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 教員時代に学んだことを忘れないために書き留めたものです。私は教員として、「授業」と「面接・小論文対策」の指導に大きなやりがいを感じていました。

 「授業」では、教科の知識だけでなく「学び方の習得」や「知識の活用」を重視した授業展開を常に目指していました。そのため、学期ごとにいろんなテーマを決めて、クラスを横断して「大航海時代」についてディスカッションをしたり、生徒が「古代ギリシャやローマ」の単元の授業を作ってみんなに説明したり、「フランスの三部会」を実際にやってみたりなど、他の教員と協力して「クラス横断型」の授業にも取り組みました。
 クラスを横断して授業をする理由は、クラスメイトだけでなく、自分の知らない人と一緒に勉強する楽しさを知ってほしいということと、生徒たちのコミュニケーション能力を少しでも上げたいという気持ちがあったからです。
 私にとって初めての取り組みでもあったため、改善点なども複数ありましたが、いつも子ども達に私の授業に対する考えや思いを説明して、生徒達も「せっかくならやってみよう」と納得し積極的に学んでくれました。

 「面接・小論文指導」では、生徒との対話を何よりも大切にしてきました。生徒達は社会とのつながりをあまり実感せずに高校生になっているので、試験対策だけに焦点を当てるのではなく「自分がどう生きたいのか」という自分と向き合うところから始めて、自身の今後のキャリアや大学の進路選択を考えるという方法で取り組んできました。
 質問に対して覚えた回答をするのではなく、自分の正直な気持ちを言葉にすることができるので、大抵の質問には答えることができます。

 「今の自分は、これからどんなことをやりたいと思っているのだろう?」
 この疑問について改めて自分の気持ちと向き合い、自分なりの答えを見つけることができた生徒達は、モチベーションが向上するためその後の辛い受験勉強を粘り強く頑張っていました。

 人物重視で評価する入試の対策をしていて気付いたことがあります。
 それは、
 ① 1つのことについてじっくり深く考える習慣が付いていない
 ② これまで経験してきたことを振り返る習慣が付いていない

これらについて、以下もう少し詳しく述べていきたいと思います。

① 「正解主義がもたらす思考停止状態」

 いつも正解が用意されている勉強をさせられている生徒達は、考える過程の大切さを実感できず、むしろ「面倒なもの」だと捉えがちです。

 私の高校時代は、教科書に沿った内容を先生が黒板にまとめて、それをノートに写し、その内容について説明を聞いていました。
 そして、来る定期考査に備えて教科書の内容と先生の説明を思い出して、テストに出そうなところを予想して勉強します。中には、超人的なクラスメイトもいて、教科書で読んだ内容や説明されたことを一度で吸収できてしまう人もいましたが、基本的にはどの生徒もテストのための勉強、そして先生が求めたことを覚えていくことが、私がかつて持っていた勉強のイメージです。

 しかし、私が教員として勤めていた時も、生徒達の勉強に対するイメージはほとんど変わりませんでした。むしろ大学に行っても就職が保証されているわけではなくなりつつあるので、私の高校生の時よりも不安が強くなっている気がします。
 それでも、社会科の入試問題は大量の知識を暗記することを求める問題傾向が強く、論述式の形式でなければ大抵は暗記重視の勉強となってしまいます。
 そのため、大学進学を希望する生徒が多い高校の授業は、入試までの範囲を終わらせなければならないという焦りもあり、学習内容を深める学びを重視するのではなく、どれだけ入試に向けて学習の範囲を進めるのかということが重視されてしまいがちなのです。
 しかし、今のような「成熟社会」で生きていくためには、既存の知識を詰め込むだけではなく、それらを活用して未知の課題に対処できる力が必要です。その力を身につけることが、今の学校教育にとって大切なことなのですが、それを実践するのはまだ難しいようです。

 このように「質」よりも「量」の勉強を求められてきた生徒にとって、「質」が重視される面接や小論文は苦手意識を持ちやすいと思います。いつも正解が用意されており、独自の思考がほとんど求められないものを大量に消化してきたため、答えのないものや自分なりに答えを出さなければならない場合、思考を掘り下げることに慣れていないために苦痛を感じるのです。

 3年生の授業においてもそれは如実に現れていました。「政治経済」を担当していた時の話です。「三権分立」「パレスチナ問題」「オイルショック」「世界金融危機」など、政治や経済の観点からこれからの社会を考える上で重要なトピックがたくさんあるにも関わらず、生徒達はその中身を覚えようと必死になってしまい、そこから何を感じるか、現代でどんなことに活かせるのかを考える余裕なんてありません。
 レポート課題を出したり、ディベートやディスカッションを通じて学びを深めたいと思っていたのですが、「受験」という不安が子ども達から冷静な判断を奪ってしまい、どの生徒も休み時間ですらも一問一答や参考書とにらめっこをしている状況で、むしろ何か参考書を開いていないと不安だというぐらいに感じました。

