歴史と経済71〜パフォーマンス評価〜

パフォーマンスで人の学力を評価する。
そんな流れが教育界で起きてきている。
パフォーマンスはレポートやプレゼン、劇化、面接など多様な方法で総合的な知識を問うことができる。
そこには、学習者の思考や判断などが表れてくるであろう。


これまではペーパーテストで言わば画一的な知識の定着を見ていた。
得点が算出されることで評価もしやすい。
しかし、パフォーマンス評価は知識が「使える」ことを重視する。
実際の社会においても知っているだけでは評価されない。
知っている上で、「何ができるか」が重視される。


たとえば、第二次世界大戦のことを授業で習っても、思うことは学習者それぞれにあるあろう。
第二次世界大戦という出来事を単なる知識として知っているだけでなく、それが起きた時代的な背景や人々の対応に至るまで幅広く知ることが深い理解につながる。
そして、平和につなげるためには何が大切なのかを考えてみたときに、それは人によって着眼点や意見が異なってくる。
経済をあげる者もいれば、条約などの国際的な結びつきをあげる者もいる。
この違いを楽しみ、ここから学ぶことこそが重要な点である。
リアルなそれぞれの視点や意見の違いから多くのことを学ぶことができる。


パフォーマンス評価で知識は定着するのだろうかという疑問も出される。
しかし、知識の定着はむしろ大前提ではないだろうか。
身に付けていないものは、そもそも使えないのだから。
人の意見と比較するためには、単語的な知識は当然習得されていなければならない。
むしろ、単に知っている段階を超えて行くところに、パフォーマンス評価の本領があるのだ。


英語ひとつとっても同様のことが言える。
誰もが英語を自由に話せるようになりたいと思っているのではないか。
多くの大人が中学校から英語を勉強しているにも関わらず(現在は小学校から)、なぜ話せるようにならないのだろうか。
これもやはり知って終わりになっているからではないか。
自由に思うがままに「使う」経験が圧倒的に少ないのだ。
「自由に」といっても、初学者が自由に使えるようにはもちろんならないのであって、自由に使うための環境や仕組みが重要になる。
このため、教員や指導方法の果たす役割は大きい。


もっと大きな見方をすれば、英語はあくまでもツールに過ぎない。
英語自体が単なる知識だと捉えることもできるだろう。
海外に出向けば、英語が話せる日本人といっても大概はネイティブの発話能力には劣るであろう。
その中で、英語でどんなことを考え、何を語ることができるのかが大切である。
ここでもやはり、「英語が話せること」は大前提として扱われ、そのツールをもとにその人なりの考えや価値観、未来へのビジョンなどを伝える力が試される。
つまり、英語に自分の価値観あるいは専門分野を掛け合わせてこそ、英語の本領が発揮されるのである。
たとえば、日本文化に通じているとか、プログラミングができるなどの自分なりの武器があってこそ、英語を使って世界とつながることができる。


知識の活用方法によってその人の個性は現れてくる。
その個性が学びの多様性を担保し、学びを深めていくことにつながる。
その人の視野や知識の定着度も窺い知れる。
細かいところまでカバーしているかも分かってしまう。
そして、学ぶ側の負荷は高い。
単に用語を記述するだけでなく、レポートで論述したり、口頭で説明したりするのは高度な能力となるであろう。

それだけに、教える側にも相応の能力が要求される。
教える側は、学習者が興味を持つことができる問いを一貫して追究できるように指導して行くべきであり、その分野の隅から隅までを熟知し、実際の指導力(これこそパフォーマンス!)も求められるであろう。


一見学習者の自由度が高そうに見えても、パフォーマンスだからといって、実際には指導者のリードがなければ、学習者はどう勉強すればいいのか分からなくなってしまう。
舵取りを誤れば、統制を失って空中分解する展開もありうるだろう。
狭い視野の中を右往左往する者もいれば、自由気ままに一般性を欠く追究に熱をあげる者も出てくることとなる。
大事なのは、入念な計画と準備のもと、皆が同じ問題について多面的に考える学習過程である。


そのために、指導者はかなりの労力が要求されることになるだろう。
そして、学ぶ側も自分の持てる限りの知性を最大限発揮して挑まねばならない。
パフォーマンスを評価するためには教える側、学ぶ側双方が力を尽くす必要がある。


ただし、ここで双方が発揮したエネルギーは徒労に終わらない。
豊かな学びが期待できる。


継続すれば、個人の中に慣れが生じ、人の意見を聞いて刺激を受ける。
こうやって人間は力をつけていくのではないだろうか。
学習の意義は人とのコミュニケーションを介して、より高い成果物を出すことにあるだろう。
このような力を獲得することで、実際の社会にも通用する力を育むことができる。


人間の知識に出会うのではなく、思考や価値観の出会いを求めていく。
最終的に指導者と学習者は、双方に「活用」を求め合うことで互いの力を高め合える関係になることができる。

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