっぱいに広げたり、「幹を切っただけで立派なテーブルになるレベルだよ!」と伝えたり、そこには自分なりの表現や、うまく伝えられないもどかしさも含まれるかもしれない。

それが、スマホで検索して、「ほら」と見せるだけでよくなった。便利になった。それと同時に、なにかが欠けた。コミュニケーション、なのかもしれない。

そこには「わかりやすさ」や「便利さ」はあっても、聞いた人が「探究心」をくすぐられることはなくなったのかと思う。


言葉で伝えることは、難しい。相手に完璧に伝えることはできない。受け取った相手は、その不完全な情報を元に「こんな感じかな」と頭で想像をすることで、その余白をうめる。それがときには探究心に変わり、「実際に見てみたいな」と思うかもしれない。

なにかを得ると、なにかを失うのは仕方がないことだと思う。ただ、僕は、なにかを説明したいときに、安易にスマホの力を借りるのは、やめようと思った。

スマホが発する情報量よりも、自分が発する情報の量や多様さ、ときには、うまく伝えられないもどかしさも楽しみたい。



いただいたサポートは、おいしいご飯か、さらなるコンテンツ制作の費用に使わせていただきます。