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「世界史の中の日本史」 半藤一利 著 平凡社ライブラリー

近衛文麿が首相となる少し前、次女の結婚式の前日に開かれた仮装パーティーで、近衛は、なんとヒトラーに扮していたのです。その写真は以前に見たことがありますが、改めてこの本の中で紹介されていたのを見て、そういう人が、開戦かそれを回避できるかの大事な時期に首相になってしまったのかと思うと複雑な気持ちになります。


ヒトラーやスターリンという信用できるはずもない人たちをなぜ見破れなかったのかとも考えてしまいます。ただ、それは今だから言えることで、僕があの時代に生まれていいたとしたら、俯瞰的に事態を眺めることができたかどうか・・・。


当時、松岡洋右外相の考えは、「日独伊三国同盟の威力をかりて、これにソ連もなんとかして引きこんで、日独伊ソ四国協商の実現をはかる(p.291)」だったのです。これは、すなわち、ヒトラーとスターリンと手を組もうということです。


しかし、ヒトラーは、バルバロッサ作戦を実行し、ソ連に攻め入ります。その時点で松岡の目論みは破綻しているのです。


そして、最初は快進撃を続けていたバルバロッサ作戦は、モスクワに攻め入る前に動きを止めます。近衛文麿内閣が総辞職した1941年10月16日、ヒトラーは不快な報告を受けます。偵察機のパイロットからの「モスクワ方面は一面に数インチの雪で蔽われております」というものです(p.384)。


ドイツ軍は、例年より早めの雪と寒さに阻まれ立ち往生してしまったのです。のちにソ連の将校が、 「ドイツ兵の捕虜を見たとき、将校も兵も全員がぴったりと合う靴をはいていた。ドイツ参謀本部にたいする敬意がいっぺんにぐらついたものである(p.396)」と述べています。ドイツ軍の冬に対する準備がお粗末だったのです。例えば、ソ連軍は、少し大きめの靴を履き、隙間に新聞紙などを詰めるなどによって、寒さを凌ぐ対策をするのが常識だったからです。


イギリスやアメリカは、正確な情報を掴んでいました。また、イギリスとアメリカは、陰でソ連を援助していたのです。


一方、日本はそうした情報を知らず、あるいは一部の人は掴んだかもしれませんが、それが上層部に採用されることはなく、12月1日のその年の第4回目の午前会議で日米開戦が決定され、12月8日に真珠湾攻撃が決行されるのです。万事休す・・・ですね。


しかし、当時、日本の大衆(半藤さんは、「民草」という言葉を使っています)のほとんどは、日米開戦に大喝采でした。こうした歴史を振り返ると、扇動・洗脳に乗っからないことが、いかに大事かと言うことです。勇ましい話には眉に唾をつけて聞かなければと思います。



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