見出し画像

僕は僕の好きなものに脳をハックされたい。例えば「ムーミンは蟻を踏み潰さないように避けたことがあるのかな?」的な。

例えば僕がムーミン好きだとして。

別に好きじゃないけど。ムーミンに出てくるスティンキーがむしろ好きなんだけど。

でも好きなものについて話すとキリが無いから、例えば僕がムーミン好きだとして。

僕はムーミンに部屋をハックされるよりもむしろ脳をハックされたい。

例えば、

白い雲を見たらムーミン(ムーミン空飛んでるよ)/カプチーノの泡を見たらムーミン(ムーミンを飲むよ)/シェービングフォームを見たらムーミン(ムーミンで髭を剃るよ)/ユーミンを見たらムーミン(歌ってくれないの?)/睡眠と聞いたらムーミン(寝顔も可愛いね)/風林火山と聞いたらムーミン火山(噴火も受け止めるって)

つまり、無意識に働きかけるゲシュタルトムーミン。これが脳ハックその一。


次に。

ムーミンは筆箱に何入れているのかな。ムーミンはガストで何を頼むのかな。ムーミンはエスカレーター乗るのどちらかというと得意かな、不得意かな。ムーミンはお風呂に入っていて「あっこんなところにホクロあったんだ」って思う瞬間はあったのかな。いま僕があくびをしている瞬間にムーミンも一緒にあくびをしているのかな。

つまり、想像力に働きかけるイマジナリームーミン。脳ハックその二。

そして僕は遂にムーミンと一体化する。その三、ムーミナルムーミンだ。

足取りが、瞬きが、呼吸が、発声が、ムーミンになる。
さらに五感も、ムーミンになる。外側も内側もムーミンになる。
僕は全身でムーミンを生きるのだ。自我を捨てよ、ムーミンになろう。実存的ムーミン。


以上が、僕なりのムーミンの愛し方だ。

しかしどうだろう、バタイユはこんなことを言っている。

「そしてとくにもはや対象がなくなる。恍惚は愛ではない。愛とは、対象を必要とする所有だ。その対象は、同時に主体の所有者であり、そしてその主体によって所有されている。」
(バタイユ『内的体験 無神学大全』出口裕弘訳、平凡所ライブラリー、1998年、146ページ)

僕の愛し方は、ここでの恍惚に似ていないだろうか。ムーミンを内側から生きるということは。しかしそれは愛ではないと、バタイユは言う。おそるおそる引用を続けてみる。

「だが、もはや主体=対象ではなく、両者のあいだで「大きく口を開く裂け目」があるのだ。そしてその裂け目のなかで、主体と対象は溶解して、移行が、交流が生じるのだが、それは一方から他方への交流ではない。つまり、一方も他方も明確な実存を失ってしまったのである。」
(同上)

ムーミンと僕が溶解して、行ったり来たり……なんてエロティックなのだろう。なんて幸せだろう。まさに恍惚。

まあ、でも、ドロドロになったムーミンは可愛くないし、ここまではいかなくていいや。ここまでくると、カプチーノの中にムーミンを見つけられなくなっちゃうから。

例えば僕が好きなのがムーミンだとして。

今日、夢に出てきたのだ。ムーミンが。僕はR-1ぐらんぷりの決勝の舞台でムーミンを口ずさんでいるおじさんを見て大爆笑していた。ネタ名は「ムーミントラベル」。

時折、僕がムーミンに乗り移っているというか、ムーミンの体で、でも離人症みたくその白い体を後ろから見ている、みたいな夢をみることがある。あんなに幸せなことはない。そんな夢をみるために、僕は二度寝三度寝四度寝をする。でも、そうやって無理やりムーミンを見ようとしてもなかなか見れなくて、ちょっと忙殺されてムーミンのことを考えることが少なくなったころに現れて、また心をかき乱していく。ムーミン、にくい奴。

好きなものに意識無意識の隅々までハックされるのはなんて嬉しいことだろう。
そんな祝福の気持ちで書いた。

でも、本当にムーミンのことは好きじゃないな。と、書きながら改めて思った。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

やったー
4
コントが大好き。趣味で書いている短編会話劇っぽいものなどを載せています。