 「学びとは何か」「何を学ぶのか」「何のために学ぶのか」という問いに対する考えがある程度生徒達と一致していないと、授業展開を大きく変えることはむしろ生徒達を混乱させてしまうと思っていました。
 そのため、授業のクオリティを「主体的対話的で深い学び」にまで高めることは困難で、チャレンジしたいけれど生徒達にとっての入試の勉強も疎かにできないという板挟みのような状態でした。
 自分なりの視点を持って勉強する習慣が付いていれば、面接や小論文などにおいても準備しやすいのです。しかし、生徒達はいざ面接の準備を始めようとすると「自己分析」の段階でつまずいてしまいます。それは決して彼らの能力の問題ではなく、学び方の問題によるものです。

② 「常に何かに追われ、立ち止まる大切さに気づかない」

 私が勤めていた高校は、教員も生徒も共に忙しい毎日を送っていました。特に学習面においては、予習や小テストの勉強、問題集を解いておくなどの課題が多く、生徒に負担がかかり過ぎていることが職員会議でも問題視されていました。
 それにも関わらず、教科間での連携が上手くとれず、なかなか改善されなかったのです。
 課題の内容についても、教員が「放っておいたら生徒達は自分たちでやらないから」と決めつけてしまい、多くの課題は「何ページまで問題集(あるいはワーク)を解いておきなさい」などと指示し、提出日を決めて提出させる形式でした。結局、生徒達はなぜそれをやる必要があるのか理解しないまま課題を出され、提出しなければ自分の成績に影響が出るため、多くの生徒は提出期限ギリギリに解答を写して提出し、教員はそれをわざわざ一つ一つチェックするという無駄とも考えられる時間を過ごしてしまっているのです。生徒が自主的にでやらないから強制的に出させるのではなく、自ら取り組めるようにうまくサポートするのが私たち教員の役割なのではないでしょうか。

 私はワークなどの課題の確認をするまでの時間的余裕はなかったので、私が課していた生徒からの提出物は、毎回授業の最後に書いてもらうコミュニケーションペーパーと、授業中に取り組む考察系の課題のみにしぼっていました。
 授業中に提出された課題を見れば、その生徒がコツコツ自学している生徒かそうでないかは大抵把握できます。
 また、私が勤めていた高校の生徒達は「読書習慣」というものをほとんど持っておりません。「授業で議論するために本を一冊読む」ような課題もなく、学校が休みの日でもほとんど部活動があり、たまにあるオフは遊びに行ったりするので、生徒達はほとんど本を読まなくなってしまいます。すると、考える視野が広がらず、自分と社会の関わりについて考える機会が奪われてしまいます。

 これは余談ですが、私が担任した学年からポートフォリオの活用がスタートしました。これについても、日頃の授業などで自分の活動に対して振り返りをするトレーニングを受けていないため、生徒達はどのようにポートフォリオを活用して良いのかわからないのです。ポートフォリオの入力だけは期日を決めて生徒に求められますが、実は学校の教員もそれをどう活用するのか、何のために活用するものなのかを理解できないままでいるのも現状です。

「じっくり深く考えを巡らせる時間」をどれだけ持ってきたか

 これまで述べてきたような、忙しく走り続けなければいけない生活の中では、1つのことについてじっくり考えたり、自分のこれまでの行いを振り返る時間はなかなか取れません。
 それは教える立場の人間ができていない以上、生徒達に伝えることは不可能です。これは、面接や小論文の準備が必要になった時に限らず、人生で何か困難にぶつかった時に苦労することになりかねません。

「なぜこの分野に興味があるのか」
「あなたはどんな経験をしてどんなことを学んだのか」
「社会に出て自分はどうありたいのか」

 面接の準備のための面談をすると、生徒からすぐに面接用の模範解答みたいなものを求められたりするのですが、そこはじっと堪えて生徒自身から言葉が出てくるのをひたすら待ちます。そして、やっとのことで自分についてまとめることができたとしても、次の難題が待ち構えているのです。

論理的に話すというアウトプットができない

 多くの生徒が、自分の考えを論理的に話すことが苦手でした。なぜなら、授業には議論の文化はあまりなく、話し合いをするにしても答えの決まったものが多いため、自分の立てた論点で相手に考えを伝えるということに慣れていません。
 私の同僚で、教員経験の長い同僚ですらもディベートとディスカッションの違いが分かっていない人がいたことも驚きでした。
 論理的に話すトレーニングを受けていない生徒は、上手く話せるようになるまでにかなりの時間がかかります。また、暗記が得意と思っている生徒は用意した回答を暗記しようとします。

 毎年こういった生徒を見てきて、その都度深く考え振り返ることが少ない教育に疑問を抱くようになりました。
 社会に出てから本当に必要なのは、子ども達が面接や小論文の試験で求められる「自分の考えを持ち、それを相手に正確に伝えること」であるのは間違いありません。その力は、マーク式の問題では付けることができないのです。
 子ども達が社会に出てお互いを尊重しながら幸せに生きられるように、教育の役割について私ももっと深く考えていきたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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