【No.111】何かしてあげたい、でも・・・。感情移入してしまう人間の苦悩
東日本大震災直後のこと
もうあれから10年以上が経過している。
あのときの衝撃は今でも忘れないしこれからも忘れない。
当時、職業人生の中で一番多忙を極めた時期だったが、震災があったことにより業務が滞る。テレビ映像を観ながら何もやる気が起きず、ただただ呆然としていただけだった。
だんだんと被害状況が見えてくる中、普段からお世話になっている先輩職員が福島県に実家があり、食料物資が届かないらしくどうすればいいのかとかなり取り乱した相談メールがあったため、同期全員に対してどうすれば良い?なんとかしてあげたいというメールを送ったところ、返ってきた答えが、
「個人的な相談は無理だよ」
「国や自治体の指示を待つしかない」
「なんともいえない、この状況下ではどうすることもできない」
当時の自分としては思いがけない返答があったことを今でも覚えている。
たしかにそうだ。個人的な対応なんてこの惨状では無理だ。
同期を責めるつもりはない。皆、気持ちは同じだ。
でも・・・この場で困っている人がいるんだ。困っている人が。
何もしてあげられない無力感とやり場のない怒りに我慢ができず職場のトイレで涙をこぼした。
あのワンシーンが震災直後の自分の心情がよく現れたシーンの一つだった。
感情移入・憑依体質
学生時代から自分でも呆れるくらいの「感情移入体質」だ。
友人から特に多かった恋愛の悩みに乗ると、決まって自分事のように怒ったり、悲しんだり、とにかく喜怒哀楽表現が激しく、相談した友人も、
「あ、あー・・・そんな気持ち込めてくれるなんて。あ、ありがとう・・・」
という具合に、顔が引きつるのが分かるくらい困っていた気がする・・・。
相手の悩みに同調しやすい体質で、それをいいことに騙された経験もあり、とにかく自分でも「冷静に冷静に・・・」と言い聞かせないとどんどん深みに嵌まっていく。
また、noteを始めてから分かったが、「憑依体質」でもあるようだ。
最近思い立って詩やショートショート(今後は短編小説も執筆予定)を書いている。
その登場人物になりきって書くのはどなたも一緒だと思うが、その切り替えスイッチが強いせいか書いた後もその日はずっと余韻が残っており、例えば暗い詩を書いたときは寝て翌朝起きるまで切り替えられずずっと憂鬱な気持ちのままになっている。
ただ、変だと思うが自分としてはその状態がとても心地良いときがあり(中二病か?)、その日はその人物像になりきって過ごしたいので、感情表現をする詩の場合はあえてコメント欄を設けていない。
なぜかというと、コメントされることにより急に現実に引き戻された感が出てしまい何だか書いた詩が恥ずかしくなってくるからだ(もしコメントを入れたかった方がいらっしゃったらスミマセン)。
こんなことなので、憑依が解けた今では以前書いた詩は一度も読み直していない。
何もチカラになれないもどかしさ、悔しさ
noteに出会って辛いのが、過去の辛い経験や現在の厳しい状況(病気、家族、仕事、学校など)を書いていらっしゃるクリエイターさんの記事を読むときだ。
そのような類いの記事にはめっぽう弱い。
記事を読んで泣いたことが数えきれないほど。
昨朝も電車内で読んだときは涙が溢れてきてしまって、ハンカチで汗を拭くふりをしていた(幸い、早出出勤でいつもより早かったので満員電車ではなくて良かった)。
それを読んで何かできるかと言ったら・・・何もできない。
顔も素性も分からないクリエイターさんに何かしてあげたいと願っても一体何ができるのか。
自分でもそれは痛いほど分かっているし、その人の身代わりになんてなれない。
でも・・・どうしても感情が入ってしまう。
この感情移入体質は昔から変わっていなかったことがnoteを通じて再認識した。
こればかりはどうにもならない。
辛くなってくる感情は止められない。
昨朝読んだ記事・・・あまりにも絶句してしまって仕事中も何だか無力感に苛まれ、昨夜、寝る前に読み返したらまた涙がこぼれてしまった。
自分がしてあげられることは
昨朝読んだ記事も含め、自分では直接どうにもできないことを悔やんでも仕方ない。
では、せめてコメントだけでも・・・と思い、以前別の記事に以下のようにコメントした。
「この記事を読んで大泣きしてしまいました・・・」
・・・コメントした後、数日経って振り返ってみて、何だかとても陳腐なコメントをしたと後悔した。
「全米が泣いた!」
はっきり言ってこのキャッチコピー並みに陳腐でふざけたコメントだと思った。
何が泣いただよ?相手のことそんな知らないくせに。そんなコメント、本当に相手は喜んでいるのか?そんなの自己満足だよ、ただの。
感情的になる自分と、冷徹になる自分との間で起こる葛藤。
相手からしたら素性も何も分からない自分のコメントを読んでどう思っているのだろうか。
表向きはお礼を言われるかもしれない。
でもそのクリエイターさんの本当の苦しみなんてきっと誰にも分からない。
分かったようなふりしたコメントが果たして嬉しいのだろうか。
どうしても相手の立場で考えるとそう思ってしまう。
自分がその人の立場だったら?心の底から喜ぶ?
こんなに血を吐くような辛い記事に対して、コメントされたら本当に喜ぶ?
コメントした方も同じ境遇ならいいだろうが、今の自分のような何ら障害がなく平穏に暮らしている人間が分かったようなコメントをするのは、書いている自分自身に対して何だか残念に思う。
そうなるとどうしたらいいのか。
そばに寄り添って助けてあげられないのなら。
それなら、せめてそのクリエイターさんの記事を読んでスキやコメントをし続けること(コメントしづらい記事であればスキだけでも・・・)。
過度の同情はしない。記事に対するリスペクトを大事に前向きなコメントを心がけること。
記事を書いているそのクリエイターさんに感謝の気持ちを伝えること。
このことが、そのクリエイターさんにとってとても励みになるだろうと思う。
また同様の記事を読んで涙ぐんでしまうだろう。でもそれは自分自身の解釈で感じた感情。
相手はそれを望んでいないかもしれない。
同情されたくないのかもしれない。
ただこんな人だと分かってほしいだけかもしれない。
だから、常に相手を尊重し、先ほど書いたことを胸に秘め、今後も接していきたいと思う。
今回の記事を書いているときに、以前上記の記事を書いていたことを思い出した。
どちらも内面に関する記事で、上記は「怒」の記事だったが、今回は「悲」の記事で対になっている。
こういった記事を書くと心底疲れるが、また何かを感じたら執筆すると思う。
40過ぎて感情的な記事を書くのも正直どうかと思うが・・・もう少し冷静な記事を書けるようにしたい。
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