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【百年ニュース】1921(大正10)7月27日(水) 秋田県能代市の豪商,井坂直幹が死去,享年60。水戸藩士,自彊舎・彰考館を経て慶應義塾へ。福沢諭吉宅に寄宿し優秀な成績を修める。時事新報のち大倉組入社。能代に派遣後に独立,秋田木材を創業。電力,鉄工など事業を拡大,地域発展に貢献。別名「木都の父」。

秋田県能代市の豪商井坂直幹いさかなおもとが死去しました。享年は60歳でした。井坂は水戸藩士の子供として、1860年、万延元年に生まれました。幼名は亮太郎と言いました。当時水戸藩の秀才が学ぶ自彊舎じきょうしゃに入学しまして、地元水戸で発達しました水戸学を学びました。水戸学は儒学思想を中心にしながらも、国学や神道を折衷した思想で、のち尊王攘夷運動の思想的原動力になったとされているものです。

井坂はさらに学問を進み、水戸藩の歴史学の編纂局であった彰考館しょうこうかんで資料編集などの仕事をしていましたが、徐々に洋学を志すようになり、彰考館を辞めて上京、福沢諭吉の門下生だった松木直己まつきなおみの推薦を得て、1881(明治14)年に21歳で慶應義塾に入学しました。福沢諭吉宅に寄宿しながら学び、優秀な成績を修めました。

卒業後は福沢諭吉が創刊した日刊新聞社であります時事新報社に入社しましたが、のち大倉組に入社し庶務課長となりました。そして大倉組の関連会社でありました林産商会へ移ると、秋田杉の集積地兼加工場でありました秋田県能代市の林産商会能代支店長となりました。

この林産商会はのち解散することになるのですが、井坂は独立し能代に留まることを決意します。そして林業関連の会社を起業し、のちそれらを集約して秋田木材株式会社を作り社長となります。全国に支店を設置し能代の林業を発展させただけではなく、地元に電気事業や鉄工事業をも起こしまして地域の発展に貢献しました。能代市は、第一次世界大戦の頃には東洋一の木材供給地として知られまして「木都」と呼ばれました。この発展の基礎を作った井坂直幹いさかなおもとは「木都の父」と呼ばれています。

能代市御指南町ごしなんまち井坂直幹いさかなおもと邸の跡は、現在井坂公園として整備されており,井坂の胸像もあります。また1949(昭和24)年の能代大火で唯一焼け残った土蔵は,井坂を顕彰し偉業を伝える「井坂記念館」として無料開放されています。

私は秋田市と男鹿半島までは行ったことがあるのですが、その北の能代市にはまだ行ったことがありません。ぜひ一度行ってみたいものだと思っています。ワタクシの先祖と言いますが、曾祖父・曾祖母は明治時代に新潟と北海道の貿易をやっていたとのことで、北前船の寄港地であります能代にもきっと足を運んだことがあるものと思い、縁を感じています。

井坂直幹

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