見出し画像

「革」なめし職人の息子たちは、「川」で戦友を知る ~虐げられるを隠すか否か~

今日は、革業界のドンこと「オーガキさん」と電話で話していた。オーガキさんは日本最大級の革の産地、姫路の皮なめし職人の三代目。パリコレの日本代表の革制作を一手に引き受けている御人だ。

あ、「皮なめし」っていうのは、獣の皮を腐らないように製品として加工する技術ね。日本では主に、食肉として養殖される牛や豚の皮が活用されている。

オーガキさんが「この間、イッセイがさ~」と言ったら、高橋一生でもいしだ壱成でもなく、イッセイ・ミヤケのこと。コラボして作品とかつくってたらしい。どこにでもいそうな作業着の職人さんなのに、話のスケールがデカい。

オーガキさんとは、狩猟雑誌の取材でお知り合いになった。もうすぐ70代の入口が見えているにも関わらず、なんでも面白がる底知れぬパワーをお持ちで、ビジネスや生き方などいろいろと勉強させてもらっている。とても気さくな方なので、わたしもついベラベラと自分のことを話してしまい、今に至っている。

そんなオーガキさんとの会話から、気づいたことがあった。

わたしが「虐待を経験した人の取材をしている」とこぼすと、ふとオーガキさんは自分が小学生のころの話をはじめたのだ。

オーガキ少年が小学生のころは、親は子どもを学校に行かせたがらなかったそうだ。「学校なんていいから家を手伝え」が口癖で、皮なめしの作業をさせた。特に始業式や終業式なんてのはムダだと、出席もさせてもらえなかったんだと。

当時、獣の毛皮を「革製品」として加工するためには、近くの市川という大きな川に何日もさらさなくてはならなかった。ハイシ―ズンは、水中のバクテリアが活動を休止する寒い冬だ。幼い少年、少女たちは、凍える水に濡れながら、授業にも出してもらえずその作業を手伝った。家長がぶん殴るとか、全然当たり前。

これって、虐待だと思う?

オーガキさんは、そうは思ってない。周りは、みんな革職人の子どもたちで、同じ辛酸を舐めていたから。川で凍えて毛皮を持ちながら、後ろを振り返ると、同級生が同じことをさせられているなんて日常茶飯事。みんなと同じ理不尽さを味わい、そこには戦友がいたのだ。

で、思ったんだけどさ。もしかしたら、虐げられたときの傷って、「比較」と「孤独」から生まれるのかもしれない。親の行為そのものではなく。

自分も周りもツラいって知っていたら、そこに孤独はない。家庭のことを隠そうとは思わず、むしろ共有できる。共通の敵――ここでは親かな?――に向かい、それは青春の1ページにすらなるかもしれない。実際、革職人の子どもたちは、放課後活動が強制の部活に入ったり、あの手この手で親から逃れようとしたという。戦時中のように「みんながツラい」ならば乗り越えられるのだ。

だけど、現代の虐待(取材してる感じだと60年代以降だろうか)からは、違う。サラリーマンも増え、「安定した家庭」と「荒れた家庭」のギャップが広がっているように思う。荒れた家庭の子は、「こんなのはウチだけ」と孤独感から心に蓋をして、すぐに手当てをすれば治ったはずの傷をジクジクと膿ませていくのだ。

そう思うと、高度経済成長の1960年代~ネット掲示板などが流行る2000年までに子どもだった人って、虐待におけるロストジェネレーションなのかもしれない。安定した家と荒れた家の格差が出はじめ、なおかつネットで同じ境遇の人とつながれない期間。

主に、今の30~50代なのかな。

彼らの中には、後遺症から人間関係が破たんしていたり、精神科ジプシーになっている人も多い。(ちなみに自分もどんぴしゃストライクゾーンだ、今は楽しくやってるけど)。要するに仕事や恋愛が続かないの。でも、何も知らない人たちからは、「ただの困ったちゃん」「面倒な人」で片づけられてしまっているようにも見える。

孤独だったから、勉強熱心な人が多いんです。人の気持ちをくめる優しい人が多いんです。

今って少子化じゃん? 労働マンパワー減ってるじゃん? この虐待ロスジェネにもっと優しくなれば、結果的に生産力も上がるんじゃないかなぁ。


カラス雑誌「CROW'S」の制作費や、虐待サバイバーさんに取材しにいくための交通費として、ありがたく使わせていただきます!!