(無姫)

 『無姫』
 メモにはただこれだけ記されていた。
 すれ違った教師が早く下校しなさいと言った。
 日は西のへりぎりぎりのところにある。
 胸が苦しかった。
 起こると予想などしていなかったが当然起こりうる事だけが未来の中を埋め尽くしていて、尚その隙間を通り抜けてゆくことは容易ではなく、またそんなことをしてみても何の意味も無いことは明らかなことで、眩暈をしたようになって風景がふわふわと動き、四五往復して止まり、首を落とした。もうやだとつぶやくが、その予定調和の中に繰み込まれてゆくのは避けられず、口の中がからからに乾燥したようになって、あくびをするみたいに大きく開け、舌をべろべろと振るわせる。同じ毎日が繰り返され、その一方で自分だけは確実に死につつあることは不可解だが、本当のところ別にそれは不可解でもなんでもなく、ただ暗がりの中で自分の影を探しているようなもので、必死に目を凝らすふりをして、本当に必死に目を凝らしてしまうことに全く似ているのだ。
 なんとなく頬がむくんでいるような感じがするので、手を使って触ってみると、しかし、なんとなくその掌も、むくんでいるような気がした。指で下唇を押さえつける。裏側に前歯が当たり、ごりごりと揉む。
 目の少し先の空間の、ぼんやりしたところを見ようと努めるが、ぼんやりに焦点は合わず、中空を凝縮したみたいに見える目前の空間はほんのわずかに歪んで、ゆったりと変形していく。これは駄目だと思うが、目の力みは緩まず、なんということもなく、変形は続いているようにも、止まっているようにも感じられた。手のむくみが気になった。
 あごを強く締めていることに気付き、緩める。焦点がはずれ、廊下の先のほうまで見通しがつく。窓ガラスだけ異質のようである。ぎらりと艶めいたとおもえば、溶けたような光を持ちもする。もし何かがぶち当たればぐわんぐわんと鳴るだろし、掌を付ければ跡が残る。なにより自分の姿に透かしが入り、それ越しに向こうが見える。複雑なことだが、押し付ければ掌と顔のむくみも少しはましになるかもしれない。二三回あえぐ。
 胸が重い。やはりむくんでいるのではないか。指が四本しかない。一本が隠れて見えていない。ひねる。影になっている。もっと手前の、ぼんやりしたところに気が寄ってしまう。緩やかにねじれている。舌が乾く。首をねじ込むように落とすが、暗い。廊下はわずかに光を反射している。

 日はもう沈みかけ、街の輪郭だけが輝いていた。

 すれ違った教師が早く下校しなさいと言った。
 手元のメモを見た。暗がりの中であまり定かではなかったが、ただこれだけ記されていた。
 『無姫』

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