歴史と経済69〜学ぶ楽しさ〜

学ぶ楽しさを伝える。
学ぶことは楽しい。
一生かけてやる価値があるものだ。


それは多くの学問で経験できる。
学問というからには、「問う」ことをせねばならない。
一見すると、人間が疑問に思うことの多くに解答が与えられているように思えるかもしれない。
しかし、実際はまだまだ分からないことの方が多い。
世の中は謎だらけ。
その謎を生み出しているのが人間であり、謎を認知するのもまた、人間である。
つまり、いかに「問い」を設定するか。
「問い」を発見する力が人間たる所以だと言えるのかもしれない。


高校まで勉強している範囲のことでは、模範解答が与えられている。
そして、より多くの正答率を競うのだ。
しかし、実際の社会はおろか、どの学問分野を見ても最前線では何らかの問いにぶつかって呻吟している。


正解があることは決して当たり前ではない。
既存の知識が正解であるとも限らない。
この前提に立つ必要がある。
新たに解答を作り出す必要性があるかもしれない。
こうした事態に立ち至った時、何ともスリリングに思えないだろうか。
既に解明されたことを知ることがこれまでの勉強であった。
いかに多くのことを知っているかが問われていた。
知っている量で勝負していた時代があった。


しかし、今では他者と協力することで、問いの改善策や最適解に一歩でも近づくというような「回答」が求められている。
もちろん、ベストアンサーが出来るに越したことはないのだけれども。
しかし、その「ベスト」の基準がそもそも正しいのかを疑うことは忘れてはならない。


世の中には情報がゴマンとある。
だから、その全体像を知ることでさえ困難な作業である。
それでも、自分自身で「問う」ことの価値はある。
こんな時代だからこそ、その問いに対する解答は得られる可能性が高い。
テクノロジーの恩恵である。
もしかしたら自分が心底疑問に思ったことは100年前に誰かが解明済みだったことがわかり、その問いの次の段階を知ることになるかもしれない。
すごい偉人がいるもんだと過去の歴史から学べる。
同時に、どんな疑問を持っても解決されているかもしれないという期待も抱くことができるであろう。
しかし、人類の知性にも現状があるのであって、突破できていない「壁」は確実に存在しているのだ。


あまたの天才たちを相手どり、自分ごとき一個人の「問い」や「疑問」が見過ごされているなんてことがあるだろうか。
そう考えて、自分を安く値踏みしてしまうこともあるだろう。

しかし、人類はそれこそ無限に問い続けられる生き物なのではないだろうか。
問いを持ち続けて、新たな新境地を確立し、文明を発展させてきた。


「問い」は個人の人生や時代によって、その内容は変わりうる。


自分の問いから即座に、効率的に「解」が得られるのを良しとする時代があった。
しかし、すぐに解決できる問題ばかりであれば、論争など起きていないだろう。
問いを生み出す人間同士だからこそ、絶え間ない論争が起こる。
問いに答えるべく、じっくり迫っていくことに楽しさが見えることがある。
すぐに答えが得られない焦ったさが、魅力に思えるかもしれない。
そして、その謎を誰も追いかけていない時ほど、その追究に燃え、没頭できるものだ。
自分で見つけた「問い」に納得できる「答え」を与えられたとき、学ぶ醍醐味が最大化さされるのではないだろうか。
学ぶ楽しさを味わうことができる。


同時に問いの質を高めたり、新しい分野を切り開いたり、あるいは創作する時においても入念に関連分野を洗い出すことになる。
これが勉強と言われる部分に該当する。
しかし、最後にはそれらを学んで自分が何を思うのかが勝負である。
それは自分の気質や心、あるいは環境といったもの掛け算で導出されるであろう。


経済を知り、歴史を紐解いて、社会を知る。
企業を知り、化学を紐解き、宇宙を知る。


奥に進めば進むほど、広大な世界が広がっている。
その中で、たった一つの問いを追い続けることでその世界の拡大に貢献できるかもしれない。
その広大な世界は、過去の人々の「問い」の追究によって生まれたものだ。
そして、今の時代でもその「知の格闘」は求められている。

「知りたい」という追究する姿勢が、自分を世界に飛び込ませる。
時代は今、「学ぶ楽しさ」を共有し、知恵を結集する時代に差し掛かっている。

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