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親の離婚が想像力につながった話

父親が”家族”から「脱退」した。今風に言えば「卒業」ということになるだろうか。

小学6年生の時の話だ。父と母の別居生活はその4年前から始まっていたので、「そりゃそうなるわな。」というのが正直な感想で、悲しさや驚きは全くと言っていいほどなかった。

別居生活が始まって、父が実家に戻った。健気な小学2年生の僕は近況報告に「早く帰ってきてね」というメッセージをつけたショートメールを毎週末父に送った。近況報告には反応するものの、「早く帰ってきてね」には触れない父の反応を毎週末見て、子供の意志は大人を左右できないことを悟った。

だもんで、母から「離婚しようと思うんだけど、どう思う?」と聞かれたときは、素直に「好きにすれば」と答えた。とんでもなくひねた子供に育ってしまったと自分でも思う。

そんなこんなで僕の家庭環境はいわゆる”普通”とは異なっている。

父親がいないことに関して、最近では全く何も思わなくなったが、やっぱり最初のうち、特に小学生の間はいろんなことが辛かった。

特に辛かったりしんどかったり、一番思い悩んだのは日常生活での家族に関する会話だったと思う。

例えば「何人家族?」という何気ない質問に、兄が1人いる僕は当然、母兄僕の「3人」と答える。そうすると、「じゃあ一人っ子なんだね。」と返事が返ってくる。多くの人にとっては家族に母親と父親がいるのは当然だから、「3-2=1」という計算が瞬時になされて、僕は一人っ子になってしまうのだ。

他にも「家族旅行」や「お正月」、その他さまざまなイベントごとに関する話題で、父親がいない僕と父親がいることが当たり前である他者のズレを認識していくことになる。

最初のうちこそ「うちには父親がいなくて…」なんて説明をしていたけれど、あまりに空気が悪くなったり、ばつの悪い思いをさせてしまうことが多かったので、”父親がいる”風を装うようになった。

兄が家を出て独り暮らしを始めたときに「お父さんとお母さんと3人暮らしになっちゃったんだね」と言われ、それに対して「そうなんですよ、寂しいもんです」と適当な笑顔と一緒に無感情で嘘をつけるようになったのは、”父親がいる”演技を十数年続けてきた成果である。

ここで言っておきたいのは、僕は「父親がいる」ことを前提として話をしてくる人たちを責めるつもりは毛頭ないということ。それどころか、父親がいるかどうかの配慮を他人に求めるのはあまりに酷だとすら思っている。

上述したエピソードの、僕を一人っ子とみなした人にも、3人暮らしだと勘違いしてしまった人にも、全く非はないのだ。自分の当たり前に基づいて会話をした結果、僕の当たり前とのズレが生じてしまっただけである。

”当たり前”は誰しもが持っている。人間は主観的に何かを見、何かを聞き、何かを感じて経験を集積していくわけで、”当たり前”から逃れるすべはない。主観的に形成された”当たり前”はその人の”基準”になる。

”当たり前”通りであれば「普通」

”当たり前”通りでなければ「異常」

”当たり前”はすべての前提になって、みんなその上に各々の考えを積み重ねていく。これは「良い」とか「悪い」とかそういう次元の話ではなく、人間とはそういう生き物であるというだけの話だ。

だからこそ、僕たちは「自分が主観で世界を見ている」という事実をハッキリ自覚しておく必要がある。すべての人間が全く同じ生活を送れない以上、自分の認識と他人の認識には必ずといっていい程ズレがある。それを自覚していなければ他人と分かり合うことも、他人を許すこともできない。

僕は他人とのズレを小学生の頃から常に感じていた。その経験はあまりに強烈だった。「自分は他人とは違う」「他人は自分とは違う」、何でもないように思えるかもしれないけれど、僕にとってこの2つの事実はそれ以上の意味を含んでいる。うまく言葉で説明することはできない。

周囲の人間と”違う”ことを意識させられ続けた結果、

「”普通”とは何か」

「”当たり前”とは何か」

を一歩引いて考えられるようになった。

意見の違う人を見かけても、その価値観の出どころを想像するようになった。自分とは全く違う意見の持ち主でも、自分の”当たり前”を飛び越えて、その人にとっての”当たり前”やそれを形成した経験を想像すると、なんとなく理解できるような気がする。

そして他者理解やマイノリティ理解には、この「自分の”当たり前”を飛び越える」ステップが必要だ。各々が自分の常識や普通をぶつけ合うだけでは絶対に他人を理解することなんて不可能だ。(本当に他人を理解することが可能かどうかも疑わしいが)

常日頃から自分の常識を疑うことはできない。僕たちは相当たくさんのことを常識で処理していて、それを疑いだしたら生活がままならなくなる。

だけど、自分とは相容れない存在と出くわした時は”当たり前”を疑ってほしい。想像してみてほしい。その結果理解できなかったとしても、無意識のうちに”当たり前”を振りかざして他者を傷つけてしまうことはなくなるだろうから。

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