歴史と経済73〜権利保障〜

国民国家という枠組みが出来て久しい。
私たちの中で、既に当たり前の存在になりつつあり、これに代わる枠組みが生まれることは容易には想像できない。
日本は島国であるため、国民国家としての単位は分かり易い。
言語も民族も統一性が見られる。


しかし、多民族国家はなかなか国家としてのアイデンティティを一概に見出すことができないのではないか。
それは、宗教であったり、イデオロギーであったり、経済システムであったりする。


歴史的には国家制度が整ってくるにつれて、そこに所属する国民はさまざまな権利保障を享受してきた。
現在の日本では、社会保障制度が整えられ、疾病や高齢化などの人生のリスクにも対応している。

一方で、近年の日本では移民が増加してきている。
移民の人々は日本に入国し、人としての権利を享受できているだろうか。
この観点から考えた時、国籍への所属が権利提供を生み出しているということに気づく。
その国に属していることで、人権が最大限保障されることとなる。
そして、移民してきた外国人への権利保障が十分ではないということが問題になってきている。


労働力として日本社会の支え手となっている移民の人々に対して、一部の人権が剥奪されているという状況はこれから深く考えていかねばならない問題であろう。


そもそも人間がどこの国に生まれるかはコントロールしようがないことである。
権利保障が整備されている日本に偶然生まれ、そのサービスを享受できる。
保障が不十分な国に偶然生まれ、本来人として受けられるべきサービスを享受できない。
これは現在の国民国家の枠組みでは解決できていない課題ではないだろうか。

世界のどのエリアで生まれても、人権が保障されている世界の枠組みとはどのようなものだろうか。
それを支えるシステムとはいかなる機構だろう。

現在当たり前に定着している国民国家の中で権利と制度の衝突が見られるようになっている。
そして、移民の増加が現行システムの穴の部分を露呈させている。
こうなってくると、次なる統治政府のあり方が模索されてもおかしくないであろう。
ルソーのような国家統治の仕組みを説く人物が現れ、新しい統治機構がいつか現れるかもしれない。


明日の話ではないにしろ、私たちの今のこの国民国家という枠組みは変化しうるものだということを認識しておく必要性はありそうだ。

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